4月23日 月曜日

 くもり。

 先日眼鏡を作り直して、それが出来上がったので受け取りに行った。今回は以前使っていたフレームを使ってレンズのみ変えた。
 今使っている眼鏡は長い時間掛けていると、耳が痛くなってくる。なので私には使い勝手が悪い。だから以前使っていた眼鏡のフレームの方が楽なのでこちらを使うことにしたのだ。
 この眼鏡、勤めていた時ずっと使ってきたものであった。眼鏡を掛けて一日中パソコンに向かって仕事をしていても、耳が痛くなることはなかった。フレームは結構な値段がしたが、それなりの価値があった。だからこれをまた使うことにしたのである。

 この店では眼鏡ケースをサービスでもらえるのだが、出来ればこの眼鏡を入れている皮(合皮?)製でボタンホックで留める新しいものが欲しかった。けれどこれは製造中止になっていると言う。なんでも皮製のため鞄に入れるとケースが潰れてしまい、眼鏡が壊れるというクレームがあったためだという。そんなことわかりきったことだと思うのだが……。
 もらったケースはバネでパチンと閉まるものだが、どうもイライラする。音もそうだけれど、指を挟まないように気をつけないとならない。
 結局これも今まで使っていたケースをそのまま使うことにした。これまで使ってきて使い勝手のいいものは、これからも使えるなら使っていた方が、自分になじんだ物だけに、いい。そんなことを思った。


# by office_kmoto | 2018-04-24 07:46 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

鹿島 茂 著 『東京時間旅行』

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 この本の「はじめに――東京五輪大作戦」は面白い。

 東京は関東大震災、東京大空襲で焼け野原になり復興のため、それまでの風景を一新した。壊滅的な被害を受けたためそうせざるを得なかった。そしてさらに1964年の第一回東京オリンピックで再開発名の元で、かつてあった東京をさらに大きく変えていった。
 この本はこの東京オリンピックがオリンピック招致がそのものの目的ではなく、東京が新たに、また変わるための手段として使われたのではないかというのがこの本の仮説である。

 オリンピックで東京が変わったのではなく、東京を変えるためにオリンピックを行ったのではないか?東京を大改造するという前提がまずあって、オリンピックはその口実にすぎなかったのではないか?だとするならば、その東京大改造のプランナーはだれなのか?

 換言すれば、戦後の都市事情がオリンピックを必要としたということになる。

 ここに戦後の東京都知事は安井誠一郎であった。空襲で焼け野原になった東京は、復興で計画通り思いのまま進めることが出来たはずだ。しかし莫大な金をかけて復興計画を推し進めることは出来なかった。税金を納めてくれる事業体は壊滅状態だったし、都民は「食糧をくれ」「住宅をよこせ」と再開発より当座をどうしのぐかそこに重点が置かれてしまう。しかし安井は出来るなら大規模な都市改造を行いたいと考えていて、東京は日本の首都なのだから、ということで国会に働きかけ、「首都建設法」を制定させることに成功する。しかしこの特例法は期待したほど国が力を貸してくれなかった。
 さらに悪いことは東京の人口増加が予想以上のスピードで進んだため、国が全面的にバックアップせざるを得ない思いきった手段に出るしかなかった。それがオリンピックであったのだ。

 オリンピックを開催し、外国人が大挙して東京にくるなら、そして、東京が旧態依然のままであったなら、恥をかくのは国である。国としては大幅な予算を割かざるをえなくなるだろう。ひとことで言えば、安井は、予算不足で断念した復興計画をオリンピックという「外圧」によって強行しようと考えたのである。

 やはり、われわれの仮説は正しかったことになる。オリンピックで東京が変わったのではなく、東京を変えるためにオリンピックを行ったのである。オリンピックは、外国人に恥をさらしたくないという日本人の羞恥心をいたく刺激したゆえに、首都改造の格好の口実となったのである。

 そこで、東京都は、開催が決定すると、国の全面的支援を得てまっさきに環境整備に着手したが、それは大きくわけると次のようになる。道路の整備、上下水道の整備、衛生対策、清掃対策、首都美化運動、宿泊施設対策などである。

 ここで行われた環境整備のなかで、いまだに批判が多くあるのが道路整備だろう。この道路整備を進めるためのプランは東京都建設局計画部長、首都整備局長としてオリンピック前後の十二年間にわたり東京の都市計画を担ったのが山田正男であった。

