佐々 涼子 著 『エンジェルフライト』

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  この本は国際霊柩送還という業務を行う「エアハース」のルポである。国際霊柩送還とは海外で亡くなった日本人を日本にいる家族のもとに戻すこと、あるいは日本にいた外国人を故国に搬送する業務のことをいう。そのためエアハースの社長である木村利惠は世界各国の葬儀関係者とネットワークを持つ。遺体搬送は世界相手なので、利惠たちに過酷な労働時間を求める。昼も夜もない。
 国際霊柩送還の重要な仕事には、遺体や遺骨の処置がある。公衆衛生上エンバーミング(防腐処理・亡くなった人の静脈に管を入れて防腐剤を注入する)していない遺体は航空機で運べない。なので現地を離れる時には必要な処置が施してあるので日本到着後の処置は必要ないとも考えられる。だが航空機で遺体が運ばれる時、航空機内の気圧の影響で、九十パーセント以上が体液漏れを起こす。体内のガスが膨張する。気圧が遺体に負担をかけるのだ。さらに海外から長時間かかって運ばれる際、エンバーミングをしっかりしていないと、日本に戻って来るまでに色素の酸化によって顔色が変化し、つらそうに見えてしまうことが多い。
 また送り手の国側の文化的背景や、遺体に対する考え方や宗教、習俗も影響し、エンバーミングの技術もまちまちだという。さらに遺体が国境を越える際、現地の事情も影響するし、捜査や解剖の遅れや交通事情、政情などが混乱しているのも遺体の状態に左右する。もちろん運搬される交通機関にも影響される。
 国によってエンバーミング技術があまりにもずさんだったり、劣っている場合、戻ってくる遺体の状態が悪い場合も多い。時には臓器移植のため海外に渡った人の遺体がぺっちゃんこの場合もあった。臓器移植のため海外に一縷の望みをかけて出かけたのに、知らぬうちに自分の臓器が抜かれてしまったのもあった。
 利惠たちエアハースは傷んだ遺体を生前の顔つき、姿に出来る限り戻し、化粧を施し、遺体を修復する。そして遺族の元に遺体を届ける。顔の修復にはパスポートの写真を手元に置いて、汗をかきながら一心に化粧や修復を行う。そこには遺体に対する威厳をとことん重視する。そのため遺族の元に遺体を届ける車の運転さえ安全に気を使う。彼らの仕事は、


 いずれにしても長い距離を運んでくる以上、とてもたくさんの人間の手を経て家族のもとへ戻される。亡き人が家族のもとに無事に戻るのは、それら関係する人たちの、なんとかして遺族と対面させてあげたいという素朴な気持に根ざしているところが大きい。


 そのラインを結びつけるのは利惠たちの仕事だといえる。


 もし家族のひとりが異国で命を落としたら、遺体がどんな状態でもかまわない、一部であってもいい、戻ってきてほしいと願うだろう。まず間違いなく亡くなった人が異国で「さびしがっている」と思い、日本に「帰りがっている」と感じるに違いない。
 要するに人々は、死後の世界などないと口では言いながらも、亡くなった人の心は亡くなったあともまだ存在していると心のどこかで信じているのだ。理屈では明確に線引きできていたはずの生と死の境界線がゆらぐ。日頃漠然と考えている「死」などはただの抽象概念でしかない。具体的な死を前にすれば、頭で日頃思っていた「死」とかけ離れていることに気づくのだ。葬送とは、理屈では割り切れないこのような遺族の想いに応えるために存在しているのであり、エアハースをはじめ世界中の国際霊柩送還の事業は遺族の願いをかなえるために働いているのである。


 国際霊柩送還の現場はその人と家族との関係性を浮かび上がらせる。いつもは人の家族のことなどあまり意識することはないが、国際霊柩送還の現場において否応なく意識されるのは、家族との繋がりだ。誰かが待っていなければ遺体が日本に戻ってくることはまずない。待つ人がいるからこそ、遺体という姿であっても日本に帰ってくることができるのである。亡くなってしまった人は確かに不幸だ。しかし、少なくとも生前は確かな人の繋がりを持っていた人々であるともいえる。
 ある保険会社の社員が言っていた。
 「遺体で戻る人は亡くなったのですから確かに不幸です。でも、不幸であっても日本で家族が待っている。死にざまは生きざま、といいましょうか。やはり、その人がどういう人生を過ごしてきたかは、いざ亡くなってみるとよく表れるんですよ」


