私の引き出し

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川本 三郎 著 『青いお皿の特別料理』

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 あれっ?

 この人物さっきの主人公じゃないか。そうか、高校の同じクラブだったのか。さらにいつも行く美容院の担当者だったり、花屋の店員だったりする。さらに彼氏の新しい就職先、前の話の主人公のところだったり、彼女の再就職先がこの人のところだったり、17篇の短編の登場人物が何らかの形でつながっている。これは面白い。それでそれらの短編の登場人物がどこの話の誰につながっているのか、簡単な相関関係図を自分で作ってみると、なかなかうまくできているもんだ、と感心する。

 まずはで(大倉)隆夫と紀子夫婦は、函館が猛吹雪で飛行機が欠航してしまったので、一日時間が空いてしまう。そこで在職中よく宿泊したシティ・ホテルに泊まることにする。
 そのホテルに宿泊していた女性が荒川に行くにはどうすればいいか、フロントに尋ねるが、フロントが戸惑っているのを隆夫が助け船を出して、荒川までの路線を教える。これが「川を見に行った日」の女性(増田)である。社長が亡くなってしまったのでインテリアデザイン事務所を閉鎖になり、いったん故郷に帰ろうとしていた。そして自らの男女の関係も清算する。

 隆夫(「飛行機が欠航になって」の主人公)は(野田)誠に中学時代からの友人太田が亡くなったことを伝えた。この話が「友が逝く」である。

 そしてその太田が井の頭公園でケヤキの絵を描いている時に声を掛けたのが佐原(真由美)であった。佐原は公園で昼の弁当を食べるのを楽しみにここへ来ていた。佐原は花屋で働いていた。その交友が描かれているのが「マユミの花」である。

 そして「水田のパラソル」では定年前に房総に新設大学に呼ばれた夫は「友が逝く」の誠の兄で、その妻の美容院の担当が「マユミの花」の佐原と一緒に住んでいる由美子であった。

 その由美子の後輩である麻里子の話が「メンメの夏」である。知床半島の羅臼の漁師の家で生まれた彼女は母親から父が採ってきた魚を送ってもらっている。

 設計事務所を開こうとしている岡崎はアシスタントの新井君を迎え、さらに「川を見に行った日」でインテリアデザイン事務所で働いていた女性こと、増田さんを迎えることになっていた。それが「事務所開き」である。

 ツアーコンダクターの彼女(香枝子)の母親が「水田のパラソル」の房総の新設大学に呼ばれた夫(誠の兄)の妻であった。この母親致命的に料理がまずい。しかし両親が住むマンショに帰り、母親の料理を食べたら美味しかったというのが「モヤシのひげ根」である。

 「川を見に行った日」の増田の上司であった小倉は、「友が逝く」、「マユミの花」で出てくる太田と植物画教室知り合い、太田から再就職先として照明会社を紹介されていた。その話が「再び咲き」である。

 「落葉を焚く」は「モヤシのひげ根」のツアーコンダクターの香枝子の隣に住む陽子の父親は函館で写真館を開いていた。
 その写真館のショーウィンドウに飾られていた写真は、この函館で古本屋を開いていた亡くなった主人の写真であった。
 「古本を仕入れに」の陽造と娘の夫義郎は店じまいの在庫処理のため、この函館に仕入に来ていた。

 「青空のピラカンサ」の小倉文子の娘みっちゃんは、美容院のお客でもあり、その美容院は昼食をみんなで回り持ちで作る。その時みっちゃんも参加する。その話が「みんなで昼食を」である。

 「そば屋の浮き燗」は信用組合に勤める高石謙一がよく通う「古本を仕入れに」の陽造の店で評判の悪い居酒屋がついに閉店したことを話した。
 陽造は高石をそば屋に連れて行き、店を経営するものにとって、たとえ評判が悪くて閉店したとしても、そんな話は聞きたくないものだ。まして地元に寄り添わなければならない信用組合の人間が言うことじゃない、と説教をする。

 「スタイリストの春」では富美子の彼である大原君が「水田のパラソル」で出てくる男の大学に就職が決まりそうだ、という話で、その面接に行くのにボサボサの頭ではまずいからということで、美容師の文子が大原君の髪を刈ってやる話。

 「木に酒を注ぐ」は「マユミの花」の花屋の佐原真由美たちが住むマンションの大家夫妻の話。大家の庭の管理を真由美も一緒にしている。今はもう一緒に住んでいない美容師の由美子がこのマンションに住む時、真由美が花屋で働いているから庭に手入れも一緒に出来るということで、いい条件で住めることになった。その由美子は小笠原で店をやることになり、代わりに「メンメの夏」の後輩の麻里子が一緒に住んでいた。

 「オジギゾウ」の岡崎祐子のよく通う花屋が真由美の店で、真由美から真由美の住む大家の庭から『うち出の花』(明治時代まだ町に花屋がない頃、人の家に行く時自分の庭に咲いている花を切り花にして持っていくこと)としてオジギソウをプレゼントされた。
 その大家の庭で花見を兼ねて、麻里子の実家から送ってもらった魚でバーベキューをするから一緒にどうですか、と誘われ、後輩の中川真理子と一緒に参加する。

 ということで17篇ある話が、次の話に変わる時、前の主人公たちがその話に関わってくるというスタイルになっている。面白い構成である。
 もともと川本さんは町歩きが好きな人である。その何気ない商店街を歩いているうちに、そこで普通に暮らす人々といろいろな話を聞いてきたに違いない。そして気に入った町ではその飾らない町の人々に心を寄せてきただけに、こうした話が出来る。そんな川本さんならいい話が書けるだろうと思っていた。
 ただ残念なことに17篇の短編の構成に凝りすぎてしまったために、一篇一篇の話が軽くなりすぎてしまったところがある。もちろん中には「そば屋の浮き燗」のようにいい話もあるが、その点が残念である。もっと内容に味あるものが川本さんなら書けそうな気がする。
 
