私の引き出し

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岡崎 柾男 著 『洲崎遊廓物語 (新装版)』

d0331556_06250462.png 昭和31年まであった遊郭に興味があって、数冊その頃の遊郭の話を読んできた。興味があるのはそこのある生臭い人間の匂いとでも言おうか、したたかに生きる男と女が垣間見られるからである。いずれ、これまで読んできたかつての玉の井、鳩の街、そして今回読んでみた洲崎を歩いて見たいな、とも思っている。私が見たいのはかつてあったその片鱗を、残っているなら見てみたい、と思っているのである。その点吉原は今も現役であり、それほど興味はない。
 洲崎は根津遊郭から移ってきた。移ってきた理由は森まゆみさんの本で知った。


 明治十七年に根津遊郭が営業停止の通達が出る。理由は、


 頭ごなしやめろと命令した理由は、廓から見あげる位置に、各地に分散していた東京帝国大学が統合移転するに加えて、第一高等学校も来ることが決定したため、風教上好ましくないと結論が出たことによっている。
 なんのことはない、学生たちの勉強している目の下で、女郎屋の嬌声がしては困るので、どっかへ行けというわけである。そういうご本尊の役人たちが、まっ先かけて女郎買いにうつつをぬかしていたのだから、世話はない。
 遊郭への社会の風あたりはだんだん厳しくなり、行政も歩調を合わせ、翌年三月九日より、遊郭が遊興を勧める目的の広告を出すことも全面的に禁止してしまった。が、根津遊郭の業者たちに対しては、ちゃアんと代替地が与えられた。
 東京府の二ヶ年継続事業として、石川島の監獄の囚人たちを使役して、深川入舟町先の海岸の埋立て工事を十九年六月に取りかかり、二十年五月には大方の完成をみたが、総坪数七万坪(『深川区史』)と称される。ここに移転先に決まった。


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 これが洲崎遊郭となる。ちなみに石川島の監獄はあの鬼平犯科帳の長谷川平蔵が提言して作られた石川島の人足寄場で、明治になって石川島監獄署(所?)となり、のちに巣鴨監獄へとつながっていく。
 森まゆみさんの本では、日本の将来を担う学生が根津遊郭に通っちゃうのはまずいからという理由だと聞いたが、通った奴もいたんだろうし、眼下でうんつくうんつくやっている声が聞こえてきたんじゃ、そりゃあまずいわなあ。面白いのは根津の移転を進めた役人もここに通っていたことがこの文章で知ることが出来る。
 ちなみにここに移ってきたのは、


 根津より移転して当座の妓楼は、八十三軒(百三軒ともいう)。引手茶屋が四十五軒で、盛装した総計九百七十四人の娼妓が、あでやかに見世を張った。飲食店も二十九戸進出し、雑業というのが二十三戸、合計二百三戸であった。


 俗に“吉原大名・洲崎半纏”なる言葉がある。吉原はやはりそれなりにしきたりやお金がかかる遊郭である。それに対して洲崎は職人が客として多かった。


 洲崎では、職人姿が幅をきかせた。かつて洲崎遊郭で遊んだという老人たちに聞くと、口を揃えたように職人の恰好をしていないと場違いな感じがした時期もあった、という。
 「職人が手間をまとめて手にするには、一日と十五日で、この日は、夕方早々と界隈の食堂は、どこを覗いても満員でしたね」と、きわも語っている。
 洲崎の廓の名物のようなのは、もう一つ木場の川並の、いなせな恰好だった。


 戦前までは、原木を扱う材木問屋は、大きな貯木場を近くに持っており、そこへ客を案内するための四、五人乗りの小舟を店の裏に繋いでいた。夕方、仲のいい隣の店の番頭と表で目が合った。
 「おう、涼みィ行こうじゃねえかッ」(既に廓をぶらつくという意味を含んでいる)
 「いいねえ、普通じゃつまンない、うちの舟で、行きましょうやッ」
 「よし来た、棒(棹)持って来い、ばんこ(交代)で漕いでこうや」
 「おい来た!」
 こんな調子で大和橋から、いくつも橋をくぐり、沢梅橋下から洲崎神社を右に見て、弁天橋を過ぎ、西須崎橋下を漕いで海っ側へ出て、岸壁に着ける。
 『ふっふっふ……この途中がたまンないですよ、西須崎橋のちっと手前っから岸壁に行くまでの間がね。左側は、ずらアっお女郎屋が建ってる。河ンとこまで、いっぱいに建ってんですが、どこも裏だから、台所とかね、風呂場ンなってる。うふっ……ちょっとね、まだ遊ぶめ前の、夕方近くンなると、みィんな、ね、あんた、湯にはいる恰好(なり)してたり、裸ンになって化粧したり、ね、してんですよ。ハハハハ……こっちゃこいつがお目当だ。ね、“おゥい”なんて声かけっと、“あらァ、今晩いらっしゃいよう”だ。“ああ、登楼(あがる)よう”なァんて返事しちゃたりね、アッハッハァ、面白かったなあ。河岸っぷちは、ケコロですよ、きどってないんです。そうやって一廻りして帰ってくンですよ』


