司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと』〈14〉

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 この時期になると、司馬さんは文明評論家と化した感がある。これまでと重複するものが多く出てくるが、これは司馬さんの書かれた文章を片っ端から集めたとなれば仕方がない。
 これまでこのシリーズを読んできて気になった文章を掲げてきたが、以下書き出したものは、今まで書き出したものよりいくらかわかりやすいのではないか、と思い、また書き出してみる。

 漱石によって、大工道具でいえば、鋸にも鉋にも鑿にもなる文章ができあがるのです。ということは、たれでも漱石の文章を真似れば、高度な文学論を書くことができるし、また自分のノイローゼ症状についてこまかく語ることができ、さらには女性の魅力やその日常生活をみごとに描写することができます。(文学から見た日本歴史)

 言語の基本(つまり文明と文化の基本。あるいは人間であることの基本)は、外国語ではない。
 母親によって最初に大脳に植えこまれたその国のつまり国語なのである。
 国語(日本語)は、日本文化二千年の所産であるだけでなく、将来、子供たちが生きてゆくための唯一の生活材であり、精神材であり、また人間そのものを伸びさせるための成長材でもある。(なによりも国語)

 今は何かと言えばグローバル化と称し、英語がしゃべれることが重視される。確かにその必要性はわかるが、日本語がきちんと使えることが前提ではないか、と考える。自分たちがしゃべる日本語で自身を、そして自身の文化を考えられることが最前提だと思う。自身や文化を語る、あるいは思考する道具が日本語である以上、そこがしっかりしていないと、自身や自身の文化を語れまい。あるいは自身の考えを伝えることが出来ないのではないか。
 テレビを見ていると、あまりにも馬鹿な言葉遣いをするタレントの多いこと。また本来正しい日本語使わなければならないアナウンサーでさえ、おかしな言いまわしをするのを耳にする。おかしくないかと思うことが度々だ。もちろん私だってちゃんとした日本語使える訳じゃないが、だからこそきれいな日本語喋る人の日本語を聴きたいと思うのである。

 文明と文化の違いはこれまで何度か書き出した。今回も書き出したのはその説明がよりわかりやすかったからだ。

 近代日本が、わずか三十年のあいだに物狂いしたように帝国主義のまねをし、いまなお――どころかずっとのちまで――近隣の国々の猜疑からまぬがれずにいる。この日本のくるしみから察しても、他民族に屈辱をあたえるという国家行為が、国家にとってながい計算からいえば負の行為であることはいうまでもない。(女真人来り去る)

 しかし、文明はかならず衰える。
 いったんうらぶれてしまえば、普遍性をうしない、後退して特異なもの(文化のこと)になってしまう。(文化と文明について)

 人間は、冒頭のたとえのように、文化という(他からみれば不合理な)マユにくるまれて生きている。
 頭上に文明(たとえば交通文明とか、法の文明)があるにせよ、民族や個々の家々では、普遍性に相反する特異さで生き、特異であることを誇りとしている。そういう誇りのなかに人間の安らぎあり、他者からみれば威厳を感じさせる。
 異文化との接触は、人間というこの偉大なものを、他者において感ずる行為といっていい。(文化と文明について)

 文化というものは、魚が魚巣に住むように、サナギがマユにくるまれているように、それにくるまれていると快いというものであります。ときに、習慣と同義語でもあります。習慣は人の心をおちつかせます。さらに、すぐれた芸術は人の心を快くさせます。“くるまれて楽しい”ということが、文化なのです。(すばらしい時間を)

 江戸というのは金を使う場所だったわけです。これがまた江戸の気風を決定しておりました。江戸っ子は宵越しの金はもたないといいますが、これはずいぶん語弊のあることで、日本橋の商家の主人が金をもたないようでは、その商家は維持できません。ですから、これは主として大工、指物屋さん、あるいは他の職人の気風をいったものです。腕を磨けば、おまんまはついてくるんだ、という意味です。
 ともかくも江戸の経済というのは、その大きな消費によって成り立っている。(偉大な江戸時代)

 江戸については、先日NHKの「大江戸」で江戸中期の経済成長率が世界トップクラスだったと最近判明したと言っていた。
 もともと江戸は成立時から消費の町だった。家康が江戸に幕府を開いたとき、家康に従う他の藩は江戸の整備にかり出された。多くの職人たちが全国から集まって来た。彼らは江戸という町を作る一方、消費する側の人間たちであったからだ。また大名の参勤交代で武士たちが集まった。当然彼らも消費するだけの人間の集まりだった。
 しかし江戸中期になると、武士は没落していくと、今度は商人たちが武士に変わって江戸を盛り上げていく。しかし物資を供給する後背地を持たない江戸は、それらの物資を大坂から調達された。それら物資を集め、供給するための海運業が発達していくのである。

 この巻では有名な「二十一世紀に生きる君たちへ」が収録されている。

 私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。
 歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
 だから、私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。この楽しさは――もし君たちさえそう望むなら――おすそ分けしてあげたいほどである。
 ただ、さびしく思うこともある。
 私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。
 私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。
 君たちはちがう。
 二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。
 もし「未来」という町角で、私が君たちに呼びとめることができたら、どんなにいいだろう。
 「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている二十一世紀とは、どんな世の中でしょう」
 そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という町角にには、私はもういない。

 私はこの文章を読むと、新聞などの広告に載る作家たちの“エール文章”の中で屈指のものだと思っている。
 司馬さんはやはり二十一世紀を待たず、1996(平成8)年2月12日に亡くなった。

 さて、司馬さんを文明評論家と称したが、一方で人物紹介、あるいは作品紹介文も多くここには掲載されている。司馬さんが薦める人物たちは共通の性質を持っている。すなわち人物に少年の部分を持ち合わせているかである。少年のような純粋で好奇心旺盛で心の持ち主が司馬さんが薦める人物たちなのだ。

 大きな塊というには、その内側に少年を飼っているいないか、ということだと私は考えている。(高貴な少年)

 ついでながら、創造は、人間の中の高度な少年の部分がやるのである。(“モンゴロイド家の人々”、など)