 確かに自分の家族が異国で亡くなった場合、何とかして日本に帰したいと思うのは当然である。しかし国外となると、ことはそう簡単にはいかないだろう。だから利惠たちの仕事は遺族たちに感謝される、と思う。しかも戻って来た遺体が傷んでいても、利惠たち仕事によって生前に近い姿に戻されるのだから、ありがたいに違いない。故人を待っていれば待っているほど、そう感じるに違いない。だから利惠たちは遺体に対し謙虚な気持で接するのだろう。だから日本に戻ってきた故人は家族の中でいつまでも思い出として生きつづけることが出来る。
 しかし仕事とはいえ、遺体に直接接する仕事は辛い仕事だろう。著者はエアハースで仕事をする人たちを取材しているうちに、彼らは無意識にその人の残像を記憶から消してしまう、と聞く。多分彼らの精神の防衛機能が働いているのではないか、と著者は考えている。そうすることによって記憶はどんどん上書きされて、遺体としての故人の姿は記憶から消されていく。
 しかしそれでいいのだ。
 エアハースのお陰で日本に戻ることが出来た遺体だが、その故人を偲ぶ家族の思い出は、ほとんどエアハースの姿は出てこない。とにかく遺族と会うと、故人の話が尽きない。そんなときに利惠の姿が彼らに浮かべば胸を引き裂かれる悲しみの記憶が蘇ってしまう。だから、「裏方として彼らは一瞬、人の最も辛い現場に立ちあい、そしてまた裏方として人の目に触れない場所へ戻って行く」。国際霊柩送還士は忘れられるべき人たちでもあった彼らは一瞬、誰よりも亡き人と遺族のためにできることをして、また静かに記憶の中から消えていくのであった。

 今回私は故人を待つ遺族のあり方が気にかかった。私は個人的には葬式不要論者なのだが、それはあくまでも自分自身の問題だと、この本を読んで再確認した。もし自分の家族が、と考えた時、そうはいかないかもしれない。失った家族のことを自分自身の気持ちを整理するため、あるいは失ったということを覚悟するために葬儀が必要かもしれない。もしかしたら葬式というのは故人のためにあるのではなく、残された遺族のためにあるのかもしれない、と思わされた。
 とくに海外で亡くなった人を家族が待つ気持を読まされると、そう思わざるを得ない。これほどまで遺体を日本に戻すことこだわるのはそういうことだろう。遺体は単に遺体ではあるが、そこには、待っている家族の濃密な関係が存在するのである。そんな家族の思いを繋げる利惠たちエアハースの仕事は心を打たれた。
 ところでこの本には東日本大震災のことも書かれている。東日本大震災が起きた17日前の2月22日、ニュージーランド南島のクライストチャーチ付近でマグニチュード6.3の地震が起こり、日本人留学生28人が犠牲になった。利惠は外務省と保険会社の要請で現地に飛ぶ当日3月11日14時46分日本で大地震が発生したのであった。利惠は東日本大震災があった日本でも仕事である以上、ニュージーランドに飛んだ。けれど東北にも手助けに出た。
 その東日本大震災にあった遺体について書かれた記述である。


 「(略)東京等が受け入れ、火葬が可能になるや親族に掘り起こそうという動きが出たものだから、自治体は仮埋葬した全遺体を掘り起こし、火葬することにした。
 だが、再堀作業は容易ではなかった。日本で現在使用されている木棺は火葬に適するように、軽く、燃えやすいようにできている。それゆえ一メートル以上の土の重みや湿気を想定していない。掘り起こされた柩は潰れて崩れた状態にあり、内部の遺体の腐敗は進行していた。
 仮埋葬と再堀の作業にあたった人は、ひたすら死者の尊厳と遺族の気持ちを考えて黙々と過酷な作業を行った。


 土葬のことは、以前東日本大震災のことについて書かれていた本で読んだ。火葬したくても火葬場が足りないので、一時的に土葬したという。しかし遺族は土葬に反対した人が多かったという。その後火葬受け入れが可能になり、再度掘り起こして火葬にしたと書いてあった。
 そこまでは知っていたが、土葬された遺体がどういう状況になったかは知らなかった。これを読んで、そんなことになっていたのか、と知らされた。

 この本は2012年第10回開高健ノンフィクション賞受賞作品だ。私は開高さんファンであるが、この賞の作品を読んだのは初めてであった。


佐々 涼子 著 『エンジェルフライト―国際霊柩送還士』 集英社 (2012/11/30 出版)


by office_kmoto | 2013-12-20 10:27 | Comments(0)

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