 
川本 三郎 著 『青いお皿の特別料理』 NHK出版(2003/03発売)


# by office_kmoto | 2017-09-22 06:32 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

川本 三郎 著 『マイ・バック・ページ―ある60年代の物語』

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 一九六九年四月、私は「週刊朝日」の記者となった。大学を卒業し、一年間、就職浪人をして記者になった。まだ二十五歳だった。可能性は無限にあり、なんでも出来るんだという若い気負いがあった。

 その年の1月には東大安田講堂事件があり、全共闘運動は後退しつつも、まだ大学にはバリケードが残っていた。ベ平連のベトナム反戦デモが繰りかえされ、ローリング・ストーンズが次々にヒット曲を連発していた。
 アメリカでは『俺たちに明日はない』『真夜中のカーボーイ』『イージー・ライダー』といったいわゆるアメリカン・ニューシネマがぞくぞくと作られる。大学だけでなく高校にも全共闘運動が広がっていった。
 7月にはアポロ11号が月面着陸し、ウッドストックで野外コンサートが開かれ、“ラヴ&ピース”の40万人の熱狂が日本にも伝えられた。ビートルズの「ゲット・バック」やフィフス・ディメンションの「アクエリアス」がヒットした。
 いわゆる「カンターカルチャー」が叫ばれた熱い時代であった。
 ウィキペディアによると、

 カウンターカルチャーとは、既存の、あるいは主流の体制的な文化に対抗する文化(対抗文化)という意味である。 1960年代後半〜70年代前半にかけてよく使われた。 狭義にはヒッピー文化や、1969年のウッドストックに代表されるような当時のロック音楽を差すものである。
 
 そして全共闘とは、

 全学共闘会議(ぜんがくきょうとうかいぎ)は、1968年から1969年にかけて日本の各大学で学生運動がバリケードストライキを含む実力闘争として行われた際に、ブントや三派全学連などが学部やセクトを超えた運動として組織した大学内の連合体。略して全共闘(ぜんきょうとう)。
 全共闘は各大学等で結成されたため、その時期・目的・組織・運動方針などはそれぞれである。中でも日大全共闘と東大全共闘が有名である。東大全共闘では「大学解体」「自己否定」といった主張を掲げたとマスコミが伝え、広く流布した。「実力闘争」を前面に出し、デモでの機動隊との衝突では投石やゲバルト棒(「ゲバ棒」)も使われた。特定の党派が自己の思想や方針を掲げる組織運動というよりは、大衆運動との側面があったともされる。大学により、個人により、多様であったと言える。

 全共闘世代からすれば私は時代遅れで生まれた人間なので、事件として起こったこの運動をテレビなどで見るだけであった。時にお茶の水に本を買いに行く時、明治大学に反戦、反米の大きな看板が残っていた。おそらくこの運動が終焉に向かっている時期に、その余韻を見ることが出来たという世代である。だからこの全共闘がどういうものであり、どう活動が広がり、そして過激化し、終焉していったのか、その詳しい背景は知らない。だから川本さんがその全共闘運動に深く関わり、逮捕され、朝日新聞社を解雇された背景を語るこの本は、その時代を知るにはいい本であった。確かに私は世代は違うが、その余韻を感じた一世代遅れの人間なので、興味がある。以下、あの時代にあったもの、その雰囲気をこの本から書き出してみる。

 全共闘の学生たちが問題にしたには何よりもこの自らの加害性だった。体制に加担している自分自身を懐疑し続けることだった。自己処罰、自己否定だった。だからそれは当初から政治行動というより思想行動だった。なにか具体的な解決策を探る運動というより「お前は誰だ?」という自己懐疑をし続けることが重要だったのだ。質問に答えを見つけるよりつねに質問し続けることが大事だったのだ。だからついにゴールのない永久懐疑の運動だった。現実レベルではあらかじめ敗北が予測されていた運動だった。

 六〇年代から七〇年代にかけての熱い政治の季節は、たくさんの若い死者を作り出した。生き急ぎ、死に急いだ者が多かった。あの季節に青春を送った者はおそらく誰でも身近にそんな死者を持っている。あのころのことは誰もが死者のことなしに思い出すことはできない。

 一九六七年十月8日に死んだ京大生山崎博昭は「私たち」にとって「ひとつの同時代を表現する死」になった。誰もがそこから考え、生きることを出発させていかなければならなくなった。死が「私たち」の生の中心になっていった。

 この事件が学生たちに与えた衝撃は大きかった。「彼は死んだのにお前はそのとき何をしていたのか?」という問いに誰もが悩まされた。いわゆる“10・8(ジュッパチ)ショック”である。全共闘世代といわれる世代の人間にとって、この一九六七年十月八日は、忘れられない。“メモリアル・デー”になった。ちょうどアメリカのシックスティーズが「ケネディが殺されたとき、君は何をしていたのか?」を世代的“合言葉”に使うように日本のシックスティーズにとっては「一九六七年十月八日、京大生の山崎君が死んだとき、君は何をしていたのか?」が、共通の重い問いになった。

