瀬戸内 寂聴 著 『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』

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 この本は関東大震災のどさくさの中、憲兵に連行され憲兵大尉の甘粕正彦に殺害された、大杉栄の妻伊藤野枝のことを書いた伝記である。この作品を読んでみたいと思ったのは沢木耕太郎さんの評論を読んだからだ。大杉栄に関しては関東大震災のとき殺されたという程度しか知らなかったので、読んでみたいと思ったのだ。
 野枝は九州博多の今宿に生まれ、向学心に燃え、東京の叔父に懇願し明治43年に上野高等女学校に入学する。翌年そこに英語教師として辻潤が赴任してきた。在校生総代祝辞として立ったのが伊藤野枝であった。辻はその時から野枝が気にかかり、野枝も辻の英語の授業だけ熱中した。辻も野枝の持っている才能を自分がもっと伸ばしてやりたいと思うようになる。

 野枝はもう一日でも辻の顔を見ない日は学校に行った気がしなくなっていた。辻の考え方で物を考え、辻の感受性で物を感じるようになっていた。

 野枝が五年生の夏、叔父から結婚話が持ち上がる。結婚までの間、相手が野枝の学費を出すという条件になっていた。福太郎というアメリカ帰りの男で、野枝は結婚後アメリカに住むということに魅力を感じていて、仮祝言までしていた。しかしそのアメリカ移住の話も御破算となり、野枝は田舎での平凡な暮らしに耐えられなかった。卒業と同時に野枝は福太郎と結婚したが、わずか八日で婚家を飛び出し、上京し、辻の元へ転がりこんできた。

 辻は明らかに野枝が自分に救いを求めているのを感じながら、ただ彼女の悲憤や泣き言をだまって聞いてやるしか手がなかった。うっかり手を出せば、もう発火点に達している野枝から熱い火を移され、またたくまにいっしょに燃え滅びるのが目に見えていた。

 野枝はそのまま辻の元で押しかけ女房として収まり、福太郎との結婚を破談とした。しかしこのことで辻は勤めていた学校を辞めさせられることになる。以来辻は仕事をしない自由さを手放そうとはせず、失業のままであった。当然家の中は火の車となる。姑も貧しさの前には神経をとがらせ家の中は争いが絶えなかった。野枝も自分のことで辻が教師を辞めさせられたという負い目があった。
 それでも辻はアルバイト程度の仕事しかしなかった。ただ野枝を教育することには生きがいを感じ、妻というより生徒のような教えぶりであった。

 「野枝を生かしてやるよ。女の可能性の極みまで伸ばしてやる。野枝の中の才能をひきずりだしてやる。俺の知識もいのちもすべてを注ぎこんでも野枝を必ず、すばらしい
女にしてやる」

 そんな野枝に辻は平塚らいてうが主催する『青鞜』に入ることを勧める。野枝は青鞜へ通い、この中で最年少者として可愛がられ、自身の知的向上心を刺激され大いに満足であった。そのうち野枝は辻との間に長男一(まこと)を出産する。
 ここから平塚らいてうと『青鞜』の話が絡んでくる。これは知らなかったのだが平塚らいてう(明子)は漱石門下の森田草平と「塩原雪の彷徨事件」と騒がれた心中未遂を起こしていた。その明子が女性は旧い因習から脱却し、自ら歩き出す新しい女性を提唱して『青鞜』を発刊したのであった。

 美しく才知に輝く明子は、どこにいっても熱烈な崇拝者の瞳に迎えられることに馴れていた。男も女も、明子を見た者は、たいていのものがその静的な知的な美しさに魅せられる。