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 ちなみにケコロとは、


 大見世とは対照的に、大門をまっ直ぐ突き当たった堤防沿いの見世は「けころ」と呼ばれ、最下層の扱いを受けていた。これ、蹴っ転がすの略。つまり、どうしようもない不器量の女とか、顔の皺が目立つ大年増などの溜まり場であった。
 ときには、地方の遊里で心中未遂を引き起こした、生き残りも流れ着いていたそうだ。


 だからだろうか、洲崎は吉原と比べて、華やかさとかきらびやかさはなかったようだ。野口冨士男は作品で次のように書いている。


 『洲崎中でも最大の娼家ではなかったかと思われる、とてつもなく宏壮な妓楼は山間の寺院のようにしいんとしずまりかえっていて、薄暗い電燈の光をにぶく吸っている藤のうすべりを敷いた一間幅の廊下を遣手婆さんにどこまでも案内されていっても、人間の気配はまったく感じられなかった。そして敵娼がくるまで床に入って天井をみあげていると、遠浅の海に寄せては返しているらしいかすかな波音が低くきこえてきて、わずかに泥臭のまじった潮の香がした』


 また木村荘八は、


 『通りの真中に打渡したコンクリートの道幅が大層広くその両側の、娼家の造りをした家並みが、また大層低く比較的暗い、そのくせ惻々として町全体に物憂いやうな、打っちゃりはなしたやうな、無言のエロティシズムが充満してゐる。それが吉原や新宿あたりのやうにぱっとしたものではないだけ――一層空も暗くどんよりとした日の、この町にはそれは誂へ向きのバックだらう――』

『何しろこの遊郭の印象は何処も彼もヘンに森閑として薄暗く陰気でゐて、そのくせぬるい湯がわくやうに、町のシンは沸々と色めいてゐる。――ちょっと東京市内では他に似た感じの求めにくいものである。ぼくの乏しい連想でこれに似た感じのところは、京都の島原。それから強いていへば阿波の徳島の遊郭、三浦三崎の遊郭。さういうものに似てゐる。市街地からエロティシズムだけが隔離して場末の箱に入れた感じだ。色気が八方ふさがりの一画に封じ込まれた為の、町が内訌してゐる塩梅だらう』


 と書いてる。どうやら洲崎は海に近いための寂寥感が町全体に漂い、他の遊郭とはちょっと違う雰囲気のところだったようだ。
 本は、かつてここで働いていた人を訪ね、当時のことを聞いて、そこに歴史的背景を書き加えている。遊女から遣手婆にそして遊郭経営者となった女性の話。ちなみに遣手婆とはもともと遊郭で遊女の指導・手配などをする女性のことで、「いい娘いるわよ」と呼び込みをしている中年女がこれにあたる。


 「おばさんになれる、なれないは、ガンキが使えるか使えないかなのよ。これをね、花魁の、おまんちょの中へいれて、内がどうなってっか分かって始末できなきゃ、役目果たせないのよ」
 娼妓たちの“商売道具”である股間を、おばさんは毎朝、客がいなくなた後、念入りに調べる。これはちょっと揚げた客(性病が)怪しいなと思った時にも行なうが、娼妓に着物をまくらせ、股をいっぱい広げさせてから、膣の中に産婦人科の医師がやるように、まるでアヒルの嘴に似た形をしているガンキという器具を差し込む。
 「出来物はないか、あそこの色合いは変じゃないかって見てね、悪いものがあると、ガリガリガリ洗うのよ。白帯下取ってやったりね。しぼるんだよ」
 ガンキは、週に一度、廓内にある警視庁洲崎病院の性病検査に出かける前にも使った。