 これを読むととにかく熱い時代だったことがよくわかる。若者が自分が何者かを問うのは、まあよくあることだろう。自己の存在に疑問を持ち、自己否定など、いわば“はしか”のように通らねばならない道だろう。しかしそれが集まり、集団のエネルギーとなったその時代、何がそのエネルギーを束ねたのか、もっと知りたいところである。
 朝日新聞の記者となった川本さんはそんな若者たちにシンパシーを持っていた。しかし彼らにシンパシーを持っているだけの時は、まだいい。いったん新聞記者となってしまうと、心情的に反体制側にいながら、取材するという行為が、その中に入ってゆくことは出来ず、ただ眺めているしかないと知らされる。しかも記者というポジションは守られたものであって、ジャーナリストのしんどさと取材することのうしろめたさがつきまとっていた。

 ところでひとたび記者という取材する側になると急に身分は完全な第三者になる。記者は取材する側という安全な立場で、悪くいえばデモを高みの見物ができる。もう警察に逮捕される心配はない。「記者」という特権でデモの現場にいて、学生と警察の衝突という決定的瞬間を“見物”していられる。なおかつ自分はベトナム反戦デモを取材しているという良心の満足感も得られる。権力の側から特権を保障されながら、気持ちだけは反権力の側にいる。その矛盾が自分のなかでいっこうに解決されなかった。

 そして反体制運動は質的に変化をしていく。

 六九年から七〇年にかけて日本の反体制運動は次第に過激になっていった。爆弾闘争もはじまっていた。七〇年の三月には赤軍派による日航機よど号ハイジャック事件が起こっていた。
 いまにして思うと、こういう過激な行動への傾斜は、“世界のあらゆるところで戦争が起きているというのに自分たちだけが安全地帯にいて平和に暮らしているのは耐えられない”という、うしろめたさに衝き上げられた焦燥感が生んだものではなかったろうか。“彼らは生きるか死ぬかの危機に直面している。それなのに自分は平和のなかにいる”。この負い目を断ち切るには自ら過激な行動にダイビングするしかない……

 そして反体制運動そのものが激化していた。全共闘運動というのはまだ大学のなかの運動だったし、暴力といってもヘルメットとゲバ棒くらいだった。それも一種対抗暴力といったものだった。だからジャーナリストの側が彼らにシンパシーを持ち、取材の過程で彼らにコミットしても、まだそれほどの危険はなかった。
 しかし七〇年三月の赤軍派のよど号ハイジャック事件以来、先鋭的な政治セクトは学内から学外へ、大衆行動から武力闘争へとより過激になってきていた。「爆弾闘争」という言葉も日常的に使われるようになっていた。彼らを取材すればするほどジャーナリストの側にも危険はましてきた。それは全共闘運動の取材にともなう危険の比ではなかった。

 そんな中Kと名乗る男と電話で対応したのは、当時、「週刊朝日」で新左翼運動全般をカバーしていたN記者だった。川本さんはN記者に誘われ、Kの取材の協力を頼まれる。ここからが川本さんが警察に逮捕され、新聞社を解雇される経緯が描かれる。

 私はN記者の言葉に喜んで従った。日頃、憧れていた先輩記者が大事な仕事をする時のパートナーに自分を選んでくれたことが誇らしくもあった。それまでいわゆる“過激派”の取材したことがなかったので興奮もした。なんといえばいいのか、「血」が騒いだ。

 しかしこのKという男、どこか胡散臭い男であった。自分は京浜安保共闘のメンバーで、活動家と称していたが、N記者は疑っていた。しかし川本さんはKを信用できるとふんでいた。

 私はKから信頼してくれたと思われたらしく、自分のことを詳しく話していった。しかしN記者はKは京浜安保共闘のメンバーではないから少し距離を置いて付き合ったほうがいいと忠告してくれた。
 この頃朝日新聞出版局で大規模な人事異動があった。特に全共闘運動や三里塚の農民運動を支持してきた「朝日ジャーナル」編集部が対象となった。「朝日ジャーナル」を潰そうとするものであった。そんな「朝日ジャーナル」に私は「週刊朝日」から移った。

 六九年、七〇年、七一年-私が出版局にいたこの三年間は何度も書いているように新左翼運動の急激な昂揚期だった(同時にそれは急激な沈滞期にもなるのだが……)。出版局の記者のなかには、率直なところ、“心情新左翼”が多かった。局内では記者どうしの議論になると、全共闘や三里塚の農民にシンパシーを表明する者が多かった。私がKや滝田修と酒を飲んだことがあったように、出版局の記者が全共闘の学生たちと酒を飲んだり、彼らのカンパ活動に応じたりするのはそのころはごく日常的なことだった。
 そういう雰囲気は雑誌の誌面にも反映された。出版局の三週刊誌のうち読者層の年齢がやや高い「週刊朝日」は穏やかな路線だったが、「朝日ジャーナル」や「アサヒグラフ」は新左翼への傾斜がきわだっていた。


 しかしこういう“新左翼シンパ”の出版局に対する風当たりは当然なことに強まった。警察との関係がより濃い社会部には「出版の連中は何をやっているんだ」という批判があった。出版局は警察からも次第にマークされるようになった。

 出版局の局内では統一感、一体感があったが次第に外圧にさらされるようになっていった。五月に行われた局内の大きな人事異動は私には外圧への屈服、あるいは自主規制に思えた。外側から大きな力が加わる前に局のトップが自ら急ブレーキをかけたように見えた。

 先に書いたように反体制運動が過激化したことで、活動家と親しく酒を飲むことは問題はなかったが、武力闘争をスローガンにかかげる政治セクトのメンバーと私的にまで交際することは、“犯罪”に近いものになっていた。
 Kから「朝日ジャーナル」の編集部に電話があり、「赤衛軍」という武力闘争組織を作り、自衛隊の基地を襲撃して武器を奪う計画を話した。その準備品をKの部屋で見せてもらったが、その貧弱さに疑いを持ってしまった。
 そして深夜Kから興奮気味で「やった、やった」と言う電話があった。ここからはウィキペディアに詳しいのでそこから引用する。