 そんな中、池波正太郎さんに関する文章が興味深かった。まず知って驚いたのが司馬さんと池波さんは同年代で、同じ年に直木賞をもらっているのだ。

 私ども、同年(一九二三年生まれ)である。震災のとしで、池波さんが一月、私は八月うまれだった。(若いころの池波さん)

 池波さんと私は縁がふかくて、同じ年(昭和三十五年――私は三十四年の下期だが、授賞式は翌年だった――)に、直木賞をもらった。(若いころの池波さん)

 それで司馬さんが書く池波さんはなるほどと思った。今までいくつかもの池波正太郎さんに関する文章を読んできたけれど、これほど的確に、しかも大きく肯かせるものはなかったので、最後に書き出しておく。

 私の記憶や知識のなかでは、江戸っ子という精神的類型は、自分自身できまりをつくってそのなかで窮屈そうに生きている人柄のように思えている。
 池波さんも、そうだった。暮の三十一日の日にはたれそれの家に行って近況をうかがい、正月二日にはなにがしの墓に詣で、そのあとどこそこまで足をのばして飯を食うといったふうで、見えない手製の鳥籠のような中に住んでいた。いわば、倫理体系の代用のようなものといっていい。
 この場合、こまるのは、巷の様子が変わることである。夏の盛りの何日という日にゆく店が、ゆくとなくなっていたり、まわりの景色がかわっていたりすると、たとえば鮭の卵をつつんでいる被膜がとれてしまうように当惑する。
 「いやですねえ」
 池波さんは、心が赤剥けにされてゆくような悲鳴をあげていた。
 なにしろ当時、東京オリンピック(昭和三十九年)の準備がすすめられていて、都内は高速道路網の工事やらなにやらで、掘りかえされていた。東京は、べつな都市として変わりつつあったのである。
 池波さんは、適応性にとぼしい小動物のように自分から消えてしまいたいとおもっている様子で、以下は重要なことだが、この人はそのころから変わらざる町としての江戸を書きはじめたのである。
 それはちょうど、ジョルジュ・シムノンが「メグレ警視」でパリを描きつづけたようにして、この人の江戸を書きはじめた。この展開がはじまるのは、昭和四十三年開始の『鬼平犯科帳』からである。
 メグレが吐息をつく街路や、佐伯祐三が描きつづけたパリの壁のように、池波さんは江戸の街路や、裏通りや屋敷町、あるいは、“小体な”料理屋などをすこしずつ再建しはじめただけでなく、小悪党やらはみだし者といった、都市になくてはならない市民を精力的に創りはじめた。昭和四十七年からは、『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』などがはじまる。
 かれらは池波さんが創った不変の文明のなかの市民たちなのだが、たれよりもさきに住んだのは池波さん自身だった。(若いころの池波さん)

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと〈14〉エッセイ1987.5~1990.10』 新潮社(2002/11発売)


# by office_kmoto | 2018-08-15 06:06 | 本を思う | Comments(0)

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと』〈13〉

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 このシリーズは前回どこまで読んだのかわからなくなり、最初から読み直す方がいいかな、と思い再読している。
 ただどうも12巻までは読んでいたようで、この13巻から新たに読むことになるようだ。ここでも新たに知ったこと。驚いたこと、気になったことを書き出してみる。

 また文明と文化の違いを言う。これまで文明はどこでも誰でも参加できるものとしてその普遍的な性格を有していることを書いていた。そのため文化は汎用性ないことで、どこか一段低く見えてしまうところがあった。けれどそこに住む人たちにはなくてはならないものであることを書く。それがあるためその人たちの存在できるものなのだ。翻ってそれが集まって国家となるために、圧縮空気となる。

 ここで仮に定義しておこう。文明とは普遍的なもの、たれでも参加できる交通ルールのようなもの、そして文化とは特異なもの、不合理なもの、さらにはそれなしでは人間の心の安定がえられないもの。(バスクへの盡きぬ回想)

 これに対し、文化は特殊なものである。その家の家風、あるいは他民族にはない特異な迷信や風習、慣習をさす。
 「たれでも参加できます」
 というのが文明である以上、文明は高度に合理的である。しかし人間は文明だけでは暮らせない。一方において、
 「お前たち他民族には理解できまい」
 という文化をどの民族でも一枚の紙の表裏のようにして持っている。従って文化は不合理なものといえる。という以上に不合理なものであればあるほど、その文化はその民族の内部では刺激的であるといっていい。(日韓断想)

 しかしひるがえって考えてみると、民族というのは、そこに自然に存在している状態から、国家という形に統合される場合、このようなつよい圧搾空気のような思想や象徴が要るものかと思い、そのことにむしろ人類の厄介さを感じた。(バスクへの盡きぬ回想)

 「明治のころ本願寺に“反省会雑誌”という雑誌があってな、それが“中央公論”になった」(反省会のことなど)

 つまりは、遠来のキリスト教宣教師たちが謹直で実行力に富むのに対して、江戸期以来の日本の僧侶は無為徒食、遊惰の徒であったことをかれらは反省したのである。(反省会のことなど)

 へぇ、雑誌「中央公論」の元は本願寺で発行されていた雑誌だったんだ。
 次の文章は興味深い。

 小説を書き始めたのは、もちろんそればかりではありません。私のこれまでの経験の中でいちばん大きかったことは、やはり戦争末期に兵隊にとられたことです。命あって敗戦を迎え、
 「なぜ、こんなばかばかしい国に生まれたのだろう」
 という思いが強うございました。
 人の国を侵略し、うまくいかなくて敗れた。当然ですね。リアクションは必ず起こります。中国を侵略すれば、世界の列強からリアクションを受ける。中国からも受ける。自分の国を運営するうえで、他の国のことを考えない。浅はかな国でした。他の国の人を死なせ、自分の国の人間を死なせて敗戦になったわけです。そのとき、織田信長だったらそういうことをするだろうかと考えたのです。
 信長が特別偉いというわけではあえいませんよ。尾張から身をおこし、手ずから自分の王国をつくった男ならそんなことをするだろうか。そんなばかなことはしなかったと思うのです。自分の国を大切に思うなら、けっしてしません。私は決めました。日本という国を大切につくりつづけた日本人たちを書きつづることにしたのです。(時代を超えた竜馬の魅力)