 このように明子は女性から慕われ、同人として参加していた尾竹紅吉と同性愛でもあった。しかし明子は本当の恋をしたいと思っていたところに奥村博史という画家が現れる。明子は奥村に惹かれ、奥村もその気になるが、一時明子から離れる。奥村は写生の旅に出たとき、文学青年ある新妻莞から明子の過去のスキャンダル、同性愛など聞かされ、自らを「燕」と称した絶交の手紙を出す。当然明子の自尊心は傷つけられ、「また季節が来ると燕は訪れる」と返事を書く。ちなみに歳上の女の愛人になっている男のことを燕と言うようになったのはここかららしい。
 これを読んでいると青鞜には多くの著名な女性が同人として参加している。その中に小林清親の五女哥津もいたとは驚いた。さらに大杉栄を中にして争う宿命の女性たちもここにあった。大杉栄の妻となる堀保子、神近市子、そして伊藤野枝であった。
 『青鞜』は新しい女性像を求めるあまり、世間から好奇の目で見られ、ゴシップやスキャンダルに晒されることが多い。野枝にもスキャンダルがあった。
 『青鞜』に書いた野枝の文章に惹かれ、野枝のイメージを思い描く内に恋らしき気持を抱いたという告白文が届く。そこにはイメージだけでなく実際に野枝に会いたいと書き記されていた。それを書いたのは木村荘太であった。手紙を受け取った野枝は悪い気はしない。むしろあれこれ想像するようになっていた。しかしこの告白文は木村が仲間がどんどん新しい女性をものにするので、自分も、といった感じで、言わば遊び感覚で野枝と接触していたのであった。だから日に何度も野枝に手紙を書き、野枝の気持を燃え上がらせ、やきもきさせ、最後は袖にした。最後は辻と野枝、そして木村と三者会談となり、木村の真の意思が露見し、男を下げた。
 それにしても、

 あれほど情熱的に体当たりでぶつかってこられた野枝の野性の情熱の中には、他からの誘惑に対しても人一倍敏感でもろい熱すぎる血が流れていたことを再認識せねばならなかった。

 この野枝の性質は後に大杉栄に押しまくられたときも、遺憾なく発揮される。

 男の賞讃のまなざしや讃美のことばが常に快いという女の最も通俗な特質を、野枝もまた、人並以上に持っていて、それに自分で気づかないだけであった。

 結局この顛末は二人の恋文が『青鞜』に公開することで世間にあらぬ噂を避けようとしたが、かえって話題となる。
 おかしいのはこの後明子が奥村を忘れることができず、復縁を迫り、やはり『青鞜』にその経緯を公表するのである。ただでさえ、雑誌『青鞜』は世間の好奇な目に晒され、白い目で見られているところに、自らわざわざ話題を提供するのである。このあたりがよく理解できない。ゴシップ雑誌と変わらない。新しい女性像の追求が、こんな野枝や明子の行動にあるのかと思ってしまう。いずれにせよ『青鞜』はゴシップ雑誌化したためか、発禁も続いたこともあり、さらに明子が奥村と恋をし、同棲するに及んで自らの情熱が雑誌から愛情生活方に移っていったことでどんどん下降線を辿ることになる。そして最後は青鞜の中で一番若かった野枝が『青鞜』を引き取ることとなるが、その結果『青鞜』の幕を下ろしたのも野枝となった。

 そして野枝と大杉栄の出会いとなる。野枝の初めての本であるエマ・ゴールドマンの翻訳本が大杉の目にとまり、大杉が絶賛したことから始まった。この翻訳本は野枝の名前にはなっているが、実際訳したのは夫の辻潤であった。
 大杉は野枝を訪ね、二人は意気投合する。大杉は野枝に一目惚れしてしまう。野枝も例の性分が遺憾なく発揮され、大杉に惹かれていく。

 大杉があらわれるようになって以来、逢う度に手放しで野枝の大胆さや、果敢さや、未知数の才能の可能性について、熱っぽく率直に言及することで、どれほど自分の中の自尊心と虚栄心が甘やかされ、くすぐられているかということには気づいていなかった。

一方大杉にも、

 これからの野枝の成長に手を貸すのはもう辻ではなく自分だという確信が大杉の中には芽生えていた。

 大杉への気持の傾斜はあるにしても、辻の従姉との不倫が発覚すれば、野枝は逆上する。夫婦関係は冷めつつある中、二人目の子供を生むため辻と一緒に郷里の今宿へ帰っていたところ、野枝が留守の間大杉は神近市子と恋愛関係に陥った。神近は先に書いた通り『青鞜』に投稿していた同人であったが、津田英学塾を出た、当時としては最高のインテリであった。『青鞜』に投稿していたことがバレて、津田塾を危うく退学させられそうになったこともあったが、それでもペンネームを使って投稿を続けていた。しかしそれもバレて、卒業後せっかく就職した弘前の女学校もクビになった。その後男勝りの女性記者となり、大杉と接点を持つことなった。ここで大杉をめぐる三人の女が揃うことになる。
 大杉には妻である(堀)保子がいたが、野枝と神近市子で、いわゆる大杉が主張する「自由恋愛(フリーラブ)」の実験をしているのだと、保子に言う。この主張は次の通りである。