 1971年8月21日午後8時45分、陸上自衛隊朝霞駐屯地で歩哨任務についていた一場哲雄陸士長(当時21歳)が何者かによって刺殺された。午後10時半の交代の時間になっても一場陸士長が現れなかったことから、駐屯地内を捜索したところ、血まみれで倒れている一場陸士長を発見した。一場陸士長は直ちに病院に搬送されたが、既に死亡していた。

 事件現場周辺には、「赤衛軍」の名称が入った赤ヘルメットやビラなどが散乱していた。そして、近くの側溝から一場陸士長が所持していた小銃が発見されたが、左腕に付けていた「警衛」の腕章が消えていた。

 埼玉県警察は「赤衛軍」という新左翼党派が起こした事件とみて、朝霞警察署に捜査本部を設置し捜査を開始した。遺留品を調べたところ、何れも東京都内で販売されたことから、犯人は都内に住んでいると推測したが、赤衛軍はこれまで事件を起こしたことがなく、公安警察といえども正体不明の存在であった。

 発生直後から、マスコミはこの事件を大きく取り上げていたが、10月5日発売の『朝日ジャーナル』に「謎の超過激派赤衛軍幹部と単独会見」という記事が掲載された。この記事には、まだ一般に公表していなかった「警衛腕章」の強奪を示唆していたことから、犯人しか知りえない事実であることが判明し、取材源は限りなく「クロ」であることが分かった。

 警察はその取材源を徹底的に捜査したところ、日本大学と駒澤大学の学生3人が捜査線上に浮上し、11月16日と25日に相次いで逮捕された。

 また、『朝日ジャーナル』の記者川本三郎(当時27歳)は1971年2月から犯人と親交を結び、犯人に金を渡すなどの便宜を図り、その見返りにスクープ報道の材料となる情報の提供を受けていた。川本はさらに犯人から犯行の唯一の物証である「警衛腕章」を受け取り、同僚記者の妻にこれを託し、1971年9月上旬に朝日新聞社高井戸寮の焼却炉で灰にさせていた。このほか、『週刊プレイボーイ』の記者(当時26歳)が犯人への取材に際して「警察の逮捕は近い」と教えるとともに逃走資金1万円を渡していたことも判明した。このため、両人は1972年1月9日に犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪で逮捕された。

 事件の経緯はこのようである。
 犯行後Kと築地の旅館で会った。「朝霧事件を起こしたのは君だという証拠を見せてくれ」と言う川本さんにKは自衛官の腕から奪ってきた警衛腕章を見せた。川本さんは“取材の証拠”になる重要な物証を手に入れたことで満足していた。しかしこれが命取りになった。Kの取材には社会部のT記者も加わったが、そのインタビュー記事を掲載しようとT記者は上司に相談したが、上司はこの事件を「政治犯の起こした事件」ではなく「一般の殺人事件」と判断した。そして速やかに警察に通報すべしという上司の判断であった。T記者は上司の判断に従うことにした。
 Kは取材に応じてくれた。記者は「ニュースソースの秘匿」というジャーナリストが守るべきモラルがある。ましてKは川本さんを信用してくれていた。だから警察に売ることは出来なかった。そうT記者に反論する。T記者は私を甘いと言い、もうジャーナリストのモラルが通用する状況ではない。あいつはただの殺人犯だとも言う。この時私はT記者の言うとおりだと思っていた。

 Kは“どこのだれともわからない馬の骨”である。K?そんな名前、聞いたことがない。大学はどこ?出身は?
 そんな男が自衛隊の基地に入り込み、何の罪もない自衛官を殺害した。

 しかし私はKを思想犯だから、彼にも「ニュース・ソースの秘匿」の原則が適用され、警察に通報することは出来ない、というジャーナリストの原則を主張し続ける他なくなっていく。少なくとも警察に通報しないという立場を取り続けることはそれを押し通すしかなかった。私にもKという人間がどういう人間かわかっていたのだ。

 思想犯による政治活動とはいえ、正体がよくわからない組織が起こしたものだった。思想的な内容がよくわからなかった。Kはいわゆるアナーキストにも思えなかった。生活環境、学歴などさまざまな点でコンプレックスを持つ男が、新左翼運動のなかで何か大きなことをして名をあげたいという個人的な背景が強く感じられた。ある点でこれは政治的な事件というより文学的事件といったほうがよかった。

 要するにKは単に自己の存在を示したかっただけの男で、経歴、活動履歴のない男であって、当時名のある活動家として自分もそこに連なりたいというだけのために自衛官を殺害したのだ。
 警察からの事情聴取も行われたが、言うことができない、で押し通した。この辺りはただの意地しか見えないところがある。
 Kは逮捕され、川本さんを仲間であると自供している。ジャーナリストのモラルを守ってKをかばった結果がこれである。Kとはしょせんそんな程度の男であった。
 1972年1月9日、川本さんは埼玉県警によって「商標湮滅」の容疑で逮捕された。Kから預かった自衛官の腕章を焼却してしまったことによる。最初は黙秘を貫いたが、検察官の取り調べに屈し、腕章を処分したことを認めた。そしてその後、朝日新聞社は川本さんを即刻懲戒免職にした。
 その年の9月27日、浦和地方裁判所で懲役十カ月、執行猶予二年の判決を受け、控訴しなかった。
 先日朝日新聞にこの本のことで川本さんのインタビュー記事が載っていた。そこにわりと政治的な意見が川本さんが言っていたので、ちょっと違和感を感じた。これまで読んできた川本さん本に政治的な意見はなかったからだ。
 この本の「あとがき」に次のようにあった。

