生き方論

d0331556_6213764.jpg 城山三郎さんの『無所属の時間で生きる』という本を読んだ。無所属の時間とは、(どこにも属さない一人の人間として、)人間を人間としてよみがえらせ、より大きく育て上げる時間のことを言う。これ読んで、じゃあ、今の私は何処にも属していないし、そうした時間を過ごしているわけだから、この時間は私自身を大きく育てている時間なんだ、と思っていいことになる。
 ところが、そうは思えないところがある。だってその渦中にいる人間として、何物にも属さないことは、不安だけがむくむくと頭をもたげ、こんなことをしていていいのか、と毎日感じている。
 そこで城山さんはこの無所属の時間の過ごし方をちゃんと書いている。


 無所属で、あるいは無所属の気分で生きようとするとき、こわいのは、けじめが失われることである。
 それまでの枠からはみ出し、気ままに自由に生きられるのはよいが、はみ出したままとめどがなくなり、本体がなくなってしまう心配がある。
 自分を守り、育てあげるためにも、やはり、ある種のけじめが必要なのではないだろうか。


 もっとも、無所属の身である以上、普段は話相手もなければ、叱られたり、励まされたりすることもないので、絶えず自分で自分を監視し、自分に檄をとばし、自分に声を掛ける他はない。


 この時間をただたんに、ボーッとしていては、ダメだということなのである。何のことはない。組織に属することにおいて律せさせられることを、無所属になったら今度は自分自身でやらなければいけない。それが無所属であるが故に自己鍛錬になると言っているだけのことである。単に無所属の時間を謳歌しているだけじゃ、いけません、ということなのである。
 しかし悲しいもので、どんなに自由になっても、どこかでこのままじゃダメだと思って、人はいろいろ、自らに規制をかけてしまうのではないか。だからそれをわざわざ言うべきものでないような気がする。そうしないと安心できないのだから。

 いわゆる「生き方」論というのは、それを語る人の経験則から導き出されるものであろうと思われる。どういう生き方があるにせよ、語る人の人柄、生き様から好みが分かれていくのではないか。私の場合、城山三郎さんの文章から感じ取れるのは、先生と称する人たちが言う言葉と似ている。どこか説教臭く感じられ、それは今の私には“重いな”と感じるのである。
 一方色川武大さんの エッセイを読んでいると、高見からものを言っていない。だからこの人の話は安心して入ってくる。それはまず色川さんが無学で怠惰で不良少年だと自称していて、さもダメ人間がどう生きてきたかを語るように見せるからかもしれない。実際はいくつかのエッセイを読んでいるとシャイで、博学で、勤勉で、まじめな人なのだとわかるが、同じ生き方を語る演出としては色川さんの方が取っつきやすい。これも色川さん流のやりかたなのであろう。


 俺の実感としては、実生活では、負け星が先、それから勝ち星。
 先に負けておいた方が、勝ちやすいということが、まず第一にあるだろうな。これは単なる打算じゃないよ。先に一勝しちゃうと、あとが辛い。一勝はわりとたやすくさせてくれるかもしれないが、連勝はなかなかさせてくれないよ。(「うらおもて人生録」)


 聖人君子よりは、私のような不良分子の方が生体実験動物としては適当な気もするのです。(「不良少年諸君」)


 後の話をしやすいように、まず自分はダメ人間だったと見せること。それが色川さん流の負け星を先に見せてしまうことであり、そうすることで読む側を引き込んでいくのだ。

 色川さんは、自分は世間一般の人々がすることをしてこなかったのだから、その人達が受けられる権利は自分は持ち得ない人間だとする。


d0331556_6225375.jpg 私はその前に落伍者乃至失格者なのだと思っていた。それで、自分でも、他の皆と同じような権利を持つことを恥じた。失格者なのだから、皆と競争はできない。自分を主張してはいけない。(『いずれ我が身も』)


 放っておくと育ってしまう部分があるが、それは外側だけにしておいて、内実は、四十歳の不良少年、五十歳の不良少年、それでいい。みっともなくても仕方がない。そうして不良少年のまま死ぬ。不良少年としてでなく死んだら、私の一生は失敗だったということになる。(『いずれ我が身も』)