 ガンキは病院以外使うなというお達しがあり、使っていたことがばれると取り上げられ、楼の主人が呼び出され、叱られた。
 病院の医師の検査もかなりいい加減であったらしく、煮沸されていない器具を使い回したり、扱いも乱暴であったという。言いたいことを言う医師もいて「おお、ずいぶん稼いだなあ」とぬかす医師もいたらしい。
 洲崎病院では、廓内の娼妓(公娼)のほか警察の取締りの網にかかった私娼の検査も行なった。私娼たちにはかなりひどい状態の女たちがいたが、だからといって公娼の女は安全かといえば、そうでもなく、検査を誤魔化すために、女たちに様々な細工をしていた。検査に引っかかれば彼女たちは商売が出来ないため、売上にも影響するからである。
 娼妓が入院までいかなくても、過労などで自宅療養扱いで接客出来ないのを「床養生」というが、そんなとき馴染み客が来ても、一つ蒲団に寝るものの肉体関係は結ばなかった。中にはこれを粋としたらしいが、遣手婆はそんな男をコケにする。


 「バカだよ、やせ我慢して、チンポコおっ立っちゃてさ、ただ寝でンだよ。昔は手で(欲望の)始末してやるってこともしなかったしね。それでも金は取られるんだよ」


 でもこういう時に娼妓に好きな食べ物など送って点数を稼ぐしたたかな男もいた。


 馴れない妓には、おばさんが性技のテクニックを伝授することがあるが、性病と避妊の予防の仕方だけは、堅気からはいった妓にはかならず教えておく。その方法は、男が射精したら、さとられぬように腰をひねって下半身を下向きにさせ、同時に股を開いて膣の中の物を押し出すように息む。そうすれば精液が流れでるから安心だという原始的なものであった。


 こんなことで避妊が完全にできるとは誰も信じていない。だから一刻も早く階下にある洗浄場へ急ぎたいのだが、すぐ客の元を離れてはつまらないだろうと気立てのやさしい女は妊娠する。

 ここにも戦争が影を落とす。兵士が一夜の夢を買いに出かけてきた。日中戦争が泥沼化していくなか、


 兵隊の姿が目立つのは日曜日である。所属する中隊に外出許可をもらい「登楼届」というのを出し、勇んで廓へやって来る。
 「兵隊、衛生サック持って来ンです。突撃一番っていう、先っちょに乳首のない奴。ほいで、にっこにっこして来ンですわ」
 スキン製造メーカー岡本理研ゴム(株)取締役・穴倉富士雄著『突撃一番(スキンの歴史)』(未来工房)によると、太平洋戦争に先立つ昭和十三年、スキンメーカーは軍需工場の指定を受け、兵隊用スキン増産にせっせと励んだ。陸軍用を「突撃一番」、海軍用を「鉄カブト」と称したが、スキンの特長は「先端に性液だまりのない、私たち言う“ボウズ”というやつだったはず」だそうな。その前は、現在、多数派に愛用されている、こけし型と似ている性液だまりのあるタイプだった。
 “ボウズ”が造られた理由は、穴倉の調べによれば、中国大陸へ侵攻した日本軍の若い兵士の間に猛烈な勢いで梅毒が広がり、これに驚いた軍部が、戦地に軍医を派遣して調べたところ、スキンの使い方に問題があったので、あわててメーカーに改良を命じた。
 二十歳で徴兵された若い兵士には、童貞が多く、またスキンの使用方法もろくに教えられていなかったので、性液だまりを余して男性自身に装着することを知らなかった。それで先端までぴったりと押し込んだために、激しい性交中にスキンが破れ、病気をもっていた娼妓から感染させられてしまったというわけである。以後、軍の上層部の命令で、軍隊に納入するスキンは、ボウズ・タイプと決められた。


 「日曜日は兵隊さんだけで、一般人は登楼できないよ」と言う状態で、日中戦争が起こってからは遊郭までも軍隊が“買い占め”た、暗い日曜日だった、という。それにしても“突撃一番”とはすごい名だ。


岡崎 柾男 著 『洲崎遊廓物語 (新装版)』 青蛙房(2013/10発売) 青蛙選書


# by office_kmoto | 2017-11-22 07:29 | Trackback | Comments(0)

平成29年11月日録(上旬)

11月1日 水曜日

 晴れ。

 常盤新平さんの『酒場の風景』を読む。


11月2日 木曜日

 晴れ。

 整形外科に首の牽引へ行く。

 午後より孫の写真をプリントアウトし、アルバムを整理する。デジタル時代にアルバムを整理するのは時代遅れかも知れないけれど、やはり写真はいい。
 今はパソコンでトリミングも簡単にできる。昔は暗室に籠もって、引き伸ばし機からピントを合わせ、あれこれやっていたのがウソみたいだ。