 文学だけが挫折した者の小さな低い声に耳をかたむけることが出来る。私が事件のあと文芸評論家の道を選んだのもこのことと大きく関わる。ものを書くようになってから生の政治について語ることは自分に禁じている。その資格はない。生きてゆく場所は文学にしかない。

 なるほどそうだったのか。そしてこの本を読んでみて、川本さんがそのようなスタンスを意識しているんだ、と知ったのである。

川本 三郎 著 『マイ・バック・ページ―ある60年代の物語』 平凡社(2010/11発売)


# by office_kmoto | 2017-09-19 05:20 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

平成29年9月日録(上旬)

9月1日 金曜日

 曇り時々雨。

 ということで孫と半日遊ぶ。途中図書館に行って、予約していた常盤新平さんの本を5冊と他に1冊借りてくる。明日から常盤新平さんの本三昧の予定。

 昼間近所のCafeへ娘と孫、そして我々夫婦で行ってみる。
 図書館にあった「まいぷれ江戸川区」の瑞江・篠崎MAPをもらって来て、そこにしゃれたCafeがあり、孫たちが好きそうなソフトクリームがあるというので行ってみたのだ。
 確かに地元ではめずらしいしゃれたCafeである。いわゆるインスタ映えするお店である。何でもオープンは1年ほど前という。孫は美味しそうにソフトクリームを舐めていた。
 その後近くにある公園で少し遊ぶ。今日はそれほど暑くないので公園で遊ぶにはちょうど良かった。
 夕方娘たちは帰って行った。急に冷え込んだので、娘は風邪を引いたようだ。
 孫たちが帰った後、常盤さんの本を読み始める。明日は天気が悪いようだから、ゆっくり常盤さんの本を読もうと思う。


9月2日 土曜日

 雨のち曇りのち晴れ。

 常盤新平さんの『冬ごもり―東京平井物語』を読む。


9月3日 日曜日

 曇りのち晴れ。

 常盤新平さんの『そうではあるけれど、上を向いて』を読む。


9月4日 月曜日

 雨のち曇り。

 常盤新平さんの『うつむきながら、とぼとぼと』を読む。


9月5日 火曜日

 曇り。

 常盤新平さんの『門灯(ポーチライト)が眼ににじむ』を読む。
 気がつけば、ベッドの横に積んでいた図書館で借りた常盤さんの本があと1冊となている。
 ずっと本を読んでいたので、気分転換に録りためていたビデオでも見ようかと思い、つけてみたが、何だか騒がしく、イラついてくる。ちっとも気分転換にならない。ビデオを消し、また読み始めた常盤さんのエッセイを読み始める。今の気分はこっちみたいだ。


9月6日 水曜日

 雨のち曇り。

 常盤新平『熱い焙じ茶』を読む。これで今回図書館で借りてきた常盤さんの本はすべて読んだ。
 池波正太郎さんは食べ物のおいしさを本当に知るためには、何度も同じ物を食べ続けることだと言っていたはずだが、本も同じじゃないか、と思う。性格的にこだわるところが強いため、好きな作家、あるいは気になる作家の本は立て続けに読みたくなる傾向がある。でも同じ作家の昔の本から最近の本まで続けて読んでいると、その変化がわかり、やっぱり若いころの文章は力みが入っていて、ゆとりがないな、とか、晩年のエッセイは力が抜けていていい感じに枯れて、読みやすい、などと好き勝手に思うのは楽しい。基本的に年輩の人のエッセイが好きで、それはやはり自分が歳をとったことによるものだろう。
 さて、次は今回借りてきた最後の本を読むことにしよう。


9月8日 金曜日

 曇りのち晴れ。

 新宿京王百貨店へ「秋の大北海道展」へ父親と我々夫婦で出かける。もともと父親の提案である。北海道といえば美味しい食べ物がいっぱいあるので、こういう北海道物産展は人気があると聞いている。売り切れ必至と聞いたこともある。なので早めに出かけて行ったが、そうでもなかった。
 ここでお弁当など買って、その後食事でもして帰ろうと思ったが、お弁当を持っていられる時間は3時間以内と聞き、先に昼飯を食べてから後でお弁当を買おうということになった。しかしまだ10時半である。レストラン街が11時からだから、仕方なしに喫茶店で時間をつぶす。
 こういうとき父親と二人だと話すことなどない。ただ妻には父親は話しやすそうなので、いろいろ話している。妻も気を使ってあれこれ聞いたりしていて、それを聞いていればいいので助かる。
 その後レストラン街にある「つな八」で天ぷらのランチを食べ、また階下に降りて弁当など買って帰る。
 夜は定番の蟹といくらとウニが山盛りにのった弁当を食べたが、やはりうまかった。

 青木冨貴子さんの『731』を読み終える。これで今回図書館で借りた本6冊全部読んだ。1週間で読んでしまった。
 明日も天気が良さそうなので、雨で出来なかったさつきの消毒をしようと思う。


9月9日 土曜日

 晴れ。

 久々の天気。しかもカラッとして気温は上がったようだが過ごしやすかった。部屋の窓を大きく開けて、扇風機を回していると気持ちいい。そんな中本を読めるのは最高である。

 天気が悪くて出来なかったさつきの消毒をする。


9月10日 日曜日

 晴れ。

 図書館に本を返しに行く。そしてまた2冊と「街道をゆく」のDVDを借りてくる。
 借りた本の1冊は少し前の本である。普通自由に取り出せる棚にはないので、3階の書庫から取り出して来てもらう。