 このように自分で国を作り上げた人物は、他国を侵略などしないと書く。このあたりはそうかもしれないと思う一方、自分の国大切にするばかりに、自国のことばかりしか考えられないことになりかねない部分もあるのではないか。少なくとも歴史はそうはならなかったことをたくさん書いている。日本においても明治から昭和はそうはならなかった。なぜそうなったか、司馬さんは次のように書く。それは人間の“質”が変わったことから始まった。

 自国の歴史をみるとき、狡猾という要素を見るほどいやなものはない。江戸期から明治末年までの日本の外交的な体質は、いい表現でいえば、謙虚だった。べつの言い方をすれば、相手の強大さや美質に対して、可憐なほどおびえやすい面であった。
 謙虚というのはいい。内に自己を知り、自己の中のなにがしかのよさに拠りどころをもちつつ、他者のよさや立場を大きく認めるという精神の一表現である。明治期の筋のいいオトナたちのほとんどは、国家を考える上でも、そういう気分をもっていた。このことは、おおざっぱにいえば江戸期からひきつがれた武士気分と無縁ではなかった。
 しかし、おびえというのはよくない。内に恃むものとしてみずからのよさ(文化といってもいい)を自覚せず、自他の関係を力の強弱のみで測ろうとする感覚といっていい。強弱の条件がかわれば倨傲になってしまう。
 日露戦争のあと、他国に対する日本人の感覚に変質がみとめられるようになった。在来保有していたおびえが倨傲にかわった。謙虚も影をひそめた。江戸期以来の精神の系譜に属するひとびとが死んだり、隠退したりして、教育機関と試験制度による人間が、あらゆる分野を占めた。かれらは、かつて培われたものから切り離されたひとびとで、新日本人とでもいうべき類型に属した。
 官僚であれ軍人であれ、このあたらしい人達は、それぞれのヒエラルキーの上層を占めるべく約束されていた。自然、挙措動作、進退、あるいは思慮のすべてが、わが身ひとつの出世ということが軸になっていた。
 かれらは、自分たちが愛国者だと思っていた。さらには、愛国というものは、国家を他国に対して、狡猾に立ちまわらせるものだと信じていた。とくに軍人がそうだった。(あとがき 『ロシアについて』)

 謙虚というのはもしかしたらおびえの裏返しかもしれないと思ったりする。おびえがあったから、謙虚であったかもしれない。いずれにせよ謙虚であることはいい。しかしおびえがいつの間にか強がりと変質していく過程は、やはり明治という新しい国家がヨーロッパの文明の上っ面だけを受け入れたことで大きく変質していったところにある。しかも国家をあげてそれを推奨してきた。
 もともとヨーロッパでは自国を守ることが最優先とするから、どうしたって自分勝手にならざるを得ない。ただお互いギリギリのところで辛うじて均衡を保つことで何とかそれぞれの国家が存続できている。このあたりは一歩間違えれば、簡単にそれが壊れるほど危ういことはヨーロッパ近現代史をみればよくわかる。この危ういバランスを理解しないでヨーロッパの文明の上っ面だけを無条件に受け入れてきた日本は、どうしたっておかしくなる。

 さて、この本でもう一つ興味深かったのは日本の仏教が釈迦が唱えたものとは異質なものになっていることを書いた文章である。それは「浄土」という文章ある。

 ご存じのように、お釈迦さんは、原則として不立文字だったわけです。

 釈迦はキリストのように救済を説かなかったのです。釈迦は解脱を説いたのです。解脱は禅宗の悟りと同じで、それは文字を用いたり、ことばで説明したりすることでは、果たせないのです。釈迦が何を言ったか、釈迦はどういう思想を持っていたのか、よくわからないのです。

 不立文字とは、「大辞林」よると、

 禅宗の基本的立場を示した言葉。悟りは言葉によって書けるものではないから,言葉や文字にとらわれてはいけないということ。教外 (きようげ)別伝と対で用いられることが多い。

 とある。ところが仏教にはさまざまな経典がある。これは宗教において必ず起こることのようだ。釈迦に限らず、キリストなど教主が説いたことが後に弟子などが文章にして、こう言った、ああい言ったと書いたことから、それに接する後世の人々がさらにさまざまな形で受け取り、考えていく。そうすることで説は変質していく。そこに世俗の事情が絡んでくると、ある意味都合よく解釈されていってしまう。
 私は信仰とは本来個人的なものだと思っている。親鸞においても自身の解脱しか考えていなかったという。人のことなど考えていなかった。はっきり言って他人のことなどどうでもいい。しかし教主がそう言ってしまうと、信者はどうしていいかわからなくなってしまう。まして教団として信者の団体が形成されると、親鸞自身が説いた説では都合が悪い。当然教団にとって都合のいい解釈のみが採用されていくし、元々なかった、説かれなかった考えが加えられていく。それこそ他宗教の説も加えられたりする。キリスト教など布教活動において、土俗の宗教を取り込んでいった。宗教とはそういうものに変質していく傾向がどうしても拭えない。
 そんな中でかねてから気になっていたのは僧侶が葬式を取り仕切ることである。単純に考えて信仰(あるいは宗教)と葬式と関係ないものではないかと思う。それを司馬さんは僧侶が葬式を取り仕切るようになっていく過程を言っている。長くなるが引用する。

 いまは、日本語が紊乱しまして、上人と言うと、偉い人のようにきこえますが、上人というのは資格を持たない僧への敬称であって、たとえば空海上人とは言いませんし、最澄上人とも言いません。最澄(七六七~八二二)も空海も有資格者だからで、無資格者に対してはたとえば親鸞上人というふうに敬称します。ただ親鸞の場合は、ときに聖人と書きます。聖と言うのは乞食坊主のことです。
 聖と賎は紙の表裏だと言いますが、聖というのは、普通、中世の言葉では、正規の僧の資格を持たない、乞食坊主のことを言います。だから尊くもありました。

(略)