 首都高速道路はおろかオリンピック関連道路のほとんどは「都庁の天皇」と呼ばれた山田正男のプランに基づくものであるという。東大の工学部を出て内務省に入った昭和十二年から、山田はいちはやくモータリゼーション時代を予見して道路計画を研究し始めた。内務省の上司石川栄耀(後の東京の復興事業を手掛けた都庁の名物官僚)の指示で昭和十三年に「東京高速道路網」の構想を打ち出した。その路線は内環状といい、四本の放射線(現在の一、二、三、四号線に相当)といい、現在の首都高速とおどろくほど似ている。塚田博康はこの事実を発見して、こう指摘している。
 「こうして見てくると、一九六〇年代に展開された東京の道路関係の計画は、一九三〇年代後半に山田氏の頭のなかで描かれたさまざまなデッサンを東京というカンバスに具象化した結果とさえ思える」

 特に日本橋の上に高速道路を通したことは、池波正太郎さんを持ち出さなくても江戸情緒を消滅させたという批判が出た。この批判に対して山田は、

 「ニホン(二本)橋なんだから(上下に橋がかかっていても)いいじゃないか」と笑い飛ばしたという。

 こんなこといま言ったら、バッシングの嵐だろう。平気でこういうことを言える神経がすごい。
 「神田神保町」も面白かった。鹿島さんは以前神保町に事務所を持っていた。学者である鹿島さんにとって、本は資料として必需品である。神保町はその資料の宝の山と言っていいんだろう。当然本は増えるわなあ。そのことが書いてある。

 しかし、あまりに便利すぎるためか、本の増殖が半端ではなくなった。さくら通りに八坪の事務所を借りたのが、横浜から引っ越すそもそものきっかけとなったのだが、そのうちすぐにここは満杯になり、次はすずらん通りに昭和三十八年に建ったビルの三階に移転。十四坪だった。
 だが、これも一年半で満杯になったために、今度は同じフロアーの二十坪の部屋に引っ越した。ところが、余裕ができるとすぐ本を買い増しする悪い癖が出て、なんとここも満杯に……。つまり、神田神保町にいる限り、本は無限に増殖してゆくのである。

 神保町の古本街にもホームページがある。しかしこのホームページ本当に使い勝手が悪い。

 まず、神保町はインターネット時代への対応がかなり遅れている点を挙げなければならない。地方の古書店は、客が足を運んでくれる機会が少ないこともあり、インターネット対応はかなり早かったが、神保町は「古書の街」という誇りがあるためか、ネット検索がシステムの構築に消極的だった。他店と価格を比較されるのをいやがるとか、店主がカンピューターを信じ過ぎるとか、あるいは店主が老齢でパソコンを操作できないとか、いろいろと理由があるだろうが、とにかく、いまのところ、神保町の全店網羅的な検索体制は確立されていないのである。
 いちおう「じんぼう」という検索網は存在するのだが、他のに比べると、はなはだ弱体ではある。私の仕事の関係上、毎日のように古書検索をしている(もちろん、和書)のだが、「日本の古本屋」や「スーパー源氏」、「高原書店」でヒットすることはあっても、「じんぼう」ではめったにヒットしない。

 まったくこの通りなのである。私は古本をネットでよく探すので、古本の検索が出来るサイトをお気に入りに入れてある。けれどこの「じんぼう」はダメで、検索しても該当なしといつも出てくる。日本一の古本屋街がこれじゃどうしようもない。なのでこのサイトで検索はしない。

 去年古本祭りへ行ったとき、神保町の古本屋の地図をもらったのだが、そこには知らない名前のお店が結構あって、小さな新しい店がいっぱい出来ていることがわかる。そこの事情が説明されていて、なるほど、と思った。

 それは、古書の総売り上げが年々、減少していることである。神保町のどの店でも、バブル時の四割減、あるいは半減といったところか。神保町に恵比寿顔の店主は一人もいない。みんな、どうしたらいいんだろうという浮かぬ顔をしている。
 神保町の売り上げグラフは、新刊本の売り上げ減少カーブと見事なくらい軌を一にしている。新刊本が売れなくなっても古書は売れるということはないのだ。日本人が本を読まなくなっている傾向は古書の世界にも押し寄せているのである。
 にもかかわらず、神保町には本書(『吟遊書人 神田神保町古書街ガイド』)のような古書マニア相手のムックは溢れ、次々に新しいタイプの古書店が開店している。
 これはいったい何を意味しているのだろうか?
 古書マニアブームであっても、古書ブームではないということだ。古書店主になりたがる人間は増えていても、古書を買いたがる人間は減っているということである。これは、新刊本業界で「カラオケ現象」と呼ばれているのとよく似ている。カラオケでは、歌いたい人ばかりで聞きたい人が一人もいないが、新刊本業界でも、本を書きたいという人ばかり多くて読みたいという人がいないのである。

