本川 達雄 著 『ゾウの時間 ネズミの時間』

本川 達雄 著 『ゾウの時間 ネズミの時間』_d0331556_4355058.jpg この本は以前から気になっていたのだが、ただ私に理解できるのかな、という不安があった。で、今回わからなくてもいいからわかる範囲で読んでみようと思った。

 この本は動物のサイズによって、時間進み方が違うということを言っている。そして動物の各パーツや、エネルギー量や、食物摂取量などもある程度の公式が見出せ、それによって算出されうる、というのである。で、動物による時間の進み方は、「時間は体重の1/4乗に比例する」というのである。この1/4乗則は、時間に関わってくるいろいろな現象に非常に広く当てはまってくる。それは寿命、大人のサイズに成長するまでの時間、性的に成熟するのに要する時間、懐胎期間、息をする時間間隔、心臓が打つ間隔、腸が一回じわっと蠕動する時間、血液が体内を一巡する時間等々、ほぼこの「時間は体重の1/4乗に比例する」の公式で見出せるというのである。
 ということはゾウのような体の大きい動物は時間がゆっくり進み、ネズミのような小動物は時間が早く進むことになる。寿命もこの公式によれば、ゾウはネズミより長生きすることになる。
 その上でほ乳類ではどの動物でも一生の間に心臓は20億回打つし、呼吸も一生に約5億回する。サイズの大小に限らず、この回数は変わらないらしい。ということは、ネズミのような小さな動物の体内で起こる現象のテンポ、ゾウよりかなり早いことになる。逆を言えばゾウはネズミよりテンポが遅いということである。そこで著者はは次のように言う。


 「私たちは、ふつう、時計を使って時間を測る。あの、歯車と振子の組み合わさった機械が、コチコチと時を刻みだし、時は万物を平等に、非常に駆り立てていくと、私たちは考えている。
 ところがそうでもないらしい。ゾウにはゾウの時間、イヌにはイヌの時間、ネコにはネコ時間、そしてネズミにはネズミの時間と、それぞれサイズに応じて、違う時間の単位があることを生物学は教えてくれる。生物におけるこのような時間を、物理的な時間と区別して、生理的時間と呼ぶ。

 心周期や呼吸周期もそうだし、懐胎期間や成獣になるまでの時間、寿命のような、一生に関わる時間も、ほぼ体重の1/4乗に比例するということは、それに関わるエネルギー消費量は単純に考えて、時間が体内で早く進む動物の方が、エネルギー消費量が多いことになることが予想できる。時間がゆっくり進む動物はエネルギーを使わない。ゾウを見ればゆっくりと動くし、ネズミはちょこまかと動き回るのを見れば、それは納得できる。そこで今度は「エネルギー消費量は体重の1/4乗に反比例する」という関係になる。
 さらにサイズと時間速度はその動物の体内のパーツに及ぶことは間違いないから、ここでも一定の公式が見いだせる。それがここでは細かく説明されているのだが、この点は私には難しかった。むしろサイズが小さいことは、時間が早く進み、エネルギーが消費量が多いし、その分栄養を取らなければならないため、大食いとなる。要するに四六時中ものを食べていかなければ、命を維持できないことになる。時間的余裕などあるわけがない。
 逆を言えばサイズの大きい動物は食事に当てる時間が少なく済み、時間的に余裕があるということになる。また細胞レベルで見ても、大きい動物は代謝率が低くて済む分、能力に余裕があることになる。さらにサイズの大きい動物は体積あたりの表面積が小さくなるので、表面を通して環境の影響を受けにくい。
 などなど、サイズの大きい動物はサイズの小さい動物より、あらゆる面で余裕がある。知能が発達する余裕もあるし、長生きなので、じっくり学ぶことも出来ることになる。