 あと今日は読んだ本のことについて書く。やっと書く方が読むのに追いついた。

 
11月3日 金曜日

 晴れ。

 朝方雨が降ったが、夜明けには止み、天気となった。

 佐川光晴さんの『ジャムの空壜』を読む。


11月4日 土曜日

 晴れ。

 孫と娘が来る。


11月5日 日曜日

 晴れ。

 娘が午前中出勤なので、孫の面倒を見る。近所の公園に散歩がてら連れて行く。


11月7日 火曜日

 曇り。

 立冬なのに暖かい。


11月8日 水曜日

 曇り。


 常盤 新平さんの『たまかな暮し』を読む。


11月9日 木曜日

 晴れ。

 整形外科へ首の牽引へ行く。


11月11日 土曜日

 曇り。

 孫と娘が来る。一緒に松ぼっくりでクリスマスツリーを作る。


11月12日 日曜日

 晴れ。

 夕方孫たちは帰って行った。
 メールを確認すると、講談社BOOK倶楽部からメールがあり、加賀恭一郎シリーズの「祈りの幕が下りる時」が映画の試写会が抽選で当たるというのを読んで、応募してみた。当たらなくても構わないが、このシリーズは大好きだ。「麒麟の翼」は何度ビデオで見たことか。
 またこの原作を読みたくなった。

 孫は昨日作った松ぼっくりのクリスマスツリーがえらく気に入ったようで、家に持ち帰った余った松ぼっくりで今度は自分一人で同じツリーをすぐ作ったそうだ。
 そうそうちょっと遅くなったけれど、今年もチューリップの球根を孫と植えた。


11月13日 月曜日

 晴れ。

 半年ぶりに歯医者へ検診に行く。歯石と歯のクリーニングをしてもらう。これはここの歯医者に来る度にやってもらうが、やってもらった後は気持ちがいい。
 昔詰めてもらったものがだいぶ劣化して来ていて、隙間が出来はじめているという。そのため来週それを取りのぞいて新しく詰め直すことになった。放っておくと後でひどいことなるからその方が良いとのこと。
 治療が終わって帰り際、先生に「お元気そうですね」と言われ、「ありがとうございます。細々と生きています」と答えると、二人して笑った。
 昔は会社帰りに駆け込んで、ギリギリ予約時間に間に合ったことを思い出す。そんなサラリーマン時代からお付き合いさせてもらっている。もう20年近くの付き合いになるかと思う。
 常盤新平さんの本を読んでいると、やはり長い付き合いの歯医者や針治療へ電車を使って通っていることがエッセイによく書かれる。それと同じで、電車には乗らないが、バスで地下鉄の駅まで行き、この先生ところへ通う。
 今も昔と変わらず、丁寧な説明とケアをしてもらっている。だから自分の歯のことは安心してこの先生に任している。
 そういえばかかりつけの病院が歳と共に増えていっている。胃腸科、整形外科、眼科、そしてここの先生。これ以上増えて欲しくないなあ。


11月14日 火曜日

 雨。

 読みたくなった東野圭吾さんの『祈りの幕が下りる時』(講談社2013/09発売)を一気に読み終える。
 今回読んでいて、これは松本清張の『砂の器』の世界だなと思った。これは過去の出来事を引きずった悲しい物語だ。その点がよく似ている。
 ここのところいろいろあって本が読めなかったし、本を読む気分にもなれなかったので、これでまた本を読む生活に戻れそうだ。


# by office_kmoto | 2017-11-20 13:42 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

川本 三郎 著 『パン屋の一ダース』

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 「パン屋の一ダース」とは英語で“Baker's Dozen”のことで、一ダースより一つ多いこと、つまり13個のことだ。語源は諸説あるらしく、昔パン屋が一ダースといってうっかり11個しかパンを売らなくて、1個誤魔化したとして罰せられた。ならば1個多くして間違って1個少なめに売っても1ダースだから問題ない。そこから生まれた言葉らしい。要は“おまけ”である。
 ということでこのコラムは一回の掲載に、いくつものテーマをならべて書いている。元々は雑誌「ダカーポ」に連載されていたらしい。「ダカーポ」は小型の情報誌といえばいいかと思う。難しいニュース内容を短時間でわかるように説明したものを載せていた。たぶんもう今はないんだろうな、と思って調べてみたら、2007年12月で休刊していた。
 そんな雑誌に連載してたコラムである、バリバリにアメリカ文化を紹介している。本文はカタカナばかりである。カタカナを抜いたらページは3分の1になっちゃんじゃないかとさえ思える。
 ここには最近読んできた川本さんのエッセイに見られる昔の日本映画の話は一切ない。大好きな川本さんの下町の風景描写やその歴史の話もない。むしろこんなコラムを書いていたんだ、とさせ思ったくらいである。あとがきに次のようある。