 これ以外にこの本で知ったことがいくつかある。

 (法政大学)の法政の「法」は、法律ではなく、法蘭西からきているそうだ。(神楽坂)

 私はこれまで法政の法は法律の法と思っていた。しかし違うらしい。詳しく説明すると、法政大学の歴史をひもとくと、1880年東京法学社の設立にさかのぼる。1883年には政府の法律顧問としてフランスから招かれたパリ大学教授ボアソナード博士が教頭に就任した。法政大学は日本では数少ないフランス法学の拠点校だった。数少ないというのは明治政府は憲法のモデルをフランスからドイツに切り替えたためなのだが、ちなみに当時憲法だけでなく世の中のシステムがフランス式からドイツ式に切り替えられた。

 銀座については、

 銀座というと、きまって思い浮かべるイメージは、地下の階段をのぼってくると、四角く切り取られた空が見え、その中に自分がじょじょに吸い込まれていって、突然、歩道の広い交差点の雑踏の中に現れるというものである。(銀座の四角い青い空)

 たしかに、考えてみると、銀座は新宿や渋谷と違って鉄道駅よりも地下鉄を使って来ることが多い盛り場である。銀座線、丸ノ内線、日比谷線、有楽町線、それに私が横浜から銀座に出るときに使う都営浅草線と、五本も銀座を走っている。だから、なにも私に限らず、銀座といえば、地下鉄から階段をのぼってくるときの映像を連想する人はたくさんいるはずなのだ。(銀座の四角い青い空)

 確かに銀座に行くというとなれば、やはり地下鉄を使う。JRの有楽町からだと四丁目まで歩くと、結構距離がある。最近はほとんど銀座に行かなくなったけれど、地下鉄の階段を上って地上が見えると、四角く切り取られた空が見えてくる。
 
 すなわち、銀ブラの気持ちよさの原因は、歩道が広いのに比して、車道が狭いこと、これに尽きるのである。
 銀座は幅広の歩道を歩きながら、車道の車に邪魔されることなく、両側のファサードを等しく眺められるし、気が向いたら反対側に気軽に渡ることができる。これが思っている以上にいいのである。(銀座の気持ちよさ)

 これはあまり考えたことがなかったことだ。銀座の歩道は広いのかなあ、と思った。私はどうしても三越の横から地上に出ることが多かったのか、あの辺りだと、地下鉄入口が歩道を狭くしているから、歩道が広いと感じなかったのかもしれない。

 日比谷公園の歴史も面白かった。日比谷公園は日比谷練兵場跡に欧米スタイルの公園をプランニングされたが、日本にはそうした公園を造れる人間が誰もいなかった。出てきたプランは盆栽や日本庭園式になってしまう。もちろんそれらはすべて却下された。業を煮やした東京市会は建築界の大エース辰野金吾に日比谷公園の設計を依頼する。しかし辰野は公園の造園は素人同然で、出来てきたプランはどうもイメージが違う。困った辰野はたまたま辰野の部屋を訪れた東京帝国大学農科大学教授の林学博士の本多静六が、公園の設計に苦慮していた辰野に少しばかりの意見を述べた。辰野は、 

 「君はそんなに公園のことを知ってゐるのか、自分は建築のことならともかく、公園の方はまったく初めてだ、実は東京市では日比谷練兵場跡に大公園を造ることになり、数年来庭師や茶の宗匠などに設計してもらったが、どれもこれも市会通らない。そして市会の希望は、日本に初めての新設公園だから、大体新式な西洋風の公園を造りたいといふ。その設計を頼まれて困り切ってゐるところだ。君一つやってくれないか」

 と本多に日比谷公園の設計を無理矢理押し付けた。本多はここから日比谷公園設計を嘱託されることとなった。

 ここからわかるように、日比谷公園は、まったく偶然から西洋造園学の専門外の頭脳から生まれたのである。そして、この偶然は同時に、日本の公園の父の誕生のきっかけともなった。なぜなら、日比谷公園の造園を契機に、本多静六は、明治神宮をはじめとする日本の公園や公立公園のほとんどを独力で造る造園学の巨人へと成長していくことになるからである。

 辰野に押し付けられた本多はドイツのマックス・ベルトラムの『造園設計図案』を参考にした。それは参考というより活用したと言っていいらしい。要するに本多静六が日本初の公園のモデルとして、もっぱらドイツ造園学に拠ったことになる。
 問題はそのドイツ造園学に拠ったことである。ドイツの造園学はオリジナリティーを示したユニークな造園学ではなく、ヴェルサイユ宮殿に代表される幾何学的なフランス庭園と、ハイドパークに代表される自然を生かしたイギリス庭園の折衷上に成り立った中途半端な造園学であった。