 1.お互い経済上独立すること
 2.同棲はしないで別居の生活を送ること
 3.お互いの自由(性的のすらも)を尊重すること

 である。どう考えてもこれは大杉の都合のいい考えであり、身勝手でしかない。これを三人が受けいれるのがよくわからない。ただそうそうにこれは破綻する。なんといっても野枝が辻と別れ、大杉の元へ無一文で転がりこんでくる。もちろん妻の保子にも収入はない。あるのは神近だけである。そして神近も馬鹿じゃない。自分が稼いだ金を大杉に貢ぐことで、野枝と保子を養っていることになっている現状に怒りが爆発する。
 ここで「日陰茶屋事件」が起こる。神近が大杉を刺したのである。

 『美は乱調にあり』はここで終わる。

 そしてこの作品が発表されて16年後、続きの『諧調は偽りなり』が発表される。ここでまず『美は乱調にあり』が大杉栄が虐殺されるところまで描かれず、尻切れトンボみたいな恰好で終わってしまったのか、その理由が書かれる。その大きな理由が大杉たちを殺した甘粕正彦の実態が見えなかったというところらしい。それが靄が晴れるが如く事実が著者の中で見えてきたから、この『諧調は偽りなり』が書かれたという。
 ということでこの『諧調は偽りなり』はまず前回のあらすじみたいに、『美は乱調にあり』をたどり、神近市子の裁判を記述する。結局神近は一審で懲役4年を宣告されたが、控訴により2年に減刑されて服役する。
 そして大杉は妻保子と離婚し、野枝が二人のライバルを蹴落とした勝者となった。野枝はやっと大杉との生活を掴み取ったことになる。以後長々と二人の行動と彼らについて回る同調者の話が続く。彼らの主義主張、和合、離反はこと細かに書かれるが、私には彼らの活動の基本が理解できない。労働者支持とかアナキズムとかそういった活動において彼らは金を持っている者に入り込んでいく。その虫のよさが鼻につく。
 服役後の神近市子のところにだって活動家たちは家まで入り込んでいく。堀辰雄は大杉栄の渡欧資金を無心される。つまり支持者もしくは支援者らしき人々があって、彼らの活動は成り立っている。そんなたかりのような人間たちの主張にどこに意味を見いだせるのか、このあたりが理解しがたい。
 そしてその仲間の異常さである。そこにいる男と女が簡単にくっついて、そして簡単に別れ、そして近くにいる別の人間とくっつく。まるで近親結婚のように醜い。

 さて、最後に大杉栄と野枝と甥の橘宗一が憲兵大尉の甘粕正彦に殺される場面である。
 大正12年9月1日の関東大震災である。朝鮮人たちが火を放っている。井戸に毒を投げ込んでいるという流言が広まり、狂気じみた朝鮮人狩りが始まった。その不穏な朝鮮人たちの背後に社会主義者や無政府主義者たちがついているといって、その大物であった大杉栄たちが逮捕された。そして三人は殺害され、憲兵隊の火薬庫の傍にある普段使っていない井戸へ、三人を裸にし菰で包み麻縄で縛って投げ込んだ。いわゆる甘粕事件である。このことで軍事裁判にかけられるが、その聴取書に大杉殺害模様が説明されている。

 憲兵分隊では、階上の屋は使っているので、隊長室に一時入れて、三名に夕食を出して食べさせた。
 その後午後八時頃になって、憲兵隊司令部の応接所で、現在使用されていない部屋へ森が大杉だけつれて入り、取調べをしている時、甘粕が入ってきて、腰かけている大杉の後ろからいきなり右手の前腕を大杉の咽喉に当て、左手首を右掌に握り、力まかせに後ろに引いた。大杉が椅子から倒れたので、右膝頭大杉の背中に当て、柔道の締め手で絞殺した。大杉は両手をあげて非常に苦しがり、甘粕が力をゆるめずにいると、十分位で絶命した。そこで用意していた細引で首を巻き、その場に倒しておいた。なぜか大杉は、甘粕が部屋に入って殺し終わるまで一言も声を発さなかった。

 野枝も大杉と同じように甘粕が後ろから手を回して絞殺した。問題は橘宗一である。子供の首を誰が絞めたのか。もともと宗一は大杉の子供と勘違いされ捕まり殺されたのであった。いずれにせよ甘粕は自分の意思で三人を殺害したと主張する。その殺害理由を、

 「主義者の多くはほとんど警視庁に検束されているにも拘わらず、大杉のみ一人そのままになっています。これは如何なるわけか、了解に苦しむ次第ですが、何にしても危険千万の事で、この場合徹底的にやっつけてしまおう。大杉さえやってしまえば、他の無政府主義者はしばらく鳴りを沈めて蠢動することはあるまいと思ったからです」