 そのお葬式屋はお坊さんに対して、形の上では尊敬してしますが、呼びかたが、お上人なのです。私は、東京で普通の町寺のお坊さんを中世の言葉、お上人様と呼んでいる例を知って、びっくりしたことがありました。
 これはどういうことかといいますと、日本の仏教は正規のお坊さんが、葬式の主役であったことは本来ないんです。だいたい仏教に、葬式というものはありません。お釈迦さんが、葬式の世話をしたり、お釈迦さんの偉い弟子たちが、葬式のお経をあげたという話も聞いたことがありません。またずっと下がって日本仏教の、最初の礎であった叡山の僧侶が、関白が死んだからといって、お葬式するために出かけていったこともありません。
 奈良朝におこった宗旨は、いまでもお葬式をしません。たとえば奈良の東大寺の官長が死のうが、僧侶が死のうが、東大寺のなかでお経をあげません。そのためのお坊さんが奈良の下町にいて、それを呼んできて、お経をあげさせる。それはお上人ですから東大寺の仲間には入れてません。
 葬式をするお坊さんというのは、非僧非俗の人、さっきのお上人でした。つまり親鸞のような人です。また叡山を捨てた後の法然も、そういう立場の人だったわけです。非僧非俗、つまりお医者で言えば、無資格で診療しているようなものです。

 (略)

 だから日本仏教には、表通りには正規の僧侶がいて、裏通りには非僧非俗がいて――つまり官立の僧と私立の僧がいて――どっち側が日本仏教かということも、思想史的に重要な問題です。私は鎌倉以後は非僧非俗のほうが日本仏教の正統だったと思います。
 もう少し歴史的な景色を申し上げますと、室町時代ぐらいまで、平安時代を含めますが、京都あたりの鳥辺山とかいろんなところに焼場、葬儀場がありました。そこに墓もあり、葬式の列が行くと、食い詰めた人たちが、非僧非俗のお坊さんの形になって、南無阿弥陀仏の旗を持ち、亡くなった方に供養のお経をあげますよ、と言ってまわるわけです。遺骸をかついでいる遺族たちはかれらをわずかなお鳥目雇い、葬式のお経をあげさせていました。
 戒を受けた立派な僧は、そういうことはしませんでした。
 日本は、室町時代ぐらいから、非僧非俗の人がお葬式という分野に入りこみはじめたのです。それはほとんど時宗という宗旨の徒(時宗)でした。これは僧にあらず俗にあらざる集団でした。
 鎌倉の日本仏教興隆期に法然、つづいて親鸞が出てきますが、同時に南無阿弥陀仏のほうでは一遍(一二三九-八九)がでてきます。

 たぶん人は死後の不安を感じ続けて来たのだろう。自分が死んだ後どうなるのか。出来れば極楽浄土の世界で住み続けたいと思うようになっていく。少なくとも現世で苦しんできた世界をそのまま続けたくはない。ましてその現世で生きるのが苦しければ苦しいほど来世に期待を持ちたい。そうした救いを宗教に求めるようになっていく。それがたとえばキリスト教が普及していった理由の一つではないか、と思っている。キリスト教においては、死後の安寧な生活を保証するために、今現在の生き方まで規定し、影響を及ぼしてしまう。
 仏教においてもたぶん同じだったのではないか。ただどういうわけか日本仏教においては誰でも救われる。現世でどんなにあくどい生き方をしても大丈夫という思想が広まっていく。そのひとつが阿弥陀仏だった。何と言っても阿弥陀仏はお節介と言えるほど、人を救ってくれるから、当然関心を引くわけだ。

 仏教は、発祥地のインドで衰弱していきます。その大きな理由の一つは、平等を説きすぎたからでしょう。釈迦はインド的な差別制度であるカーストをみとめませんでした。そのことがインド人にとって魅力だったという時代がすぎ、カーストを認めないことに、逆にそれじゃ空想じゃないかというとりとめなさを感じさせる時代がはじまったのだと思います。
 仏教は北上します。
 北上していくうちに、かつて西のほうからやってきて定住していたアレクサンドロス大王の兵隊の子孫、いまのアフガニスタン、パキスタンあたりに住んでいた連中と出会います。かれらはヘレニズムをもっていました。特技はヴィーナスを作る能力で、つまりは人間とそっくりの物をつくれる彫刻家をもっていました。そこへ非常に形而上性の高い仏教が北上してきて混じり合ったとき、土地の人が、そんな難しいことを言われてもわれわれにはわからない、その仏教はどういう形だ、教えてくれれば私たちが彫刻や絵画にしてみせる、と言ったであろうことが、仏像のはじまりだと言われています。
 これがガンダーラの発祥で、ギリシャの造形能力とインドの思弁能力や形而上性とが合致したのです。その場所から仏教と仏像が、日本に向かって歩きはじめたわけで、ずいぶん歳月がかかっています。
 日本にむかって歩きはじめた途中、こんにち流行りのシルクロードのあたりで、どうやら阿弥陀信仰やお経ができたようです。ですから、浄土教というのはお釈迦さんとも関係なく、仏教そのものの正統の流れともじかの関係はありません。
 釈迦は、みなさん自分で解脱しろ、と言う。
 ところがそうしなくてもいいと阿弥陀如来は言うのです。つまり阿弥陀如来には固有の本願というものがあって、人を救わざるをえない、人が逃げだしても救ってくださる、そういう救済思想が、仏教の名を冠して登場してきたわけです。
 仏教における救済思想の誕生は、キリスト教と関係があるのか、あるいはペルシャのゾロアスター教の刺激をうけたか、ともかくも救済宗教が既存した土地で阿弥陀仏教が成立したんだと思います。

 私は正統だって日本仏教の知識がないから、どこかごちゃ混ぜになってしまっているところがあるようだ。日本仏教にはさまざまな宗派があるから、それぞれが何を言っているのかわからない。わからないのにわかったような言い方で終わってしまっているのが、どこか自分でももやもやしている。ただそれを明快にするために仏教を学ぶにはあまりにも広大で、どこから手をつければいいのかわからないし、そのための厖大な時間を費やす余裕がないのが残念である。だから思うままに書いてみた。
 いま思うのは、信仰が人の生き方を規定してしまうこと。そしてそれが死後の世界まで及ぶのはどうなんだろう、と思うのだ。どこか人の不安をつけ込んで信仰が入りこんでいるようなところがありはしないか。それだけ人間は弱い生き物だということなのか。
 だからこそ信仰が人々の心の中に存在し、それが文化や文明まで成長し、世界を作っている。たぶんそういうことなんだろう。それに関しては尊厳を持ちたい。