 身辺雑記エッセイというのは得意ではない。なるべくなら本や映画や芝居……、対象のことを語りたい。自分のことより自分が好きになった作品のことを語りたい。

 別に揚げ足を取る訳じゃないが、最近は身辺雑記にいい味を出している川本さんである。その人が若い頃(といってもこの本が出た頃はもう四十代であったはずだ)こんなことを言っていたのである。好き嫌いは好みの問題だが、少なくとこの時期の川本さんの書かれる文章にはどこか衒いを感じるし、川本さんの“味”でもある控えめも感じられない。むしろ読まなければ良かったかな、とさえ思ったくらいだ。

 “懐かしさ”とか“思い出”は若い頃は年寄り臭くて嫌だったがいまは逆に「人は思い出を作るために生きているのではないか」とその倒錯を楽しむようになった。こんな無味乾燥な現代でも十年たてばグッド・オールド・デイズになるかと思うと何だか楽しい。

 確かにそうなのだが、この時期の川本さんがこれだけアメリカものをガンガンにカタカナを使って紹介している時に、こんな台詞を吐くのは嫌味に聞こえた。グッド・オールド・デイズというのも嫌らしい。

 それでもいくつか面白いものもある。
 映画『マルサの女』である。

 『マルサの女』は逆に後味が悪かった。こんなにみんなが税金にハラを立てているときに税務署PR映画を作る神経がしれない。

 どうやら川本さんは税務署とやり合っていたようである。映画は面白かったと思うけれどなあ。
 もっとも私も会社で税務調査で二度ほど税務署とやり合ったことがある。忙しいのに2年度分の資料、領収書等を用意させられ、会社の事業内容を分かりもしないくせに細かいこと突っついてくる。こちらはやましいことは一切していないので、伝票も資料も領収書もきちんと日付順にファイルしてあるから、どうぞ調べて下さい、といった感じでふんぞり返っていた。
 最初の時は会社から何も出て来ないものだから、手ぶらで帰る訳にもいかなかったのだろう。お土産をもらえなかったので、社員の所得税徴収までいちゃもんを付けてきたのを覚えている。このときは二日立ち会いに付き合わされた。二回目も二日の予定だったのが一日で終わった。確かこの時は「申告是認」をもらったはずだ。当たり前だ。
 税務調査が終わると、伝票や資料、領収書などを入れたダンボールをかたづけるのに一苦労で、あいつら散々かき回して、はいおしまい、で帰って行く。一言「お忙しい中お手間をかけました」と言えないのか、と思ったものだ。

 そして本を勉強のために読む“ガリ勉型読書家”ではなく、時代の風潮や流行にとらわれず自分の趣味のおもむくままに本を楽しむ“エピキュリアン型読書家”であることが必要だろう。

 本を読む楽しみはこれでいいと思う。

 東京の温泉では麻布十番温泉や馬込温泉が有名だが私は墨田区の両国駅から歩いて十分ほどにある御谷湯が気に入っている。東京の正統な温泉らしくコーラ色の湯だ。

 昔忘年会だったと思うが、新宿十二荘温泉でやったことがあって、そこの温泉に入った。それまで温泉とはせいぜい白濁しているものと思っていただけに、湯の色がコーラ色だったにものすごく驚いた覚えがある。

 飛行船に乗るのはもちろんはじめて。埼玉県桶川にある荒川の河川敷が飛行船の乗船場。そこからふわりと浮上し、三百メートルの上空を時速約七十キロで飛んでいく。

 そう言えば飛行船は本当に見なくなった。以前何かで読んだが、今は日本に一機しかないといっていたと思ったが。しかし上空三百メートルじゃスカイツリーにぶつかっちゃじゃないか。

 なぎら健壱によればこのカタ屋は東京にしかなかったらしい。いまは一人しかいない。江東区の森下公園にときどき店を出すという。こんど探しに行ってみよう。
 この本を読んで長年の疑問がひとつ氷解した。もりそばとざるそばの違いである。あれはただののりの有無の違いかと思っていたがそば好きのなぎら健壱によるとそうではなくツユの違いなのだという。ざるのほうがツユが高級品なのである。そうだったのか!

