川上 弘美 著 『晴れたり曇ったり』

d0331556_10552691.jpg 図書館で本を借りるようになってから川上さんを知った。以来数冊読んでいる。そのほとんどがエッセイである。この人の持つ不思議さに惹かれている。
 どうやら私とあまり年代は変わらないようで、失礼ながら、おばさんであろう。だけどそうしたおばさん的感覚はもちろんだけれど、少女的感覚も失っていないというか、うまく同居しているところが面白いのだ。ちょっと奇妙な感じで。
 この本には川上さんが小説を書くときに大事にしていることが書かれていた。


 小説を書くとき、内容や筋道について曖昧なままでいいのだが、「雰囲気」だけははっきり決まっていないと書き始められない。たとえば「笑えばいいのか悲しめばいいのか判断のつかない微妙な雰囲気」だの、「道端の空き缶を蹴ってみたがはずれて気まずい雰囲気」だの、「世の中全部を許してしまいたくなるうきうきした雰囲気」だの。


 これを読んだとき、川上さんのエッセイが持っている感覚がここにあるんだな、と思ったのである。その“雰囲気”がエッセイを面白くしているのではないか、と思った。その“雰囲気”はもちろんおばさん的発想もあるのだけれど、どちらかというと、少女的なのだ。そのギャップが素敵である。
 おばさんであろうと少女であろうと、女性であることで感じられる“雰囲気”は、男である私には何事にも新鮮に写る。身近にある美しさやいとおしさ、あるいは優しさを改めて書かれると、なるほど、そうかもしれない、と思ってしまう。


 女の子はどんなに幼くても、お洒落なのである。高価なものは別に必要ないけれど、いつだって工夫あるすてきな自分の姿を見せたいものなのだ。


 これうちの三歳になったばかりの孫が生意気にもそんなことをしている。ちょっとお出かけするときに、おもちゃのネックレスを引っ張り出し、その中から今日の気分で選んで身につけてきたり、髪飾りを自分で選んで、母親に付けてもらったりしていることを聞いた。
 美しさを感じ取る感覚も、やさしさも、なるほどなあ、と思ってしまう。


 きれいさでいえば、美術館のものにかなうはずがない。きれいと思う心は、いつもなにがしかの思いと結びついている。


 家のことはさほどしない。それなのに正月ばかりはそれらしい支度をまがりなりにもおこなうのは、実家で重箱をあつかった頃のやすらかな思いがあるからなのだった。美しいという言葉は当初肉親への愛をあらわしていたと聞く。美そのものをあらわすようになったのは室町時代以降だった、と。わたしの重箱を人さまが見ても、さして美しいとは感じないだろう。こどもの頃、家のものがさまざまに美しく思えたのは、室町より前のひとびとが口にしていた「美しい」という言葉の意味に倣っていたのである。


 今になって振り返ってみると、「当事者になることの大変さがわかっている人」と、「わかっていない人、つまり当事者になったことのない人」の、二種類の人がいました。
 大変さがわかっている人って、きっと、人生のどこかで困難にぶつかって、その当事者に自分もなったことのある人です。だから、他人が困難のさなかにいる時は、静かに相手を見守ってくれる。自分の経験から。


 とにかく、このような普段の生活の中にあるものや、人との関わり合いが新鮮なので、私は川上さんのエッセイを楽しみながら読まさせてもらっている。



川上 弘美 著 『晴れたり曇ったり』 講談社(2013/07発売)
by office_kmoto | 2014-05-15 10:58 | 本を思う | Comments(0)

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