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと〈13〉エッセイ1985.1~1987.5』 新潮社(2002/10発売)


# by office_kmoto | 2018-08-13 05:50 | 本を思う | Comments(0)

貫井 徳郎 著 『乱反射』

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 この本も以前文庫本で読んだ。読んだ時、これは傑作だと思った。だから単行本が欲しいと思い、古本で手に入れたので再度読んでみた。

 物語は街路樹が倒れて二歳の男のがその下敷きになり亡くなる話で、大きくわけて二部に分かれる。まずなぜ街路樹が倒れ、男の子がその下敷きになり亡くなったのか。その後その原因追及がそのあと続く。だから物語は-(マイナス)44章から始まる。以降どんどんさかのぼっていき、街路樹が倒れる経緯が描かれる。そして〇章で街路樹が倒れる事故が起こり、その原因、関係者の追求の話となるようになっている。

 まずは街路樹が倒れて2歳の息子を失うことになる新聞記者の加山聡の家族が旅行へ行く場面から。
 家を空けて出かけるため、家にあった生ゴミをそのままにして置くわけにもいかず、生ゴミを車に積んで、サービスエリアで捨てた。

 「まあ、一回だけならいいか」

 まずは街路樹が倒れ、その下敷きなって息子を失う加山の小さなルール違反をここで描く。

 田丸ハナは子育ても終わり、これから自分は何をすればいいのか考えあぐんでいる主婦。近所に住む阿部昌子の家の近くに高層マンションが建つ計画が持ち上がりその反対運動に顔を突っこむ。ただし性格柄、けしかけることはしても、自分から率先して行動しようとするタイプではなく、誰かが先に立ってくれるのに追従することを望んでいる。
 阿部昌子の近所にする佐藤和代は、やはりマンション計画に反対しているが、田丸ハナを鼻持ちならない人間と見なし、田丸の言動をむしろ小馬鹿にし、面白がっている。

 三隅幸造はよくいる一昔前の頑固オヤジタイプ。定年退職後することがない。仕事一辺倒だったため、定年後妻にも娘にも相手にされない。むしろ妻が習い事に出かける姿を生き生きと見えてしまう。
 そんな時トイプードルのクマを飼い、溺愛し、自分の淋しさを紛らわす。
 三隅幸造はひどい腰痛持ちだった。だからクマの散歩のとき、屈んでフンの始末が出来ない。そのままフンを街路樹の根元に放置していく。

 「ずいぶんフンが溜まってきたなぁ」
 心の疚しさが、そんな言葉を吐かせた。誰も清掃しない街路樹の根元には、ここ数日分のクマのフンがそのまま堆積している。申し訳ないとは思いつつ、幸造は何もできなかった。ここなら通行人がフンを踏んでしまうこともないだろうと言い訳をして、罪悪感をわずかに軽減させるだけだった。

 内科医の久米川治昭は3つの病院を掛け持ちしているアルバイト医師。最近の医療訴訟にうんざりしているため、自分はそんな重篤な患者を診たくないし、責任も負いたくないので、アルバイト医師に甘んじている。

 安西寛は小さい頃から体が弱く、大学生になってもすぐ風邪をひく。病院に掛かるが、混雑する病院の待合室にいると他の病気がうつってしまうかもしれないと思い、夜間救急を利用する。その病院にはやる気のない久米川が夜間診療を担当していた。

 医者は淡々と診察するだけだったが、カルテを持ってきた小太りの看護師は軽く睨むような目をむけてきた。その程度の症状で救急時間帯に来るなんて、と内心腹を立てているのだろう。寛は気づかない振りをして、医者にだけ礼を言って診察室を出た。待合室ではさほど待たされることになく、会計をしてもらえた。薬局が閉まっているから、会計と同時に薬も出してもらえる。これが日中なら、ここまで済ませるのに三時間はかかっていただろう。やはり診察してもらうなら夜に限ると、寛は改めて強く思った。

 小林麟太郎は市役所道路管理課職員である。麟太郎は上昇志向が皆無で、競争や争い事大嫌いであった。事なかれ主義を通して役人人生を終えたいと思っていた。そんな麟太郎が道路拡幅に伴う街路樹伐採の事前調査している途中、田丸ハナに声を掛けられる。麟太郎は田丸に道路拡張のため街路樹を伐採する為の調査をしていると言う。それを聞いたハナは道路拡張のために生きている木を伐採されるのを不条理と感じ、反対運動を起こそうとする。この運動を起こすことで娘の佐緒里を見返そうと思ったからだった。
 佐緒里は彼氏に振られ、縁故採用された会社を1年あまりで辞めると言う。それを聞き、口論となり、佐緒里はハナのように夫に尽くすだけの人生は真っ平だとハナの人生を否定した。だからこの反対運動をすることで、自分にも夫や家族以外に積極性があることを佐緒里に見せられると思った。
 麟太郞はハナと話が終わった時、木の根元に大量の犬のフンがあることに気づく。同僚から、このまま放置しておくと苦情が出るから、麟太郞が片づけろと言われ、渋々処理をするが中途半端に終わらせてしまう。
 しかし再度市民からフンの苦情が寄せられ、麟太郞はその処理をすることになったが、その時子供たちに馬鹿にされた。

 聞くに堪えない、心ない言葉の数々だった。いったい誰が好きこのんで、犬のフンをなど片づけると思っている?汚い仕事でも誰かがやらないと大勢の人が困るから、こうしていやいややっているのではないか、何もわからない子供のくせにして、偉そうなことを言うな!
 激情に駆られて、手にしていた箸を地面に叩きつけた。