 と言う。しかし後々の甘粕の言動から、どうやらもっと上層部から大杉殺害の指示が出ていたことをうかがわせるところがあるようだ。後に甘粕自身もそのようなことを匂わせて言っている。
 ところで大杉たちは甘粕に後ろから首を絞められ殺されたことになっているが、後に発見された「死因鑑定書」の写しが、そうではなく暴行の上殺されたことが遺体の状況からわかってくる。ただ裁判ではその、矛盾は突っこまれなかった。もともとこの裁判は茶番だったようだ。甘粕は懲役15年の判決を受けたが、2年10ヵ月で出所している。

 とまあ、『美は乱調にあり』と『諧調は偽りなり』あわせて700ページ以上ある作品を読んで思ったことは、とにかくここに登場する女性たちの言動はあまりにも直情的であり、これが新しい女性像なのか、首を傾げたくなる。単にスキャンダルを公にしているだけだ。男たちにしても理想の社会実現の為よりは、自分の欲望を単に優先させるだけであり、そのための理論武装にしか過ぎないように思えてならない。理想の実現の為にたかりを許容し、何の不思議も持たない態度は理解できずにいた。

瀬戸内 寂聴 著『瀬戸内寂聴全集』〈第12巻〉新潮社(2002/01発売)に収録


# by office_kmoto | 2019-02-18 06:27 | 本を思う | Comments(0)

Kawade夢ムック『山口瞳 - 江分利満氏、ふたたび読本 (増補新版)』

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 この本は山口さんのファンといわゆる“山口組”と言われる生前交流があった人々の山口瞳について書かれたものである。こういうのを読んでいると知らなかった山口さんの人間関係がどうつながっていたのかよくわかる。たとえば伊丹十三さんである。山口さんと伊丹さんは山口さんが河出書房在籍時代の新雑誌「知性」の目次の版下を書いていたらしい。当時池内武彦と称していた。
 ここには評論あり、対談あり、あるいは未発表の山口さんの作品が掲載されているが、その対談や評論でなるほどと思ったことを書き出してみる。まず嵐山光三郎さんが言っていること。

 私小説家は、破綻した家族や、自分、恋愛問題を、告白調の厳しい目で書き込んでいくじゃないですか。山口瞳という人は、そういうことは一切やらないよね。私小説と見せかけた『血族』でも違うし、「江分利満」シリーズや「男性自身」は基本的には善意の目で書いている。善意の目であるからこそ逆に家族の心情を傷つける場合があるということかな。(特別対談 山口瞳、感情の正義 嵐山光三郎 山口正介)

 山口家には、破滅を志向するような「血」があった。山口瞳は「自分であまり気のついていなかった性情を、出生と環境のせいにしてしまうつもりはな」いが、「それが、私の血と全く無関係であるとはどうしても考えられな」(以上、『血族』)かった。彼は自分の「血」、逃げられないその志向性を自覚していた。だからこそ、その意味で父と母を憎み、「貧乏」を「破滅」を嫌った。(山口瞳を味わうための10章 森山裕之)

 向田邦子を追悼した「木槿の花」を持ち出すまでもなく、山口瞳の追悼エッセイには、読む者の心を揺り動かさずには措かない、いわく言い難い凄絶さがある。まるで自分の親しい人を亡くしたかのような哀しみと喪失感が、いつの間に押し寄せてくるのだ。人物の本質を見抜き、その人間性をあますところなく紙上に活写する山口瞳の筆致は、まさに名人芸と言わざるを得ない。(瞳節、炸裂 荒木則雄)

 僕には小説に限らず歌に限らず妻子を不幸にしてまでやることじゃないっていう思いが根本的にあるんですよ。まず、妻子を食わせてそれから後にやることだと思っている。僕はずい分出遅れたよ。サントリーに入って社宅に入ってやっと落ち着いたってところで書き始めたんだから。それ以前にはこわくこの世界に入れなかった。今でも僕はそうですね。周囲の人を不幸にしてまでやる文学ってそんなに偉いのかっていう感じはありますね。間違っていると思うんだけど、自分の資質としてはそういうところがあるんです。(対談 俵万智 山口瞳 山口瞳著『小説・吉野秀雄先生』を中心に)