 カタのことについては増田みず子さんの本の時書いた。あれは東京にだけあった子供の遊びだったんだ。
 それとざるそばともりそばの違いは、私もそばの上に海苔がのっているかどうかの違いだとずっと思って来た。まさかそばつゆも違うとは知らなかった。
 幼なじみに日本そば屋を継いでいる友人がいるので、機会があったら聞いてみたいものだ。

川本 三郎 著 『パン屋の一ダース』 リクルート出版(1990/02発売)


# by office_kmoto | 2017-11-03 06:54 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

平成29年10月日録(下旬)

10月17日 火曜日

 雨のち曇り。

 胃カメラ検査。何だか検査をする度におかしなところが検査表に記載されてくる。


10月18日 水曜日

 晴のち曇り。

 久しぶりに太陽を見る。なんでも東京では4日連続日照時間0時間だったそうだ。そしてまた明日から天気が崩れるという。
 というわけで貴重な晴れ間を使って蒲団を干し、庭と玄関先の掃除。その後部屋の掃除もする。扇風機も掃除をしてしまい込んだ。さすがにもういらないだろう。
 図書館で予約しておいた伊集院静さんの新刊、と色川武大さんの未収録エッセイ集を借りてくる。なんとこの三冊私が初めて借りたようで、まだスピンがページにきれいに挟まったままであった。色川さんの本が4,200円、伊集院静さんの本が上下で3,200円、計7,400円が無料で借りられる。いきなりこれを購入するにはちょっと勇気が要るから、やっぱり図書館は有難い。
司馬遼太郎さんの『司馬遼太郎が考えたこと』5巻を読み終えたので、さっそく色川武大さんのエッセイ集から読み始める。


10月19日 木曜日

 雨。

 冷たい雨が降る。最低気温が9.9度だったという。

 夕方元同僚からLINEが入る。同じ同僚のことを知っているか、という話。何か嫌な予感がして、折り返し返事をしたら、亡くなったという。しばし呆然とする。まだ若いのに、何故?というのが頭によぎる。
 明日町屋斎場でお通夜とのこと。参列することにする。


10月20日 金曜日

 雨。

 Kさんの通夜に参列する。彼女は勤めていた会社が経営していた調剤薬局で医療事務員をやっていた。それ以外に薬局の雑務をやってもらっていた。今から思えば、薬局長を除いて、私はそんな彼女を連絡役として、一番会話をしていたと思う。やさしい人だった。
 会社の経営が行き詰まり、薬局を閉局しなければならなくなった。その最後の日、「お茶の水店の同窓会みたいなものができたらいいですね。みんな集まって……」と彼女が言っていた。薬局のみんなが解雇され、私もその半年後、解雇された。
 あの最後の日から未だ同窓会は行われていない。もちろん彼女とも会っていない。そして再会が今日になり、しかも彼女の遺影となってしまった。享年49歳という。残念で仕方がなかった。


10月21日 土曜日

 雨。

 大型の台風が来ているので、明日の選挙へ行くのは大変かな、と思い、ニュースでも期日前投票を勧めているので、じゃあ行ってみるか、と近所の区民館に行ってみると、まず車が縦列していて、駐車場に入れない。さらに投票をする人が雨の中外で長蛇の列で並んでいる。これは投票どころじゃない、と諦める。
 夕方のニュースでも期日前投票が大変な混みようで、まるで人気アトラクションを待つ列のようだと言っていた。まさしくその通りであった。
 天気が悪化する中、こうなることがわかっているのだし、しかも期日前投票を勧めているなら、その対策をすべきじゃないか。このあたりが役人のやる仕事である。言うだけ言ってその後の対策は何もしない。
 明日の天候次第では、棄権も考えている。

 色川武大さんの『戦争育ちの放埒病』を読み終える。


10月22日 日曜日

 雨。
 台風21号が接近しているため、強めの雨が降る。東京にもっとも接近するのは明日の朝という。ということで今回選挙は棄権する。
 夜開票速報を見るが、やはり自公が圧勝だった。そして鳴り物入りの希望の党は失速し、希望の党に排除された立憲民主党が野党第二党になりそうだ。これもやっぱりと思った。民進党を離党して希望の党に入った“選ばれた人”はこれからどうするんだろう?