 根元にはまだフンが残っていたが、知ったことではない。そのままそこを去った。

 「あのう、ちょっとすみません」

 と安西寛はキャンパスで雪代可奈から声を掛けられる。休んだ講義のノートをコピーさせて欲しいと言われ、加奈が可愛いので、寛は二つ返事でノートを貸す。以来二人は同じ授業で隣り合わせに坐ったりする。寛は舞いあがっていた。
 寛は自分が体が弱く、風邪を引きやすい。けれど病院は昼間行くと待たされるし、他の病気を貰いかねない。だから夜間診療をしている病院に行くのだ、とその便利性を得意気に言う。
 そんな可奈から深夜電話があり、風邪を引いたらしく、病院に行きたいが、夜間診療をしている病院を教えて欲しいと言う。寛はいつも行く病院を教えるが、加奈が心配になり、その病院に行く。しかし加奈は寛に対してつれない態度を取った。もともと付き添わなくても一人で病院に行けると行っていたのに、なぜ来るのか。深夜ノーメーク、普段着で来ていたのでそんな自分の姿を他人に見られるのが嫌であった。しかし寛はそんな女心がわからない。こういう自分勝手な男は人の気持ちなどわからず、物事を自分の都合にいいように考える。そんな可奈はだんだん寛から距離を置くようになる。

 寛はまた熱っぽくなり、いつものように夜間診療をやっている病院に行くが、待合室に多くの患者が待っていた。

 「すみません。どれくらい待ってますか」
 疑問を解消するために、一番近くに坐っている人に話しかけてみた。寛とさほど変わらない年齢に見える男は、壁掛け時計に目をやって答える。
 「三十分くらいかな」
 「そんなに。来たときはもう、これくらい人がいたんですか」
 「うん、けっこういたね。夜だと空いているって聞いたから来たのに、思ったほど空いてなかったな」
 「夜なら空いている?そんな評判が立ってるんですか」
 「そうだよ。友達から聞いて、なるほどねと思ったんだけどさ」
 
 榎田克子は運転免許を持っているが、車庫入れが上手くできない。さらに家の車庫が道路に面しているため、車庫入れ時、路上の車を止めて、やっとの思いで車を車庫に入れる始末。
 妹の麗美の彼氏が借りた克子の車の車体を擦ってしまい、麗美のお気に入りの大型のSUV車を買い換えることになった。ところがただでさえ車庫入れがうまく出来ないのに大型のSUV車ではさらに車庫入れが難しくなる。道路で車庫入れを待っている車は渋滞し始め、あちこちでクラクションが鳴り始める。克子はパニックになりついに車を放り出して降りてしまう。

 足達道洋は石橋造園土木に勤務。樹木医の資格も有する。しかし息子の誕生をきっかけに極度の潔癖症になり、息子のおむつ替えは愚か、抱き上げることもできなくなる。夫婦生活も例外ではなく、妻の体を除菌シートで拭いてからという始末。

 街路樹伐採反対運動をやろうと考えたハナは、娘を見返すために始めた英会話教室で知り合った粕谷静江に道路拡張のため街路樹が伐採されることを話す。静江は積極的に街路樹伐採反対運動の中心人物になっていく。ハナは静江が自ら積極的に動いてくれため、自分が先頭に立たなくて済む。そのことを喜んだ。静江の友人の夫で市議会議員のアドバイスを受け、署名運動だけでなく、実力行使も辞さない態度が必要と言われ、伐採の準備に来ていると思ったハナたちは安達たちの調査を邪魔した。

 安達は単に市に依頼され街路樹の診断をしようとしていたのであった。それは5年に一度行われるもので、伐採とは関係ないものだった。結局その時はハナたちの反対があって街路樹の診断が出来なかった。そのためハナたちが反対運動をしない早朝に再度街路樹の診断を始めたとき、安達は木の根元にフンがあることに気づく。病的な潔癖症の安達は、

 しかし道洋の視線は、まるで磁力で弾かれるようにどうしてもフンには向かなかった。足は竦み、背中を悪寒が走り、意識が不意に遠くなりそうな心許なさを覚えた。

 (略)

 駄目だ、この木には近寄れない。道洋は白旗を揚げざる得なかった。足元に犬のフンがいくつもあるような、そんな恐ろしい状態で仕事ができるわけもない。無理に強行すれば、道洋はパニックを起こして我も忘れてしまうだろう。叫び出して逃走するか、あるいはその場で失神するか。いずれにしろ、能力の限界を超えた作業であるのは間違いなかった。

 (略)

 そのときふと、ある重要な情報を思い出した。ここの木は近いうちに、道路拡張のために伐採されるのだ。道洋たちは依頼されたことをそのまま忠実に遂行するしかないが、無駄な作業なのは確かだ。ならば、一本くらい診断しなくてもいいのではないか。先輩に押しつけ、気まずい思いをしてまでやらなければならない仕事ではない。この場をなんとか逃れたい気持ちが、道洋に言い訳を許した。

 こうして倒木寸前の病気の街路樹はそのままにされた。そして強風が吹いた日に、その木は倒れた。そして加山聡の一人息子健太がその下敷きになる。救急車が呼ばれ、近所の病院に問い合わせをしたが、治療を断られる。内科医の久米川治昭いる病院であった。しかも車を放りだして逃げ出した女性がいたため、救急車は渋滞のため先に進めなかった。そして健太は死亡した。
 悲しみに暮れる加山に上司はこれは人災だ。このまま泣いているだけでいいのか。原因を追及しろと言われる。
 そしてこれまで記したこの街路樹が倒れる原因になった関係者に会っていく。しかし誰も自分の非を認めない。単に≪石橋造園土木≫の安達道洋を業務上過失致死罪で逮捕されただけだった。しかも彼は病気であった。事故は複合的な原因で起こっただけに加山は安達道洋だけの責任として認められなかった。加山は街路樹倒木に関係ある人物たちに会っていくと、

 「みんな、そうなんですよ。私が訪ねていくと、みんな怒るんです。自分は悪くないと、開き直って怒るんです。どうして怒れるんでしょうね。やっぱり私の方が間違ってるんですか。私は言いがかりをつけているだけなんですか。誰のせいで健太が死んだのか、知りたいと思っちゃいけないでしょうかね」