 私自身の生き方に関しては、人生如何に生くべきか、というよりも、自分はこう生きるより仕方がない、これ以外には生きようがない、とみきわめがつく生き方をしよう、そういうふうに思っていて、それは決意のようなものになっている。
 それで、その行為を選ぶ前に、じっと立ちどまって長いこと自問自答する。まるで亀のように愚鈍だが、他の人の例は参考にはならない。自分の在り方を決定するのは、自分だけだ。もっともそれもなかなか自分ではたしかめられない。考えるといったって、何を考えたらよいのかわからなくなってしまう。
 結局、自分の本能、気質、そんなものが決定権を握ることが多い。自分は、よかれあしかれ、他人とはちがう。他人と一律には考えられない。(『いずれ我が身も』)


 別の本ではその生き方をフォームと称して語っている。


 フォームというのは、これだけをきちんと守っていれば、いつも六部四部で有利な条件を自分のものにできる、そう自分で信じることができるもの、それをいうんだな。
 ちがういいかたをすると、思いこみやいいかげんな概念を捨ててしまってね、あとの残った、どうしてもこれだけは捨てられないぞ、と思う大切なこと。これだけ守っていればなんとか生きていかれる原理原則、それがフォームなんだ。
 だから、プロは六分四分のうち、四分の不利が現れたときでも平気なんだ。四分わるくても、六分は必ずいいはずだ、と確信してるんだね。またここで、四分わるいからといって揺れてしまったんではなんにもならないからね。(「うらおもて人生録」)


 そぎ落とされた原理原則は、その世界だけで通用するものだ。だから、傍から見ればそれは歪んでいることになる。でもプロはそのフォームが最重要なんだという。


 プロということは、それで生きるために、どこかを歪ましているわけだからね。その歪みを、ふだんは元に戻したい。
 けれども烙印を押されたように、その歪みがとれないんだ。それがプロです。特殊な職業ばかりじゃない。サラリーマンだって、商人だって、その世界に本格的に入れば、皆そうなんだよ。一生に近い間、その種目で飯を喰うとなると、無色透明じゃ居られない。鍛錬して自分をどこかを異常な状態にしなければならない。

 今のこの社会でちゃんと自立するためには、お互いどこかの部分で、プロにならなければならない。
 だから歪んでいない人間なんか、一人前の社会人には居ないんだよ。(「“本物男性”講座」)


 人間というものは、水平にバランスがとれているものじゃなくて、皆、どこかかたよっているんだよ。ただ、そのかたよりかたが、仕事と関係あるところでかたよっていると、変な人と思わない。仕事でないところにかたよっていると、変人だ、ということになるがね。本当は、変人タイプの方がゴツくて確かな肌ざわりがあるね。(「うらおもて人生録」)


 みんな生きていくために“歪み”を生じてしまっているのだ。同じなんだ。ただその“歪み”を計るものによって、判断が変わってしまうものなんだと言っている。

 色川さんのエッセイに感じられるのは、人を見ている目がやさしいことである。それはどこの世界にいるかは関係ない。むしろスネに傷を持っている人にやさしい目を向けている。
 色川さん自身がスネに傷を作くらなければ満足に生きていけなかったから、簡単に他人を笑ったり見下したりしたりしない。むしろ私もあなたと同じですよ、と接してくれるような気がする。こういう人は人に対して優しくなれる。自分も自ら厳しく律していて、人にもそれを求める人と、これしか生きようがないんだから仕方がないじゃないですか、と言ってくれる人と、人はどちらに心を開けるだろうか。
 伊集院静さんの『いねむり先生』を読んでいると、色川さんが伊集院さんを含め、あらゆる人に慕われるのはここにあるような気がする。「それでいいじゃないですか」と言ってくれれば、人は安心できる。色川さんは一途に自分の生き方を押し通してきた人だからこそ、説得力がある。
 ただ、自らを落伍者、あるいは失格者と悟るには、常人が想像を絶するほどの苦しみと哀しみを味わったに違いない、と想像する。伊集院さんの本を読んでいると、色川さんと深く接すれば接するほど、その優しさの裏にある影の部分を感じるところがある。
 でもかなり無茶苦茶なことをやってきた人だからこそ、どんな人にも寛容になれる。苦しみをとことん味わってきた人だからこそ、どんな人にも優しく接することができる。そんな風に思うのである。そういう人を慕わないわけがない。そんな人に助けられていると感じれば、感謝もしたくなるのもわかるような気がする。