 私が山口さんの作品を愛するのは、やるべきことをやってから、行動しなければならないという姿勢がその通りだと思うからである。人として当たり前のことができずに、偉そうなことを言うなというのがいい。そして素直に貧乏や破滅を嫌うのも、それが山口さんの出生や生い立ちから由来すると言うが、たとえそうであっても、それは正直な気持だと思っている。それを素直に表現する姿勢が好きだ。だから私は人としてしなければならないことをしないで、ものを言う人間や行動する人間を評価しない。それは現実にあっても、小説の中であっても、そういう人間たちがあると嫌悪する。
 山口さんの追悼エッセイはここに言われるように「名人芸」だと思う。ところでここのある評論を書いた人がどういう人なのか、一切説明がないのが気にかかった。その人がどういう人なのか知りたいので、その説明は欲しいと思った。

Kawade夢ムック『山口瞳 - 江分利満氏、ふたたび読本 (増補新版)』 河出書房新社(2014/04発売)


# by office_kmoto | 2019-02-12 05:32 | 本を思う | Comments(0)

田辺 貞之助 著 『江東昔ばなし』

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 図書館で予約した本を借りに行ったとき、もう1冊ぐらい何か借りてもいいかなと思いつつ、棚を眺めて目に入った本がこれである。それほど期待はなかったのだが、読んでみると以外に面白かった。

 明治維新で、江戸に薩長土の田舎侍が押しあがってきたとき、彼らが浩然の気をやしないに行ったのは吉原ではなかった。吉原の遊女は、高尾太夫の逸話に見るように、伝統的な意地と張りを誇りとしていたので、彼ら田舎侍を「浅黄裏」とか「武左」とか云って軽蔑した。浅黄裏とは浅黄色の裏をつけた重苦しい木綿の着物を着ていたからで、武左とは武左衛門の略。武士でございと肩を怒らせた態度や言葉づかいに粋のスの字もない野暮的なのを諷した。
 だから、彼らを受けいれたのは岡場、特に深川の岡場所だったが、彼らはここの女たちのてきぱきしたしゃべり方ら磊落な態度におどろき、これこそ日本文化の典型だと信じてしまった。明治政府になってから標準語を定めたとき、政府の顕職についていた薩長土の田舎者たちは辰巳芸者の話し言葉を標準語と定めた。それで、古来の文法を無視したものが国の言葉となってしまった。(岡場所と怪動)

 この話はたぶん司馬遼太郎さんの本だったと思うが、同じことが書かれていたはずだ。

 当時人家も少なかったし、世間の風儀がおだやかだったと見え、私のうちでは、夏になると雨戸を閉てずに、太い格子戸だけ閉めて寝た。座敷の障子も開けっぱなし。だから、一晩中涼しい風が蚊帳をゆすり、とても寝心地がよかった。だが、明け方になると、さすがにうすら寒くなり、夢うつつで掛け布団を引きあげたが、そのころポッポッとかすかな音が聞こえ、同時にあわい香が流れこんできた。それは音ともいえない低い音で、口のなかに空気をためて固く閉じた唇からそっと吹き出すときのような音だった。蓮の花弁は二十五、六枚もあるそうだが、固く固まっていたのが一時に開くときの摩擦音だったのだろう。あわい香は花粉の匂いだったにちがいない。じつに静かな音であり香であった。無心の幼児にしか感得できない微妙なものだった。(蓮の花の咲く音)

 私が子供の頃は実家の周りには蓮畑がたくさんあって、その時蓮の花が開くときポンという音がするんだと聞いたことがある。ただ実際聞いたことはない。

 「うまそうな匂いだね」と、私は思わずいった。
 「まったくだ。新巻の鮭だ!」
 「誰がいまごろ焼いてやがるんだろう。いまいましい奴だ。押しかけていこうか」と、誰かが真剣な口調でいった。
 私たちはたまりかねて、みんな外へ出た。まるで九十九里浜へよせる高波のように、例の匂いがひたひたと町じゅうをつつんでいた。しかも風呂屋のなかでかいだより数倍もつよく、むっと胸にこたえるような匂いだった。
 「こりゃ、鮭じゃないぞ」と、誰かがいった。
 「鮭にしちゃ匂いがつよすぎるし、一匹まるごと焼いたって、こんなに匂いがひろがるはずはない」
 私たちはしばらく棒立ちになって、いまは不気味な気持で、その匂いをかいでいた。一人が急に叫んだ。
 「分かった!あの匂いだ!」
 「なんの匂いだ?」
 「なんの匂いだ?」
 「ほら、きのう見にいった、あの死骸をやいているんだ!」
 その途端に、私はむっとなにかが胸にこみあげてきて、腰の手拭で口をおさえながら、風呂屋のうしろへ駆けこんだ。(新巻の匂い)