 「誰も謝ってくれない。誰も自分の罪を認めてくれない。誰かひとりでも謝ってくれれば、ここまでの絶望感は味わずに済んだかもしれない。こんなにも人間を憎まずにいられたかもしれない。でも、誰も謝ってくれない。健太が死んだのに、おれの健太が死んでしまったのに、誰も責任を取ろうとしないんだ……」

 加山は咽が渇いたのでコンビニ足を向ける。小腹も空いたのでおにぎりとウーロン茶を買った。食べ終わったあと、ゴミをゴミ箱を入れようとした瞬間、あの時のことを思い出した。健太が生きていたとき、家族旅行を行った。そのとき家に溜まったゴミをそのままにしておくことが出来なかったのでサービスエリアに捨てたことだ。

 「ああああああああああ」

 「……おれだったのか。おれが健太を殺したのか」

 加山は自分は死んだ子供の父親だから関係者を責める権利があると思っていた。しかしあの時のことを思い出したとき、自分には他人を糾弾する権利がない。彼らがした行為と加山の行為に差異はない。彼らが責められるべきしたことならば、自分も同じように罪を背負った人間だった。加山は力尽きるまで絶叫し続けたのであった。

貫井 徳郎 著 『乱反射』 朝日新聞出版(2009/02発売)


# by office_kmoto | 2018-08-10 04:28 | 本を思う | Comments(0)

帯状疱疹

 4~5日前から左胸に赤い発疹が出来はじめ、それが斑点になりピリピリと刺すように痛み始め、引きつる感じがしていた。その痛み、引きつりがひどくなったので、近くの皮膚科に行った。先生はその斑点を一目見て、帯状疱疹ですね。と言う。帯状疱疹?聞いたことがあったが何のことかわからずいると、パンフレットを取り出して説明してくれる。どうやら水疱瘡をやった人が、それが治ったあとでもウイルスが体内の神経節に潜み、それが60代を中心に加齢や過労、ストレスによって再び活動し始める、それが帯状疱疹らしい。要するに水疱瘡の再発ということなのだろうか?
 症状はからだの左右どちらかに現れ、胸から背中にかけてもっとも多く現れるという。まさに私の今の症状だ。
 やれやれ、また加齢か、と最近自分のからだに起こる不具合のほとんどが加齢に関係する。
 先日歯医者の半年に一回の定期検診に行った時も、歯が年齢に応じて、おかしくなっているところがあり、それは避けられぬことで、どうしようもないことなのだ、と言われたばかりであった。今悩まされている首の痛みにしても同様で、長年からだを使ってきたことで経年劣化してきて、首の痛みに悩まされている。そこへ体力や免疫力も衰えはじめてきているものだから、今回帯状疱疹にもなったわけだ。
 ということで、ここは院内処方なので、抗ヘルペスウイルス薬、アメナリーフ錠200mg錠5日分と、塗り薬を出してもらう。会計で5千いくらと言われ驚く。えらく高いと思ったのだ。簡単に診察してもらい、「はい、お薬出しておきますね」と言われ、5日分処方されて、5千円は高いと思ったのだ。
 とりあえず会計を済まし、診療内容の明細を見ると、薬の点数が1400いくつとなっている。薬が高いんだ。
 疑うわけじゃないが、薬価はどれくらいなのかネットで調べてみると1437.1円となっている。これが1回2錠、5日分の3割負担となれば、なるほど5千円は超える。今まで胃薬とか目薬とか、痛み止めやローションなど安い薬しかもらっていないものだから、ついつい貧乏性が出て来る。
 昔薬局経営に携わっていたとき、在庫がどんどん膨れ、問屋の支払いに苦労し、資金繰りに慌てふためいていたときを思い出す。これはまだ序の口の方なのだろう。薬代も馬鹿にならないものなのだ。

 5日後又来てください、と言われている。そういえば台風が近づいている。金曜日は大丈夫かなあ。早く治ってほしいけれど。


# by office_kmoto | 2018-08-07 05:59 | 日々を思う | Comments(0)

小沢 信男 著 『東京骨灰紀行』

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 この本はだいぶ以前に読んだ。なんとなく本棚を眺めていて気になったので改めて読んでみた。
 東京の地下は無数の遺骨があちこちで埋まっている。まず両国では明暦の大火で犠牲になった回向院を訪ねる。

 はやい話がそれまで隅田川に橋がなかった。千住大橋以外には。川は重要な軍事境界線だった。そのため火勢に追われた大群衆が、焼かれたくなければ溺れてしまった。回向院の過去帳には二万二人とある由だが、おそらく遺族が申告した総数でしょう。身許もしれず万人塚に埋められて、海へ流されさった屍もずいぶんあったはずで、やっぱり死者は十万人。
 それにしても、人間はこんなにむざむざ大量に死んでいいものか。この無辜の犠牲を弔う回向院を、お詣りせずにおられようか。そこで本堂をめがけて橋を架ける。幅四間(七・三メートル)長さ九十四間(一七一メートル)の木橋が、大きな弧をえがいて隅田川をまたいだ。万治二年(一六五九)末に落成、大橋となづけた。西は下総、二つの国境いの大川を、歩いて流れるありがたさよ。そこで通称両国橋。やがて正式名称となった。
 隅田川東岸の開発がこれよりすすんで、本所や深川が江戸のうちになる。けれども西と東では、町造りがちがった。西はお城を中心に、内堀外堀は渦を巻き、道筋は食いちがったりねじれたり、そもそも素性が要害都市だ。対して東は、堀割も道筋も縦横十文字にストレートで、米倉や材木倉など水運による町暮らしの機能中心だった。こうして大江戸八百八町ができあがる。(ぶらり両国)