 ところで進化の過程を見てみると、生物は最初、サイズの小さいものから進化してきた。ではなぜサイズの小さいものから進化が始まるのか?それは小さいものは一世代の時間が短く、個体数も多いので、短期間で突然変異が生まれる確率が高いからである。また小さいものほど移動能力が小さいので、地理的に隔離される確率が高く、従って新しく変異でできた集団が、そのまま独自の発展を遂げる機会も多くなる。もちろん逆もある。サイズが小さいほど、環境の変化に弱いので、環境に適応できなかったものは淘汰されてしまう。要するに変化が激しいから、進化の最初になれたのである。そこからどんどん変異していき、サイズが大きくなっていくことになる。それでは地球上の生物はすべて大きいものばかりになってしまうことになってしまうが、でも小さい動物は次々と変異を生みだし、「へたな鉄砲も数打ちゃ当たる」という流儀で個体数が多く生み、後継者を残してきたのである。
 ここで「島の法則」が紹介される。これが面白かった。島に隔離されると、サイズの大きい動物は小さくなり、サイズの小さな動物は大きくなる、というのである。これは捕食の問題で説明できるらしい。島では肉食獣のえさである草食獣が少ないことで、肉食獣の数が減り、そのため捕食者がいなければ、ゾウは大きくなる必要はない。ネズミも物陰に隠れる必要がないので、小さくなくていいことになる。もともとゾウは骨格系に無理してまでも自らの体を大きくしているのは、捕食者に食べられないようにするためである。ネズミも好きこのんで体を小さくしている訳じゃない。体が小さいことは先に書いた通り、心臓は早鐘のように打ち続けている訳だから、心臓や血管にかなりの負担をかけている。エネルギー消費量が多いため、いつもえさを食べ続けなければならないため、気候や環境によっていつもえさの心配をしていなければならない。それでもサイズを小さくしてきたのは、捕食者から逃れるためである。その足かせがなくなれば、大きくなっていくのは当然であろう。
 面白かったのはこの「島の法則」が日本に当てはまることを、著者の留学先のアメリカで感じたことである。


 島国という環境では、エリートのサイズが小さくなり、ずばぬけた巨人と呼び得る人物は出てきにくい。逆に小さい方、つまり庶民のスケールは大きくなり、知的レベルはきわめて高い。

 大陸に住んでいれば、とてつもないことを考えたり、常識はずれのことをやることも可能だろう。まわりから白い目で見られたら、よそに逃げていけばいいのだから。島ではそうはいかない。出る釘は、ほんのちょっと出ても、打たれてしまう。だから大陸ではとんでもない思想が生まれ、また、それらに負けない強靱な大思想が育っていく。猛禽な捕食者に比せられさまざまな思想と戦い、鍛えぬかれた大思想大陸の人々は生みだしてきたのである。


 ここまで著者は書いて、それはそれで敬意を表するのだが、これってゾウと同じだ、と思うのである。これらの思想は、人間が取り組んで幸福に感ずる思考の範囲を超えて巨大になりすぎてはいないか、と言うのである。ゾウも捕食者に襲われないように無理して体を大きくしてきた。そのためゾウは非常に大きくなったことで、一世代の時間が長く、その結果突然変異により新しい種を生みだす可能性を犠牲にしている。体が大きいという特殊化しているが、これは進化の袋小路に入り込んでいることを示している。事実ゾウの仲間で現在生き残っているのはインドゾウとアフリカゾウの二種類だけで、この仲間は絶滅へと向かっている。ということは大陸で生みだされた思想も必要以上の無理なサイズのため、その方向性を帯びている可能性があることを、著者は警鐘を鳴らしている。

 この本はサイズを考えることで、最終的にヒトというのを相対化して見ることを暗に求めているが、これなどはまさにそうであろう。著者はあとがきで、「都会人のやっていることは、はたしてヒト本来のサイズに見合ったものだろうか?体のサイズは昔とそう変わらないのに、思考のサイズばかり急激に大きくなっていく、それが今の都会人ではないだろうか。体をおきざりにして、頭だけどんどん先に進んでしまったことが、現在の人類の不幸の最大の原因だと私は思っている」と書いてあるが、まさにそうだ。
 サイズから見出される公式から日本人を見ると、すごいことになっている。


 日本人の一次エネルギーの消費量が4274ワット。これに食糧の消費量の127ワットを加えた4400ワットが、日本人の平均的なエネルギー消費量である。標準代謝量は平均値の半分と見積もれるから、2200ワットが現代日本人の「標準代謝量」と言えないこともない。ちなみに2200ワットの標準代謝量をもつ動物をネズミ-ゾウ曲線にあてはめて求めてみると、体重は4.3トン、つまりゾウのサイズとなる。エネルギー消費の上からみれば、現代人はかくも巨大な生きものになってしまったのだ。


 ヒトのサイズの動物の密度を求めてみると、1.4匹/平方キロメートルとなる。1985年の日本の人口密度は320人/平方キロメートルなので、サイズから予測される密度の、なんと230倍の密度で暮らしていることになる。逆に、日本の人口密度ほどギュウギュウに住んでいる動物はどれほどのサイズかと計算してみると体重はたったの140グラムになる。
 以前、日本人の住居をウサギ小屋と評した外人がいた。気を悪くした方も多かったと思うが、こうして計算してみると、あれでも誉めすぎだったと言えないこともない。今の日本人の生活は、ウサギ小屋ならぬネズミ小屋暮らしというところか。


 すごいね。まったく・・・。


本川 達雄 著 『ゾウの時間 ネズミの時間』 中央公論社 (1992/08/25 出版) 中公新書〈1087〉
by office_kmoto | 2014-05-02 04:37 | Comments(0)

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