 先日BSで「拝啓色川先生」というドラマをやっていた。これはたぶん伊集院静さんの『いねむり先生』を題材としているんだろうな、と見ていたが、はたしてそうであった。『いねむり先生』はその前に地上波でもドラマとして放映してた。ドラマの出来はこちらの方が良かった。このときは色川武大さんの役を西田敏行さんが演じていた。西田敏行さんの方が色川さんの雰囲気をよく出していたように思える。
 いずれのドラマも色川さんの人間性に触れた人たちが、「先生、先生」と慕っていた。そのわけもここにある。実は私も城山さんのエッセイより、色川さんのエッセイの方に魅力を感じるのは、寛容さ、優しさが感じられるからである。それが今の自分には心地よい。
 ところでこのBSのドラマを見ていて、色川さんが“旅打ち”と称して、全国各地で競輪をする旅を伊集院さんとするところがある。その時色川さんが仕事のための原稿用紙や筆記用具、資料などを入れている大きな紙の手提げ袋を持ち歩いていた。鉛筆を削るために手動式の鉛筆削りも入っていた。このとき、原稿は鉛筆で書いているんだな、と思った。その映像が頭に残っていたので、次の文章を読んだとき、ちょっと以外であった。


d0331556_624199.jpg 私は毎日、(自転車で)周辺部を走り廻って小さな商店をのぞいた。本屋と文房具屋は必ずのぞく。特に文房具屋は、それなりに器具が新式になっていくので私のような者には楽しい。おそらくブティックをのぞく女性と同じ顔つきをしているのだろう。


 テレビでは色川さんが持っていた筆記用具はみすぼらしい感じであったが、実は色川さんは最新式の文房具に興味があったんだとは意外であった。
 この文章は『喰いたい放題』という食に関するエッセイにある。このエッセイも面白かった。色川さんは健康のため食事制限をしなければならない身なのだが、食べることが大好きな人なので、その葛藤が面白い。


 しかし、なにはとももあれ猛烈な胃袋だそうで、ばりばり消化してしまって臆するところがない。こういう全般的な喰べすぎの時代には、胃腸の機能がいいということは欠陥に近い。喰べたものが皆、血となり肉になる。


 この本は食のエッセイであるが、高級食材、高級料亭、レストランなどを絶賛していない。もちろん付き合いでそういう場所で会食することが多いと思うが、それでも、


 この喰べ物は、普通の基準ならば何点、とそこらへんから離れず居たい。ものを喰べるのに初心というのはおかしいが、妙にハネあがらずに、日常の喰べ物を大切にしていきたい。
 そうしてとくたま、夢のようにおいしいものを喰べたい。


 この姿勢がなんとなくうれしくなってしまう。大好きな食べ物を前にして、食事制限などしなければならない身ではあるけれど、それでも何とかうまくバランスをとろうと頑張っているのが微笑ましい。
 それでもどうしてもダメなものがある。


 もっとも、禁酒、禁煙、禁ばくち、禁女性、すべて実行するつもりにはなっている。それどころか、中には順調に軌道にのりかけているものもある。ところが、それ等の手前に、一番健康によくない仕事というものを禁ずる必要が横たわっており、しかし仕事をしなければ生きていくことができない。
 しても、しなくても、よいことはあり得ず、進退がきわまって、つい、そろそろと身体をだますようにして少しずつ仕事をしてしまう。そこが不徹底だものだから、諸事、つきつまらない。


 ここでも仕事が健康に一番悪いと言ってくれている。


城山 三郎 著 『無所属の時間で生きる』 新潮社(2008/04発売) 新潮文庫

色川 武大 著 『色川武大 阿佐田哲也全集』〈12〉 ベネッセコーポレーション(1992/11発売)

色川 武大 著 『いずれ我が身も』 中央公論新社(2004/03発売) 中公文庫

色川 武大 著 『喰いたい放題』 光文社(2006/04発売) 光文社文庫
by office_kmoto | 2014-03-18 06:39 | 本を思う | Comments(0)

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