 私がこの文章に興味を覚えるのは、二つある。一つは江戸がお城を中心に渦を巻いて発展していくところである。これは先日のNHKスペシャルのシリーズ大江戸でやっていた。
 そしてもう一つが東が「堀割も道筋も縦横十文字にストレート」のところである。これは先日江戸東京博物館内にあった墨田区文化観光コーナーでもらった両国、錦糸町のエリアマップを見ると、区画整理がきちんと出来ており、道筋が十文字なっていて、それに区切られた町はきれいに四角くなっているのを思い出し、なるほど、と思った。
 次に日本橋である。日本橋といっても、今の日本橋の話ではない。日本橋といっても広い。ここでは小伝馬町、馬喰町あたりを訪ねている。両国橋を渡ったところである。 ここはよく知った場所だったので、ここに、

 つぎの辻の左角、七階建てのタキトミビルのあたり一帯に、大丸呉服店があった。「四ッ辻に毅然と聳えていた大土蔵造りの有名な呉服店だった。」「大丸はその近所の者にとって、何がなし目標点だった。物珍しい見物があれば、みな大丸の角に集まってゆく。鉄道馬車がはじめて通った時もそうなら、西洋人が来たと騒いで駆け附けるのも大丸であるし、お開帳の休憩もそこであった。」
 大丸は、そもそも京都に創業し、寬保三年(一七四三)に江戸へ進出、明治末期までここにあった。ひところは越後屋(三越)や白木屋を抜いて、ここが「日本橋文化、繁昌中心点であった」という。ふーん。平成のいまは、へんてつもないビル街なので、なおさら見渡してしまいます。ちなみに東京駅八重洲口の大丸は、昭和二十九年(一九五四)の駅ビル落成時に捲土重来してきたのでした。
 この辻で、大門通りと交叉している。辻を左折したさきに、吉原遊郭があった。というのは三百五十年もむかしのこと。明暦大火のころに浅草田圃へ移って新吉原となったので、もはや当地に縁もゆかりもないのだが、通りの名だけはのこり、表示板が立っている。(新聞旧日本橋)

 ここに大丸があったのかということと、旧吉原がここにあったと初めて知った。実は旧吉原が日本橋にあったことは知っていたが、日本橋には河岸があったから、吉原はその辺りにあるもんだ、と思っていたので、まさかここにあったとは驚きであった。このあと浅草の新吉原へ移転したが、なるほど近くだったんだ。

 その後本は千住へ移る。昔ここは小塚原あった。だから、

 やがて戦後の昭和三十年代に、国鉄南千住駅が高架に改まり、営団地下鉄日比谷線の南千住駅が、より高い高架線で開通する。この工事に骨がいっぱい掘りだされた。そのうずたかい骨灰の山を、首切り地蔵がみおろしている写真が、瀧川政次郎『日本行刑史』(青蛙房刊)の一一三頁にのっています。昭和三十五年(一九六〇)六月の撮影当時も、地蔵と題目塔の配置はいまに変わらないが、なんと界隈のひろいこと。改築以前の回向院の瓦屋根も見えるのでした。
 貨物線は地べたを走り、線路がふえるいっぽうで、魔の大踏切となってしまった。ついに昭和四十七年(一九七二)に立体交差と、道幅拡張の工事開始。都道464号線(コツ通り)が貨物線の下をくぐるや、またまたどっと骨がでた。
 回向院も境内を削られ、現在のビルに改築して昭和四十九年に落慶したが、その削られた地所から樽詰めの頭蓋骨が二百ほど掘りだされた。四尺高い板の上にのった獄門首たちにちがいない。地下の下には仕置場がまだ眠っていた。
 そして平成十年(一九九八)から、未来をひらく常磐新線筑波エクスプレスの工事開始。こちらは地下トンネルでくぐり抜けたからたまらない。平成十四年の中間報告では、約一三〇平方メートルのA地区からでた頭蓋骨が二百点弱、四肢骨千七百点。約三二平方メートルのB地区からは頭蓋骨だけで六十点。他は推して知るべし。(千住、幻のちまた)

 それにしても、新吉原無縁塔から、安政大獄の史蹟エリアから、コレラの流行、上野戦争の敗者たちと、さながら将棋倒しの犠牲者たちを、このあたり一帯がせっせと後始末してくださっていた!(千住、幻のちまた)

 このエリアに三ノ輪の浄閑寺がある。そこに新吉原無縁塔がある。投げ込み寺として知られている。この塔は遊女など無縁仏の霊を慰めるために建てられたもので、そこには「生まれては苦界、死しては浄閑寺 花酔」と刻まれている。 
 続いて築地へ向かう。

 昭和二十年(一九四五)二月、三月、四月、五月と、たびかさなった東京空襲に、ここら一帯は無事であった。明石町、湊町、入舟町、新富町は、そっくり無傷、小田原町はすこし焼けた。木挽町は半分のこった。そのさきの越前堀、八丁堀、京橋、銀座など、ぐるりはあらかたやられたのに、どうしてか。ここに聖路加病院があったからですね。
 その証拠に、戦後、占領軍が進駐するや、当病院はただちに接収され、そのまま十年間アメリカ軍の病院であった。その間、日本人むけの診療は、魚河岸のむかいの仮病棟でつづけた。その分院跡が、いまの国立がんセンターとなっております。(つくづく築地)

 へ~え、がんセンターはもともと聖路加の分院跡に建ってているのか。
 なぜ聖路加が空襲で焼けなかったのか。それは聖路加がアメリカ聖公会宣教医師のルドルフ・トイスラーによって創設されたからだ。
 この後谷中、多磨霊園と墓地巡りとなり、新宿と回り、また両国へ戻って来る。今度は東京大空襲で多数の死者を出した被服廠跡を訪ねる。跡といっても被服廠跡がそのまま残っているわけではない。今は横網町公園となり、そこに東京都慰霊堂が建っている。関東大震災、東京大空襲があった日に、慰霊がここで行われる。
 私はこの公園内にある復興記念館に行ったことがある。ここで関東大震災での火災のすさまじさを、その遺物を見るだけで声を失う。一度ここを見学することを勧める。
 館内は撮影禁止のようだが、外には猛烈な熱でひしゃげた鉄の塊となった数々のものが見ることが出来、それは写真を撮ることができる。

小沢 信男 著 『東京骨灰紀行』 筑摩書房(2009/09発売)


# by office_kmoto | 2018-08-06 05:28 | 本を思う | Comments(0)

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