 ここのところ古本屋に行っていない。ブックオフは先日回ったけれど、正直真剣に本を探していない。というのもこのように多少古い本は、図書館で借りられるからだ。そこで一度読んで、これは是非自分の本棚に置いておきたいな、と思った本だけを探すことにしている。そこまででない本なら図書館の本で済ます。
 本という媒体は有難いものである。たとえ借りてきた本が傷んでいても、スピンが短くなって栞の役目をしなくても、読むのには何ら支障がない。

 今までは読みたいと思ったら、新刊書店で、なければ古本屋で入手してきた。だから真剣に本を探した。
 でもこうして図書館を利用することで、以前のような古本探しをしなくて済むのである。実は1冊探している本がある。滝田ゆうさんの漫画だ。その本は江戸川区の図書館に蔵書していない。隣の江東区の図書館にもない。けれどネットで調べてみると墨田区の図書館にある。そこにあるだろうな、と思ったのは、滝田さんの地元だからだ。だったらそこで読もうと思った。近いうちにこの界隈に行きたいと思っているので、そのついで寄って読もうと思っている。

 ネットのおかげで各区の図書館の在庫を確認出来るので、こういうことが可能になる。さらにネットのおかげでわざわざ古本屋へ出かけて行かなくても、探している本が見つかる。効率も圧倒的にいい。
 最近は新刊もネットで買うことにしている。駅前の本屋にないことがあるし、それに、経営が変わったこの店はあまり好きじゃない。
 ということでますます出不精になってきていている。


9月11日 月曜日

 晴れ時々曇り。

 結膜炎と診断されて1週間以上経つが、どうも右眼がすっきりしない。それで今日もう一度眼科にい行く。
 症状を言ってから、詳しい検査をしてもらい、幸い眼の病気はないという。先生に手のしびれがないか、と訊かれたので、首の椎間板が狭まっていて多少神経を刺激しているらしく、今痛み止めと週に一回牽引に行っていることを伝えると、もしかしたらそれかもしれない、と言われる。
 素人考えでは、首の痛みは眼の下だからあまり関係ないんじゃないかと思ったりするが、どうもそうではないらしい。神経というのは、あちこち関係してくるのだろうか。確かに眼は疲れやすい。
 結局眼自体の病気じゃないようなので、疲れ目対処ということでサンコバを1ヶ月分出してもらい、1ヶ月後また来て下さいと言われる。
 疲れ目は本の読み過ぎとも関係ある、と妻からも言われているが、でも本を読むことは止められない。まあ、しばらく本を読む時間を減らすことはした方がいいのかもしれない。

 司馬遼太郎さんの『司馬遼太郎が考えたこと』の1巻を再読する。このシリーズ、どこまで読んだかわからなくなり、しかも読んだ内容を忘れているので、最初から読むことにした。今年中に全15巻読み切れれば、と思っている。


9月12日 火曜日

 雨のち曇り。

 今日は胃腸科へ行く。その後いつものようにヨーカドーへ。
 昼は珈琲館でランチのミックサンドにアメリカン。やはりコーヒーは美味しい。

 今ここは店内改装をあちこちで行っている。そのため商品がいつもの場所にない。そのため店内をうろちょろすることになった。

 常盤新平さんの『遠いアメリカ』を読む。


9月13日 水曜日

 晴れ。

 朝、司馬遼太郎さんの本について書いていた。書き終わって保存するとき、「はい」をクリックするところを間違って「いいえ」をクリックしてしまい、一瞬でパアーとなる。2時間かけて書いたのに、とショック。久しぶりにやってしまった。 
 その後また書き直すことになるが、一日不愉快。


9月14日 木曜日

 晴れときどき曇り。

 どうも眼科で言われたことが納得できないので、今日整形の先生に眼のことを話してみた。そして笑われた。私が疑問に思っていたように、眼は首より上にあるのだから関係ないだろう。眼科の先生のことを悪く言いたくないけれど、商売上手だな、と言う。
 そしてあるとすれば脳の方だろう、とまた恐ろしいことを言う。でもそれはやっぱり加齢から来るもので、老化だろうから心配ない。出されている目薬もサンコバなら、眼精疲労のやつだから、問題ない。だって詳しく検査して問題なかったんでしょう、と言われた。私だって眼がかすむことはありますよ。どうやら先生は同じくらいの年齢のようだ。
 と言うことで半ば一笑された感じだった。それより首の痛みはどうなの?と聞かれ、以前よりひどい痛みはなくなったけれど、鈍い痛みは絶えずありますと言えば、でしょうね、と簡単にいなされる。この先生、私が通院している他に科の先生の中で一番好きだ。まあ今みたいに牽引することで、多少緩和できればいいらしい。もちろん痛み止めは必要な分処方せんを書くから、ということで終わった。
 会計は牽引と診察で360円。通常牽引だけで320円かかるので、診察代は40円ということになる。40円でこれだけ情報を得られ、半ば笑え、そして安心できるなら安いものだ。
 眼科の先生を馬鹿にするつもりはない。先生も老化もあるとは言っていた。結局原因がわからないのだから仕方がない。でもサンコバを点していると眼が楽なので有難いと思っている。