 伊集院静さんの『琥珀の夢―小説 鳥井信治郎』上巻を読み終える。以外に面白い。


10月23日 月曜日

 雨のち晴れ。

 朝方台風がもっとも接近し、大雨強風となったが、通過後台風一過となった。

 伊集院静さんの『琥珀の夢―小説 鳥井信治郎』下巻を読み終える。


10月26日 木曜日

 晴れ。

 整形外科に首の牽引に行く。


10月27日 金曜日

 晴れ。

 神田神保町の古本祭りに行く。毎年行っているので、楽しみにしていたのだが、ここでは何も買える本はなかった。
 三省堂の中にある古書館で山口瞳さんの本を買う。この本は以前行ったとき、目を付けていた。もし今日、売り切れていれば仕方がないと思っていたが、まだ売れずにあったので購入する。その後新刊の平台をザッと見て、隣にある古書かんたむで、色川武大さんの文庫本も購入。
 そのまま秋葉原まで歩き、ブックオフで佐伯一麦さんの欲しいと思っていた本が200円で売っていたので、すぐ購入。
 さらに自宅の近くにあるブックオフでこれも目に付けていた常盤新平さんの本を買って帰った。


10月28日 土曜日

 雨。

 また台風が来るらしい。

 司馬遼太郎さんの『司馬遼太郎が考えたこと』の6巻を読み終える。


10月29日 土曜日

 雨。

 台風の影響により雨が強く降る。このため一日中家にいて、パソコンで文章を書いたり、本を読んだりして過ごす。時たまテレビを付けて台風がどこに居るのか確認する。

 読んでいる本は佐伯一麦さんの本だが、この本は図書館で借りて読んでいる。ここのところ図書館で借りて、良かった本を古本で買って(大概が古い本なので本屋にないから)自分の本棚に置く。そしてそれを再読することが多くなった。一昨日古本祭りで買った本もやはり図書館で借りて、手もとに置きたいと思った本たちであった。
 こういう本の買い方、読み方をするとは考えていなかったが、本棚も一杯になりつつあるので、これはこれでいいような気がする。自分のお気に入りの本が本棚に並んでいるのを眺め、悦に入っている。


10月30日 月曜日

 晴れ。

d0331556_06102555.jpg 佐伯一麦さんの『とりどりの円を描く』を読み終える。これも以前図書館で借りて読んで、手元に置いておきたいと思って求めたものだ。
 この本は読書エッセイである。読んできた本を紹介するのだが、ストレートに本の話になるのではなく、日常の出来事から、思い出した本を語る。
 こういう話の中で出てきた本というのが案外気になる。私は本の中で紹介された本に結構興味を持って、次読んでみようと思い、読む本の幅が広がってきた。今回もちょっと読んでみようかな、と思った本が数冊あり、明日図書館に本を返しに行くので、その時借りてこようと思っている。


 昨年の秋、文芸誌の小さな記事で、結城信一の全集が出たことを知った。未知谷という馴染みのない出版社からで、全三巻だという。ああ、いい全集だろうな、と思った。以前八木義徳氏が、「全三巻の全集を持つことが、我々の文学世代の人間にとっては、夢だったんだよ」とおっしゃっていたことも頭にあった。


 この一文を読んだとき、全三巻の全集といえば、青土社から出ていた『原民喜全集』のことをふと思い出した。
 大学時代読みたいと思い手にしたのだが、結局読めず、後で読もうという気にもなれなかったので、売ってしまった。時たま古本屋で見つけることがあるこの全集は、やっぱり売らなければよかったと後悔する本であった。
 全集だからページ数もあり、大判の持ち重りのする白いケースに入った、シンプルだけどいい装丁の全集だった。そして今なら読めるのにとも思うものだから、余計に後悔の念にさいなまれる。

 今日は東京木枯らし1号が吹いた。午後より叔母の見舞に妻と行く。


10月31日 火曜日

 曇りときどき晴れ。

 ボールペンを処分した。ペン立てにあるボールペンのほとんどが、勤務していた頃に製薬会社からもらったノベルティグッズとしてのボールペンである。
 もともと文房具大好き人間なので、目新しいものが来るともらって来ていた。それがたまりにたまりものすごい量になっていた。ペンなど書けるものが数本あればいいのだが、ついつい捨てられず、仕事を辞めてから何度か処分したのだが、それでも20本から30本くらいある。
 それでいて普段使っているボールペンは決まっていて、先日などインクがなくなったのでわざわざ替え芯を買ってきて使っている。捨てるほどボールペンがあるのにである。それに使うといっても、せいぜいメモ書き程度にしか使わないのだから、そうそうインクが減るわけもない。何か書く時は万年筆を使う。
 買えばそれなりの値段がするはずだが、思いきって捨てることにした。捨てるのは今使っているボールペンは除き、それ以外製薬会社の名前の入ったものとする。
 それでも10本くらい残ったか。まあいい。

 図書館に本を返しに行き、いつもの通り予約していた本を借りてくる。

# by office_kmoto | 2017-11-01 06:13 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

安住 孝史 著 『東京 夜の町角』

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 画文集である。
 しかし安住さんの描くこの鉛筆画はすごい。こんなに細かく描くには相当の根気が必要だったんじゃないかと思った。