 このことが本多静六の日比谷公園のプランの性格をある意味決定づけた。すなわち、ヨーロッパ庭園の二大規範の「引用の引用」、つまり「孫引き」である本多静六のプランは、それゆえにオリジナルの思想(フランス庭園なら幾何学、イギリス庭園なら自然)を二重に欠いていた。その結果、日比谷公園はわれわれがパリやロンドンの公園に一歩足を踏み入れたときに感ずる思想性をまったく持たない公園になったのである。

 喫茶店第一号のことも書かれていた。

 コーヒーを飲ませることを売り物にした飲食店という意味でのカフェないし喫茶店の歴史をひもといてみると、ほとんどの記述が一致している。すなわち、コーヒーを飲ませる店としての第一号は、江戸時代に長崎で通事(通訳)をつとめていた鄭永慶が明治二十一(1888)年に欧米のカフェを参考にして上野に開いた「可否茶館」だという。

鹿島 茂 著 『東京時間旅行』 作品社(2017/10発売)


# by office_kmoto | 2018-04-23 06:35 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

常盤 新平 著 『たまかな暮し』

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「たまか」という言葉を初めて知った。大辞林によると、

たまか
(形動ナリ)

①実直なさま。誠実なさま。「―に商ひの道精に入りければ/浮・諸国はなし(5)」

②つつましく質素なさま。「成程―な女だ。一昨年遣はした手拭がちやんとしてあるな/怪談牡丹灯籠(円朝)」

広辞苑第六版には、

たまか

①まめやかなこと。実直。好色五人女[2]「其男身過を弁へ、…―ならば取らすべきに」

②つましいこと。倹約。好色二代男「源氏火にて文を読むなど―な事なり」

 とある。ちなみに講談社の日本語大辞典には「たまか」は載っていなかった。

 悠三は父親の啓吾と二人暮らし。父は母と離婚し、定年後翻訳の仕事を居職でこなしている。

 地味な、あたたかい父。サラリーマンだったころも定年になってからも、無口な父はいつも地味で、あたたかい。たまかな人。たまかとはつつましいということだ。

 悠三はしがない出版社に勤めている。景気は良くなく、ボーナスも出なくなった。そんな中、悠三は母が営む小料理屋を手伝うやよいと結婚し、お互いの身の丈に合った生活模様が描かれる。

 「覇気って何かしら」
 やよいが呟いた。やる気ということかなと悠三は言った。
 「僕にもそれはある。いい仕事をしたいという。お金が欲しいと思うときもある。でも、そういうことを考えたら、きりがない。僕は分相応ということばが好きなんだ」

 (略)

 「ア・ビット・オブ・ラック」
 「あら」
 「ほんのちょっぴりの幸運という意味さ」
 それを願っているし信じている。ほんのちょっと運がよければいい。もうそれだけでありがたい。万事に不器用であっても、ア・ビット・オブ・ラックを授かって暮らしてゆけたら。

 結婚後も生活のため、また母のため、やよいはそのまま母親の小料理屋を手伝い続ける。店が終わるのも遅いが、やよいと悠三は小料理屋の母親の手作り料理のお裾分けがあったり、やよいが母に教えてもらい料理を作ったりして、そこにはコンビニやスーパーの惣菜などの出来合い料理でない、慎まやかだけど豊かな食生活がそこにある。季節感が食生活にある。料理の季節感って、これほど贅沢なものなのか、と思った。
 そしてここにある「お裾分け」は料理だけではない。人からの好意もそこにある。悠三とやよいは人の好意に触れることによって、ちょっとした贅沢を味わうことができる。もちろんそれに感謝している二人があるからこそ、お裾分けに預かることができるのだろう。
 普段贅沢はしないけれど、時には路地裏にある名店を訪ね、そこで食事を二人でする。
 悠三は古臭いタイプの人間で俳句が好きで、いつも歳時記を持ち歩いている。時々の生活ぶりにあった俳句が歳時記から引かれる。これがいい味を出している。
 俳句というのは苦手なところがある。言葉を知らないものだから、どこでどう切って読めばわからないところがあって、意味がとれないことがある。でもここに引かれる俳句はある程度わかり、久保田万太郎の湯豆腐を詠んだ俳句はいいものだな、と思った。

≪湯豆腐やいのちのはてのうすあかり≫

常盤 新平 著 『たまかな暮し』 白水社(2012/06発売)