 明日は孫の保育園の敬老参観日である。明日のためにカメラの充電を確認しておく。そして再来週は運動会と続く。ジジババもかり出されて、結構忙しい。


9月15日 金曜日

 晴れ。

 今日は孫の保育園で敬老参観日がある。10時に保育園に着き、2歳から5歳児までの遊戯、歌を見る。後半は各ジジババが自分たちの孫と一緒に遊ぶというスケジュール。
 まあわが孫は元気で、妻から娘、そして孫へと受け継がれた早口でまくし立てていた。

 昼過ぎに帰ってきて、何だか疲れた。
 郵便受けにHonya Clubから本が届く。予約していた東野圭吾さんの『マスカレード・ナイト』だ。今日発売の本だが、発売日にわざわざ本屋に行かなくても本が自宅に届くのは、便利だというより、驚きに似た感じがある。
 さっそく読み始めたいが、まだ司馬さんの本がもう少し残っていて、まずそれを読んでから、この本に取りかかる。が、今日夜、浅田次郎さん原作のドラマもやるので、それまでで、残りは明日。台風も近づいてきて、天気も悪そうなので、明日はゆっくりこの本を読むつもり。

 ということで、今日、司馬遼太郎さんの『司馬遼太郎が考えたこと』の2巻を読み終えた。


# by office_kmoto | 2017-09-16 05:07 | Trackback | Comments(0)

30年ほど前の本のこと

 この頃昔出版された本を読むことがほとんどだ。そうした本を読んでいるとき、何でこれまでこの本を読んでこなかったのだろう、と思うことがある。気がつくと夢中で読んでいる。妙に感動しているのだ。
 一方で仮に若い頃この本を読んでも今みたいに感動できただろうか、と思う。おそらく今みたいに行間から醸し出される雰囲気を感じ取ることはできなかったかもしれない。今だからわかるというのがある。歳もとってきたし、それなりに人生の酸いも甘いも味わってきたからこそ、ここに書かれていることが心地良いのではないか、と思ったりする。
 幸い本という媒体は、30年以上も前に出版されても、図書館の通常の棚に並べられなくなって、「集密」というラベルを貼られ、バックヤードにある書庫にしまい込まれても、係の人に言えば取り出してきてくれる。
 出された本はかなりくたびれていて、スピンが短くなり栞の役目をしなくなっていても、読むことが出来る。それが出来るのが本の有り難さだと思う。今になってそうした本が読めるだけでも幸せだと思う。さらにこうして感動した本を手もとに置いておきたくなり、それを古本屋で探してみたい、と思う。そういう楽しみを生んでくれる。

# by office_kmoto | 2017-09-14 17:59 | 余滴 | Trackback | Comments(0)

川本 三郎 著 /武田 花 写真 『私の東京町歩き』『東京万華鏡』

d0331556_06283166.jpg 川本三郎さんの「東京もの」はほとんど全部読んだものと勝手に思っていたら、まだ図書館の棚にこの2冊があった。当然これは読まねば、と借りてくる。
 そう言えば川本さんの「東京もの」を読んでいたのは、去年の秋口だったか、それ以来だが、あまり時間は経っていないけれど、なんだか懐かしい。
 また読んで、へぇ~、そうなんだと感心する。
 大久保界隈がガイジンの町になったことが書かれている。


 こうした東南アジア系の女の子たちの下宿として選ばれているのが歌舞伎町に近い大久保界隈である。もともと、歩いて通勤が出来るのでホステスには人気があった場所だ。いまの東京によくこんな建物が残っていると驚くほど貧しげな木造アパートが建て込んでいる。(エスニック・タウン-大久保(新宿区))


 これは書いたかどうか忘れてしまったけれど、私が勤めていた会社が新大久保の駅近くに本屋を出店した。ここに出店したのは、問屋が行った市場調査で人が多く行き来するという結果を当時の会社の幹部が信じたからだ。
 しかし開けてみれば、この駅前を行き来していたのが日本人に顔が似ている韓国系の人たちだった。それを聞いた時呆れてしまった。
 店は5年も持たなかった。この店の手伝いに何度も来ていたので、大久保界隈が「ガイジンの町」になっていることを思い出した。

 また驚いたことは、銀座に朝、カモメが飛んでいるという話。


 夏の朝、この四丁目の交差点ではよくカモメが飛んでいるのを見かける。はじめはなんの鳥かわからなかった。海辺にいるカモメが銀座のまんなかを飛んでいるとは思わなかったからだ。しかし鳴き声も、白い羽根もどうみてもカモメである。
 どうしてこんなところにカモメが飛んでいるのだろう。理由はすぐわかった。銀座四丁目から東京湾まではすぐ近くなのである。四丁目の交差点から晴海通りを東に向かって歩いていくと、東銀座(歌舞伎座)、築地(市場)、そしてその先は勝鬨橋で、隅田川が東京湾に入りこんでいる。
 歩いて十五分たらず、それでもう海なのである。銀座は海の町、潮の匂いのする町なのである。四丁目をカモメが飛んでいてもおかしくない。(銀座の先にある「離れ里」-佃島・月島(中央区))



 川本さんは下町をよく訪れてくれるので、下町に住む私としては、そこでの話は興味深い。門前仲町での話。


 「門前」というのは富岡八幡宮(より正確にいうとその中の永代寺の)門前のことである。江戸幕府は深川の新開地を発展させるために、門前に水茶屋を黙認した。この水茶屋の女たちが芸者のはじまりとされている。いわゆる辰巳芸者である。(川向こう親密な町-門前仲町(江東区))