 これは著者が子供の頃、関東大震災で犠牲になった朝鮮人たちの死体が大島町六丁目に並べられていた。その酷さを見て、こんなことまでしなくてもいいだろうと思ったと書いている。その死体を焼却する際に出る匂いが新巻鮭を焼く匂いに似ているととは驚きであった。たぶん微かな匂いならそうなのかもしれない。ただその匂いが死体を焼却している際に出ている匂いと知れば、そう悠長なことは言ってられない。
 やはり関東大震災の時の話で、匂いに関する話。

 大正十二年の関東大震災のとき、洲崎の女郎が五、六人、外道松の家へ非難して来た。女房の昔の朋輩にしては年が若すぎた。元いた店の女郎であったのだろう。女郎たちは一週間ばかりいたが、毎朝井戸端へ来て顔を洗った。だらしいのない恰好で、流しの脇にひとかたまりになって、いつまでもしゃべっていた。私はあるときそのそばを通って、彼女らの異様な匂いにおどろいた。たとえるならば、栗の花か栃の花の匂いだった。それが彼女らの身体にしみついた夜ごとの客のスペルムの匂いだったとは、あとで知った。(外道松)

 召集令状はそれから次から次へとわが町内にまいこみ、いちいち亀戸駅まで送ることができなくなった。そこで、町内の亀森稲荷で簡単な壮行会をもようすだけにした。(男妾)

 そうか、江東区あたりで出征を見送るのは亀戸駅だったんだ。

 それは一生でいちばん気持のわるい日だった。というのは、取り出した十五、六個の骨壺があまりにもみじめだったからだ。石屋は出した壺を横にたおした。すると、どの壺からも水が流れ出た。これは!と思って見ていると、石屋の話では、どんなに地盤の高いところでも、結露という現象で骨壺には十年間に三分の一ぐらいの割合で水がたまるものなのだそうな。
 骨壺がみんなひどくよごれていたのは仕方がないとして、中の骨が、壺に納めたときの真白な色はどこへやら、小さなかけらまで鉄錆色に黄ばんで薄黒くなっていた。私はその哀れな骨を見て、昔から遺骨に対していだいていた神聖な清浄感が一時くずれ、深い幻滅に突きおとされた。(あとがき)

 これは著者が三つあった墓を一つにまとめるため、墓から骨壺を取り出した時の話である。考えてみれば骨壺の中に水が溜まるのもわかるし、そのため骨の色もこのように変色もするだろう。ただそうわかっても、石屋の行為を実際見てしまったら、ちょっとたじろぐ。やはり。人は死んで骨になっても酷いということか。

田辺 貞之助 著 『江東昔ばなし』 菁柿堂(2016/04発売)


# by office_kmoto | 2019-02-09 06:50 | 本を思う | Comments(0)

伊集院 静 著 『旅行鞄にはなびら』

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 この本はヨーロッパの絵画を巡る紀行文である。ヨーロッパ各地にある美術館や画家のアトリエなどを訪れている。読んでいると伊集院さんは印象派の画家が好きなようだ。私は印象派の絵は嫌いではないが、今ひとつ思い入れがなく、そんな画家の絵を見ていると、甘いチョコレートを手にした感じがしてしまう。だから伊集院さんの思うことを何となくそんなものか、と言う感じで読んでいた。
 ただこの本は絵画に関する記述だけでなくその旅の道筋で見かけた花の記述があってどちらかというとそちらに気にかかる。
 私はエッセイなどに草や木々の記述がある人の文章が好きだ。それも何げなく見るとそこに花を咲かせているというのがいい。

 人が花に目をむけるのはどんな時なのだろうか。
 人生の或る歳月を積み重ね、日々の時間がゆっくりと流れはじめた人たちが花に目がむく理由は何となくわかる。先述したように花の持つ懸命さにこころを動かされるのかもしれないし、ひとつ季節がめぐって、また咲いてくれる花のたしかさや時間への郷愁もあるのかもしれない。(岸部の花)

 伊集院さんのエッセイが好きなのもそういうところがある。何でも伊集院さんが草花や木々の花が好きなのは伊集院さんの母親が摘んできた花を挿しているのをよく見ていたからだという。

 現代社会はめざましい勢いで変化しているという人がいる。進歩向上しているという人までいる。それほど変化しているなら、私はついて行けないと感じる時がある。この頃、私は、そんな変化について行く必要なんかないのではと思う。と同時に、人類の歴史の中で急に世の中が変わるなんてことはなかっただろうし、これからもないのではと思う。(ゴッホとアーモンド)