 僕は、一本の鉛筆にこだわって絵を描き続けて来ている。絵には色彩はほどこさない。黒鉛筆一本やりの細密描写に徹している。絵の値打ちは画材によるものではなく、一枚の画面に対する「おもい」の深さなのだと思っているからだ。何処にでも転がっている、誰もが使ったことのある簡単な材料で、世界一素晴しい絵画が作れたら……と思っている。
 それともう一つのこだわりは、夜景ばかりだということである。たしかに銀座・新宿・六本木の盛場の夜は眩いばかりに明るい。しかし、きらびやかなネオンの影にも、闇は厳然と存在している。そしてその闇は、心の中のおどろおどろした闇へと連なっていく。夜は恐いものなのだ。そして夜道に光る小さな灯りの温かさは、鉛筆の持っている温かな色に似ていると思う。

 著者は絵を描いて生きていくことを決意するが、生活を両立するために様々な仕事に就いてきた。一時は挫折もし、絵筆を取らなかったが、タクシー運転手になって、友人からもう一度絵を描くことを勧められた。

 タクシー運転手をしながら絵を描き始めたが、タクシーの小さな箱の中に人々の営みは、僕に人間に対する“いとおしみ”を深めさせていた。寝静まった街の片すみに車を止めて、人間の生活に“おもい”を寄せる時、どのような画材ででも確固たる絵画が作れるという確信が心の中に広まっていった。

 僕は美しい山や川の景色よりも、何げない日々の中の風景の方が好きだ。人間の営み、人に対するいとおしみが絵を描く出発点だと思っている。道具も特別なものはいらない。一本のエンピツがあれば良い。何処にでも転がっている材料で、何処にでもある、ありふれた風景を描くことが性に合っている。

 著者のあとがきを読んでみると、ここに掲載されている鉛筆画はタクシー運転手時代のもののようで、運転の合間に夜の町を描いたものなのだろう。
 絵は夜の町である。従ってほとんどの絵には人物は描かれていない。描かれていても原宿駅の二人連れだけだったり、夜の巣鴨のうなぎ屋でうなぎを焼き上がるのを待っている客の後ろ姿だったりする。原宿駅の二人連れの絵はいいものだ。後ろ姿しかわからないが、年輩の二人連れにように見える。女性が男の腕を取っている。
 ちょっといい話も書かれている。

 「絵描きさん、電灯を点けてあげましょうか」。床屋さんの家を描いている僕に後ろから声が掛かった。人さまの家の入口の所で絵を描いているのであるが、薄暗がりで絵を描いていたので、家人が気を利かせて声を掛けて下さったのである。
 絵を描いていると思い掛けぬ人の心のやさしさにふれることがある。暑い夏の盛りにがだまってコーラを下さった人もあるし、草臥れたらお座りなさいと椅子を出されたこともある。銀座の路地裏を描いていた時のこと、絵を描き終ったらお茶でも飲みなさいと、お店のおかみさんが紙切れをポケットに入れた。描き終えてポケットを見ると、四ツに折った千円札が入っていた。

 この柳橋でも通るたびに想い出される人がいる。――橋を渡ろうとする際で、仲居さんに、東京駅八重洲口までお客様を頼みますと呼び止められた。駅まで六百円ちょっとの距離だったが、仲居さんは千円札を出し「お釣は結構です」と丁重であった。待つほどに、客が女将に案内されて来た。映画「男はつらいよ」に出演している午前様の笠智衆さんであった。僕は好きな俳優さんだったから、にこにこと運転した。駅について「料金は前に頂戴してあります」と言ってドアを開けた。けれど笠さんは降りて来ない。ドアーを少し開け放して待っていたが、何かごそごそと音がし、振り返ると、小さな小銭入れに指を入れて、探し物しているようであった。何をしているのだろうと訝っている僕に、やがて五拾円玉を一つ差し出し、「おつかれさま」と言った。笠さんの誠実さと温もりの伝わる五拾円玉であった。僕の胸のポケットの免許証にそれを仕舞うと、得意気に夜の町へ車を出発させた。

 笠さんの五拾円玉を渡して「おつかれさま」という言葉掛けもいいが、運転手としての著者の言葉遣いもいいものがある。「料金は前に頂戴してあります」という「頂戴」という言葉は今の人は使わなくなっているのではないか。

安住 孝史 著 『東京 夜の町角』 河出書房新社(2001/10発売) 河出文庫


# by office_kmoto | 2017-10-29 06:26 | 本を思う | Trackback | Comments(0)