オジサンには、人の世は住みにくい?

 先に紹介した伊集院静さんのエッセイの中で、東京駅の公衆電話の風景が書かれていた。


 東京駅の構内でどうしても連絡しなくてはならない用事ができた。その時、ここの電話を使っている人が結構多くて、私は電話機が空くのを待っていた。何となく公衆電話を使っている人たちを眺めた。すると大半の人が相手に謝っていたり、手にしていた手帳を落としたり、汗だくだったりした。
 -もしかして携帯電話を持っていない人って大半が仕事ができなかったり、失敗ばかりしている人たちなのと違うか?
 と妙な疑問が湧いてきた。やがて確信した。
 その話をすでに携帯派の家人に言うと、
 「そうかもしれませんね。時代遅れのね」


 伊集院さんはそれまで携帯電話を持たない主義だったらしいが、この光景を見て携帯電話を持つようになったという。

 別な話。それは吉村昭さんのエッセイに書かれていた。

 吉村さんが奥さんと歩いていたとき、立食いのうどんをよく食べると言ったら、奥さんに「やめてください。そんなこと」言われたそうである。吉村さんは立食いのうどんを食べて何が悪い、と食ってかかったら、次のように言い返されたという。

 「身分のことじゃありません。年齢のことを言っているんです。うどんの立食いをしていると、みじめに見える年齢なんです」

 吉村さんはその後も立食いに入っていたが、ある日同年齢の友人の姿を見かけて、奥さんの言うことを素直に理解したという。


 かれは、路上を歩いてくると、立ちどまって小銭入れから何枚か硬貨を取り出して、立食いそばの店に入って行った。友人の頭髪には白いものがまじり、その上、かなり薄れている。人々の間にはさまってカウンターの前に立つかれの後姿が、ひどくみじめなものに見えた。
 私の後姿も、かれの後姿と同じなのだ、と思うと、気恥しい気がした。


 吉村さんはこの話の結びに「年齢というものは、妙な拘束を強いるものらしい」と書く。たぶんこの通りなのだろう。男は歳をとると、それまでできたことが、体面上できなくなる。逆にそれをすれば単にみじめになるのである。昔のままでいると、仕事ができない男というレッテルを貼られてしまうのである。しかし逆に無理して若ぶってしまうと、滑稽になる。

 たとえばだ、

 年配のオジサンが、かけていためがねを上にちょいと上げてスマホの画面を見ている。おいおいスマホって文字を拡大できるんじゃないの、と思ったりするが、オジサンは目をこらして画面を拙い指先で操作している。

 これだと「無理している」と言われそうである。私もそう思う。
 歳をとればどうしても“みすぼらしく”なっていく。それは仕方がないことなのだが、できればそれは避けたいものだ、という意地もある。だから無理をするのだが、今度はそれが滑稽になってしまう。難しいところだ。
 厄介なのは、年齢のみすぼらしさが時と場所を選ばず、意識しないうちにそれを垣間見せてしまうところである。そしてその瞬間を見られてしまうことである。出来る限り自分をみすぼらしく見せないために、スマートに生きようとすれば、「若ぶって」と言われたりして、どうしようもない。そして期待する結果以上に疲れてしまう。
 逆に開き直ってしまえば今度は「意地っ張り」と言われてしまう。

 先日、

 かみさんにテレビのチャンネルを変えて欲しくて、「6チャンまわして」と言って笑われた。かみさんも私と同年齢だからその意味はわかっているのだが、今はチャンネルは回さない。リモコンのボタンを押すのだと笑って言う。そんなのわかっているが、それを言われると腹が立つ。だから私は意地でもテレビのチャンネルを変えるときは「まわして」と言う。
 Yahoo!知恵袋の質問にテレビのチャンネルを「まわす」という表現をする人がたまにいますが、どういう意味ですか、と質問していたのがあって驚いた。

 くっそー!

 ベストアンサーには

 昭和40年代までのテレビは、回転式チャンネルつまみを回して選局していました。その時代に育った人は今でも「チャンネルを回す」といってしまうでしょう。

 そうだよ。

 年相応というのもある。年齢でもかっこよさがある。でもこれってかなり難しい。自分にも少しはそんなものが身についていないものかと考えてしまう。とにかく立ち食いそば屋はやめたほうがいいかも。結構好きだったんだけどね。漱石も言っているように「意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」のだ。


参考図書:吉村 昭 著 『私の引出し』文藝春秋(1993/03発売)
by office_kmoto | 2013-08-23 16:12 | Comments(0)

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