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山口 瞳 著『旦那の意見』

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  この本は山口さんの数多くあるエッセイの一つだが、但し書きが付く。あとがきに「小説家の随筆集を出してもらうのは初めてだ」と書く。わざわざ「小説家」と書くのだから、このエッセイ集はこれまでの山口さんのエッセイと比べると、堅苦しい。例によって一度読んだだけではわかりにくい文章のところはあるのだが、それに加えて山口さんのサービス精神溢れる文章が少なく、一本調子であった。逆にいえばそれだけ真剣な態度で書かれた文章でもあった。
 例によって言葉を拾う。

 何もしないでいる人生がある。国事に奔走して、紅葉の花(実はそれが花であるかどうかハッキリとは知らない)やヤマボウシの花の美しさに気がつかないでいる人生がある。そんなことをボンヤリと思っていた
。(これだけの庭)

 いったい、私を支えているものは、私を生かしめしているものは何だろうかと考えてしまう。なんだか、空中に浮いているような気がする。(山登り)

 私は、小説家は、一度は身辺のことを書くべきだと思っている。一度は自伝小説を書くべきだと思う。実のことを言えば、そのことで血を流していない小説家を全く信用していない。
 小説にかぎらず、作品と作者との関係は、なんとも血なまぐさいものに思われてくる。(私小説と歳月)

 私は永井龍男という名を見ると、反射的に、明窓浄机という言葉が浮かんでくる。(吉行さんの名刺)

 このデンでゆくと、「名を捨てて実を取る」もすでに立派な市民権を得ていると思われる。いまに、関西流の「エゲツナイ」も市民権を得て、美徳の一種になるだろう。「ゴネ得」などは、最高の道徳に昇格するのではあるまいか。(下駄と背広)

 私小説のことを書いた文章はまさしく自分もそう思うようになった。それまでは自分のことを女々しく書いて金が儲けられるとは、小説家とはいい身分なものとしか思っていなかった。小説家自身のことしか書けない、物語を作れない、そんな奴が私小説を書くんだ、と思っていた。
 ところがそうして自分を晒すことが、如何に大ごとなのか、最近わかるようになってきた。それだけの決心が必要なのである。覚悟が必要なのである。そういうのが私小説だと思うようになっている。
 永井龍男さんの明窓浄机は頷いてしまう。
 この本は40年ほど前に書かれた本だが、その時「ゴネ得」が最高の道徳に昇格するかもしれない、と予想しているが、まさしく今、そうなっている。

山口 瞳 著『旦那の意見』中央公論社(1977/05発売)



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by office_kmoto | 2017-06-20 05:08 | 本を思う | Trackback | Comments(0)