 歳をとると世の中に後れをとっていくという、一時的な不安がある。けれどあくまでも一時的だ。私など“もういいじゃないか”と思うことにしている。そしてそう思うと、この伊集院さんのいうことはもっともだと思うのだ。
 でもこれはあくまでも歳をとったから言わせてもらえることだと思う。

 人の記憶とは案外と喜々としていたものは少なく、何かを失敗したり、悔やんだ出来事の方が頭に残っているような気がする。そう考えると、人間の生は哀切を軸に成り立っているのかもしれない。(白いアトリエ)

 先に言ったことが歳よりの慰めごとで、歳をとったことで言わせてもらえることと書いた。ただ歳をとった分悔やみごとはその分蓄積していて、それが悔やまれ、これが結構苛まれる。

伊集院 静 著 『旅行鞄にはなびら』 文藝春秋(2005/07発売)


# by office_kmoto | 2019-02-05 06:17 | 日々を思う | Comments(0)

山口 瞳 著『礼儀作法入門』 『私流頑固主義』

d0331556_06113115.jpg 山口瞳さんといえば礼儀作法にうるさい人というイメージが強いのでないだろうか。これまで読んできた山口さんのエッセイなど読んでいると、確かに頑固オヤジ的なところがあるから、自分や他人の発言や行動、あるいは態度に細かいところにうるさいところがある。
 我々の年代になるとそのこだわりは心地よいところがあるが、場合によっては面倒臭いやつだなあ、と思われる人もいるかもしれない。それくらい礼儀というのは感じ方に左右される。主観的といえば言えそうである。ただせっかくなら相手に気持ちよく思われたいし、自分も気持ちよくありたい。そういう意味で礼儀の意味があるように思われる。山口さんは礼儀作法の妙諦を次のように言う。


 礼儀作法とは何か。もう一度、振り出しにもどって考えみるときに、私には、どうしても「他人に迷惑をかけない」という一条が浮かびあがってくる。
 「他人に迷惑をかけない」というときに、いろいろの事態が考えられるが、これを突きつめてゆけば、あるいは、その最大なるものは「健康」ではないかと思われる。健康であることは、自分のためであり、他人のためである。


 礼儀作法には、悪びれず堂々と行われなければならぬという大原則があるのであって、この点が、われわれ日本人にはまったく欠けているのであり、大の不得手である。


 礼儀作法とは非常に演技的なものであると私は思う。


 以上をまとめると次のようになる。


 まず、礼儀作法とは、儀式であり形式であり、したがって、ソラゾラシイものであると書いた。また、儀式なり法則なり作法なりよく知っている人が礼儀作法に適った人であるとは言えないとも書いた。私はこれを真理だと思う。しかし、これが礼儀作法のすべてであるとは思わないし、私自身、そう思いたくないような気持ちがある。
 礼儀作法とは社交上のことである。対人関係において、社会人としてこの世に生きてゆくために必要になってくる。一人で生きているのなら、そんなものは必要ではない。したがって、私には、他人に迷惑をかけないという一項目が浮かんでくる。他人に迷惑をかけないためには健康でなくてはいけない。これも真理であると考えている。しかし、健康な人はすべて礼節の人であるかというと、そういうわけにもいかない。
 ついで、外国人と日本人の問題が出てくる。エチケットというと、必ず、この問題に逢着する。ここには、いろいろと微妙な問題が含まれているのであるが、外国人は作法を行なうときに、悪びれない、毅然たる態度を堅持するという特質がある。ここに彼と我との画然とした相違点があると考えている。どうも、外国のほうが、日常の暮らし方についてのルールが明快であるように思われる。
 ここに当然、宗教の問題、階級制度(身分社会)の問題がからんでくる。日本には、宗教の問題も身分社会の問題もないと言っていいように思う。すくなくとも、明治の終わり頃からは、礼儀作法に関する歴史が失われている、もしくは大混乱しているように思われる。したがって、私は、鴎外と同じように、どちらがいいかを論じようとする気持は抱いてはいない。
 もともと礼儀作法とは保守的なものである。宗教的な儀式のほうへ、身分社会のほうへ結びつきたがる性質をもっている。