 こういう町は夕暮れ時がいい。おかみさんたちが買い物かごをさげて魚屋や八百屋をのぞく。仕事帰りの中年男が焼鳥屋の店先でコップ酒をやっている。どこからか豆腐屋のラッパの音がする。パン屋ではおばさんが紙の袋をふくらまし、そこにパンを入れると袋の両端をつかんでくるっとまわし、「はい」とお客に渡している。なんだかこの町に来ると、昭和二十年代の東京の町に戻ったような、懐かしい気分になる。(文学碑の目立つ町-三ノ輪(荒川区))


 先日都電荒川線に乗った。三ノ輪には行かなかったけれど、荒川区は少し歩いた。三ノ輪が近かったのだから、こういう商店街があるなら寄ってみてもよかったなあ、と思ってしまった。
 確かに紙袋を膨らませて、両端をつかんでクルクル回すお店のおばちゃんいましたよね。


 それから六十年以上たつが、いまの荒川を見ているととても人工の川には見えない。自然の川である隅田川が人工的な運河のように見えるのに人工の川の荒川のほうが自然の川に見える。人工の自然化である。人の手で植樹され育てられた緑の山が自然に見えるのと似ている。その意味では人工と自然はそれほど対立していないのかもしれない。(荒川を渡って路地の町へ-四ツ木、堀切(葛飾区))


 家の近くには新中川が流れている。昔中川放水路と呼んだ人工の川である。散歩でよく行くのだが、土手があり、河原があり、本当に人工の川とは思えないくらい今は自然な川のようになっている。


 煮込みの匂いひかれてカウンターに座った。ビールを頼んだ。墨田区ではビールといえばたいてい地元のアサヒビールである。(荒川を渡って路地の町へ-四ツ木、堀切(葛飾区))


 なるほど、だろうな、と思う。


d0331556_06303524.jpg 『東京万華鏡』のあとがきに次のようにある。


 「東京万華鏡」と題したように、東京のさまざまな姿を、小説、映画、マンガ、あるいは自分の個人的思い出などを手がかりに、ちょうど町を散歩するように気ままに書いた。東京という万華鏡の筒のなかに、川・下町・相撲・あるいは原っぱ・地下鉄・橋といった色ガラスの細片を入れて、くるくる回しながら眺めてみた。「東京論」や「都市論」といった堅苦しいものではない。なんというか、小学生が夏休みの宿題で「自分の町について書け」といわれて、あれこれ町のことを調べて書いたような文章である。


 確かに『東京万華鏡』は『私の東京町歩き』とは感じが違う。


 駅ではときどきアコーディオンをひいている傷痍軍人の姿を見かけた。子ども心に白い服を着て黒眼鏡をかけた彼らの姿はこわかった。戦争はこわいものだということが無意識に焼き付けられていた。だからだと思う、私たち子どもは原っぱでチャンバラごっこや西部劇ごっこはやったけれど戦争ごっこだけはしたことがなかった。それは子供たちとっても絶対にやってはいけないことだったのだ。(山の手の子供たちの故郷-原っぱ)


 傷痍軍人の姿を子供の頃、浅草寺の境内で見かけた。彼らの姿はここに描かれるままだが、私も怖かった。


 面白かったのは東宝の怪獣映画の話だ。ゴジラとかモスラなど建物を壊し廻る話の中で、皇居に手を出した怪獣はいない、という話だ。
 東京タワーのついて書いた文章の中でそのことが書かれているのだが、昭和59年にリメイクされた「ゴジラ」では東京タワーを無視して新宿副都心の高層ビルや有楽町のマリオンに向かった。


 すでに東京タワーは怪獣にとって壊し甲斐のある魅力的な建物ではなくなってしまったのである。怪獣に無視された東京タワーというのもなんだか寂しい。


 川本さんは東京タワーが観光地特有の安っぽさを免れていない。場末的雰囲気と書くが、考えてみれば私は東京タワーに登ったことが一度もない。それでいてスカイツリーには、登っている。
 よく東京タワーの展望台の内部をテレビでみるが、蝋人形館や東京のお土産など売っている売店などを見る。それを見るとちょっと垢抜けない。それが何か安っぽく見えて、登って見たいとは思わないのだ。それでも最近、スカイツリーに対抗して、様々なイベントも催されて、人気が出ていると聞いたことがある。頑張っているんだろう。
 今ゴジラが日本に上陸したら、東京タワーには向かわず、スカイツリーを破壊しに行くんだろう。やっぱり東京タワーは怪獣に無視される存在になってしまっている。けど壊されず残るならそれはそれでいいことなんじゃないか。

 最後に『東京万華鏡』で都営新宿線について書かれていることがある。この路線を出かけるときに必ず使うので記録として書いておく。


 この地下鉄は昨年(一九八九年)の三月に新宿と千葉の本八幡まで全線開通したが、東京の他の地下鉄と同じように工事の進行とともに終点が先へ先へと伸びていくのが面白かった。

 東京都交通局の資料によるとその“小刻み開通”ぶりがよくわかる。

 岩本町-東大島 昭和53年12月21日
 新宿-岩本町  昭和55年3月16日
 船堀-篠崎   昭和61年9月14日
 篠崎-本八幡  平成1年3月19日
 
 着工は昭和四十六年五月というから約二十年かかっている。二十年という時間が地下鉄工事にとって長いのか短いのか私などにはよくわからないが、この二十年のあいだ東京の地下のどこかに人がいて黙々と穴を掘っていたのだと考えると、本当に“お疲れさまでした”といいたくなる。


川本 三郎 著 /武田 花 写真 『私の東京町歩き』 筑摩書房(1990/03発売)

川本 三郎 著 /武田 花 写真 『東京万華鏡』 筑摩書房(1992/06発売)

# by office_kmoto | 2017-09-12 06:36 | 本を思う | Trackback | Comments(0)