# by office_kmoto | 2018-04-21 05:49 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

4月19日 木曜日

 晴れ。


 孫が4月から小学校に通い始め、午後になると我が家に帰ってくる。娘が仕事が帰ってくるまで家で預かっている。小学校に通い始めてからまだそれほど時間が経っていないため、妻が孫が帰ってくる頃、家の近くで孫が帰ってくるのを待っている。
 通りから玄関まで十メートルほどあるが、そこを妻と孫が話しながら玄関に向かう姿を窓を開けて見ている。孫は学校であったことを妻に話しているのだろう。私の姿を見つけると、ランドセルを背負ったまま、両手を広げて走って、玄関に向かってくる。
 おやつの時間まで孫と遊ぶ。これまで午前中にやっていた庭や玄関の掃除をこの時間に孫とやる。孫は掃除というより遊びになるからちょうど良い。
 3時になるともぐもぐタイムとなる。大好きなお菓子をうれしそうに食べている。それから宿題を見てやり、4時からテレビでBSでやっているアニメを見て、夕食の準備ができると、2階にあがり食事となる。その頃ちょうど娘が仕事から帰ってきて、食事をしてから、近所のアパートに帰って行く。
 そんな生活がやっと日常になりつつある。騒がしい日々だが、孫がいるだけで、家が明るくなっている。
 こんな生活が来るとは思っていなかっただけに、「おばあちゃん」「おじいちゃん」と大きな声で呼ばれるとこれはこれで良かったのかなと思う。
 孫の元気な姿に圧倒され、いささか振り回されているが、まるで庄野潤三さんが描く小説のような世界が今、我が家にある。


# by office_kmoto | 2018-04-20 05:32 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

常盤 新平 著 『街の風景』

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 街を題材に採った連作短篇である。初出誌は「毎日グラフ」というかつてあったグラフ誌である。なんとなく街の写真があって、そこにここのある短篇が掲載されていたんじゃないか、と思えた。惹かれた文章を書き出す。

 高速道路の下の俎橋をわたるとき、橋の下を見た。水はよどんでいて、異様にくろぐろとしていたので、思わず目をそむけ、橋をわたって左に曲った。(寝正月)

 九段下から靖国通りを神保町へ向かうとき、この橋を渡る。もしかしたらこの川は昔のお堀なのかも知れないが、何と言う川か知らない。けれど確かに書かれるように目をそむけたくなる程の汚さを、橋を渡る度に思う。

 「早稲田通りをぶらぶら歩いていって、明治通りをわたると、古本屋が何軒もあるんです。古本屋のある街って好きなんですよ」
 森山のことばから、本の好きな人だとわかった。父も古本屋が好きだったし、父のお伴をして古本屋に行くと、秀子は退屈した。古本の好きな男とは結婚すまいと思っていた。

 高田馬場に遊びに来ないかと誘われたとき、秀子はためらった。森山が「ユタ」という喫茶店で待ち合わせようと言ったから承知したのである。
 ユタのことは母から聞いていた。父と母はここでよくミルク珈琲を飲んだという。

 「ユタでミルク珈琲を飲んだと親に言ったら、父も母もきっとびっくりするわ」

 「実はイタリア料理の店に予約してあるんだ。よかったかな」
 「まあ、素敵」
 「そのあと、よかったら僕のきたないアパートを覗いてみないか」
 「古本の山があるんじゃない?」
 森山は苦笑を浮かべた。
 「お掃除をしてあげる」
 そのことばが自然に出て、秀子は顔を赤くした。二人はミルク珈琲を飲むと、さらに冷えてきた夜の街へ出ていった。(父の街)

 いい感じである。

 有子は一生独身で、さびしく死んでいったが、それはそれでよかったのではないかと志村は思うようになっている。なにも長生きするばかりが仕合わせなことではあるまい。(坂の多い町)

 幸福な老後など考えるからいけないのだ、と地下鉄のなかで自分に言いきかせた。(川の色)

 老後を悠々自適に過ごしたいと思うのは誰しも同じだろう。きっとそれまでの生活があまりにも忙しく、人間味の少ない生活だったからこそ、そう願うのだろう。だけどその老後になってみても、ちっとも悠々自適ではなく、人間関係で悩まされ、些細なことに巻き込まれ、関わらざるを得ないことは同じように続く。こうではなかったはずだと思うから、腹がたつのだ。まさしく幸福な老後など考えない方が、精神的に良いように最近思う。だから長生きしても必ずしも幸せとは限らないと思うことが多く、この一文に惹かれた。

 「由起、離婚なんて大したことじゃないよ。私はそう思っている。ただひとりで生きていくのは大変だ」(父の定宿)

常盤 新平 著 『街の風景』 毎日新聞出版(1993/03発売)


# by office_kmoto | 2018-04-19 06:01 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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