 マナーに通じていることは悪いことじゃない。もともとマナーはその人個人の資質から生まれてくるものだろう。


 礼儀作法は、その人個人の生き方にかかわってくる。それは、国籍、宗教、家系、生活環境をモトとした個人の問題である。


 だから、


 この、平凡に、自然に、慣習に従って、というのが礼儀作法の本体であると思われる。


 けれど何事も行きすぎるとイヤミになる。山口さんもその点は注意すべき、と言っている。


 もし、かりに、あらゆるマナーに通じていて、常にそれを行なっている人がいたとすると、これは、かなりイヤラシイ人間になってしまう。


 つまり、マナーというものは、それを知っていて、あるときはそれを行ない、あるときはそれを行なわないところに妙諦があると言わざるをえない。そうやって、人柄とか個性とかが生ずるのである。誰もが教科書通り人形になってしまってはおもしろくない。


 礼儀作法とは品行のことである。品行は悪くていい。礼儀作法は知らなくてもいい。しかし、品性は良くしなくてはいけない。礼儀作法は知らなくてもいい。しかし品性は良くしなくてはいけない。礼儀作法とは品行のことであるけれども、私は、この問題を考えるときに、できるだけ、品性のほうへ近づけて考えてみたいと思っている。そうして、私自身は、品性の良い人間が品行が悪くなるはずがないと考えているのである。


 山口さんは人の世で人間の心がわからぬ者を、したがって表現する術を心得ない者を田舎者とよく言う。これは何も地方出身者を小馬鹿にしているのではなく、何事においてもミットモナイ人間を指して言う。


 マナーに関しては、美しく見えることが正しいことなのである。ミットモナイことは悪である。


 私は見た目の悪いものは悪であるという考えを抱いている。


 そのほかこの『礼儀作法入門』で気になった文章を書きだす。まずは年始の挨拶にタオルを持っていくことの理由が書かれている。


 なぜかというと、本年中はいろいろお世話になりました、来年もよろしくという挨拶は、歳暮のときに、あるいは年末に済んでしまっているはずである。だから、年始というのは手拭い一本でいいのである。歳暮に大層なものを持ってゆき、元日にもというのは、クドイような気がする。


 昔勤めていた会社がドラッグストアも経営していた。お店はビジネス街にあった。毎年暮れになると、翌年の年始挨拶用のタオルを近くにある繊維街からタオルを仕入れたものだった。これが結構売れた。
 でもなんでタオルなんだろう、と思っていたが、山口さんのこの文章を読んでみればなるほど納得した。
 事務所で取引業者から新年の挨拶を受けたが、かなりの枚数のタオルがたまる。それこそその年いっぱい使っても余るくらいだった。もちろんこちらが銀行などに挨拶に行くときは用意したタオルを持って行った。

 万年筆について書かれた文章は他にいくつも書きだしたので、ここにあった文章を書きだしておく。


 馬鹿に万年筆にこだわるようであるが、私は万年筆をかえると文体が変わってしまうような気がして、それがこわいのである。


d0331556_06122234.jpg 『私流頑固主義』は『礼儀作法入門』の続編という形をとっている。ここではひとつひとつ細かい事例をあげて礼儀作法を説いている。そこで気になった文章を書きだす。


 私は、人間が生きるということは、花を見たり月を見たりすることだという考えもある。花を見て、ああいいなあと思えばそれでいい。去年の花、一昨年の花を思いだしてみるのも趣きがある。そのために、近くに住む人たち、親しい人たちと酒を飲むことになる。


 むかし、東京出身の陸軍大将、海軍大将はいないと言われたことがある。その説を確かめたことはないから、事実であるかどうかわからないが、なんとなく理解できるように思われる。東京のとくに下町育ちの男には、士官学校を出て、剣をぶらさげて、オイチニ、オイチニなんていうことは、ばかばかしくてやっていられないのである。
このことは軍人にかぎらず、政治家でも財界人でも、あるいは学者でも芸術家でも、東京出身の偉い人というのは数が少ない。バイタリティに乏しいのである。やはり、偉くなるには、都に攻めのぼってくるという感じ、何がなんでも勝たねばならぬ意気ごみが必要なのだと思われる。だから、逆に、田舎の、それも山奥のようなところで、まったく無欲で衒いがなく、田畑を耕しているだけの人に、私は、なんと粋なものを感じてしまう。彼らには、自分の体でおぼえた信念(教養といってもいい)がある。私は田舎者は嫌いだが、田舎の人は好きだと言うのはそのためである。いわゆる平凡なサラリーマンのなかにも粋な人がいる。



山口 瞳 著『礼儀作法入門』 集英社(1978/07発売)集英社文庫

山口 瞳 著『私流頑固主義』 集英社(1979/02発売)集英社文庫


# by office_kmoto | 2019-02-03 06:16 | 本を思う | Comments(0)

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