村上 春樹 著 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

d0331556_53937.jpg 「色彩を持たない多崎つくる」はどういう意味かというと、彼の高校時代の友だち五人がみな名前に色が含まれていて、彼だけが名前に色彩がなかった。自分の名前に色が付いていないことは、なんら人格とは関係ないが、つくるは自身を取り柄のない「色彩に希薄な」人間と感じていた。
 そのつくるが、東京の大学に入り、他の四人は名古屋の地元に残った。つくるが帰省したとき、四人から絶交を宣言される。


 「悪いけど、もうこれ以上誰のところにも電話をかけてもらいたくないんだ」


 その理由はわからない。つくるは仲間の絶交で、死のうと思う。体型も変わってしまった。つくるは不思議な夢を見る。そこでかれは誰かわからないが一人の女性を求めていたが、その女性は肉体と心を分離することが出来て、一つは別の男に渡すから、残りの一つだけ差し出せるという。しかしつくるは彼女のすべてを求めた。それは彼に耐えられないことであり、かといってどちらも要らないとも言えずにいた。
 つくるは、目がさめてこれが嫉妬というのなのだ、と直感を得る。誰かが愛する女の心か肉体のどちらかか、あるいはすべてを奪い取ろうしていたと思うのである。


 たぶんそのとき、夢というかたちをとって彼の内部を通過していいた、あの焼けつくような生の感情が、それまで彼を執拗に支配していた死への憧憬を相殺し、打ち消してしまったのだろう。強い西風が厚い雲を空から吹き払うみたいに。それがつくるの推測だ。


 つくるは新しい容貌を獲得し、生きることとする。東京の大学には鉄道の駅を造ることを学ぶために出てきて、大学卒業後駅舎建設の仕事につく。
 つくるは三十六歳で独身で、恋人の沙羅は二歳年上の三十八歳。沙羅はつくるの高校時代の話を聞き、仲間から絶交を言い渡されて、死のうと思ったこと。そしてまた生きることを選択したこと。以来他の四人とは会っていないこと。そしてグループから突然放り出された理由はいまだ知りたいと思わないこと、を話した。
 つくるにはその時の傷がまだ残っているのに、忘れ去ろうとしている。その理由も追及しないことが沙羅には理解できなかった。つくるは「なにも真実を知りたくないというんじゃない。でも今となっては、そんなことは忘れ去ってしまった方がいいような気がするんだ。ずっと昔に起こったことだし、既に深いところに沈めてしまったものだし」と説明する。


 「それはきっと危険なことよ」

 「危険なこと」とつくる言った。「どんな風に?」

 「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史を消すことはできない」沙羅は彼の目をまっすぐ見て言った。「それだけは覚えておいた方がいいわ。歴史は消すことも、作りかえることもできないの。それはあなたという存在を殺すのと同じだから」


 沙羅はその四人が何故つくるに絶交を言い渡したのか、その理由を知るべきだと言う。そうでないとつくるとの関係が続けられないと言うのであった。沙羅は今その四人がどこにいて何をしているのか調べ、つくるは彼らを訪ねるように薦める。そしてつくるの巡礼が始まるのである。
 つくるは沙羅から四人の消息を聞く。アオこと青海悦夫は現在名古屋市内のレクサス優秀なセールスマンをしている。アカこと、赤松慶はクリエイティブ・ビジネスセミナーという自己啓発セミナーと企業研修センターを合体させたビジネスを立ち上げ、成功している。クロこと黒埜恵理は結婚してフィンランドにいる。そしてシロこと白根柚木は死んでいた。
 つくるはまずアオ、とアカに会うため名古屋へ向かう。そしてつくるがグループから追放された理由は、シロがつくるにレイプされたからと言う。


 「でもそれはそれとして、どうしてまず僕に直接確かめなかったんだ?釈明の機会くらい与えてくれてもよかったんじゃないのか。欠席裁判みたいなかたちじゃなくて」

 「たしかにおまえの言うとおりだよ。今にして思えばな。おれたちはまず冷静になって、何はともあれおまえの言い分を聞くべきだった。でもそのときはそれができなかった。とてもそういう雰囲気じゃなかった。シロはひどく興奮して、取り乱していた。そのままでは何が起こるかわからなかった。だからおれたちはまず彼女をなだめ、その混乱を鎮めなくちゃならなかったんだ。おれたちにしても百パーセント、シロの言い分を信じたわけじゃない。ちょっと変だと思うところもなくはなかった。でもそれがまるっきりのフィクションとは思えなかった。彼女がそこまではっきり言うからには、そこにはある程度の真実は含まれているはずだ。そう思った」

 「だからとりあえず僕を切った」


 アカも同じことを言った。つくるが五人の中で一番精神的にタフだったように見えたことも、つくるに冤罪を被せた理由だと知る。
 その後グループの仲間はシロ以外成功し、ある程度幸福であった。しかしシロは違った。名古屋の音楽大学を卒業した後、しばらくは自宅でピアノを教えていたが、やがて浜松市内に移り、一人暮らしを始めた。それから二年ほどして、マンションの部屋で死んでいるのが発見された。

 つくるは五人のグループは何だったのかを、沙羅にシロやアオに会った時に聞いたことを話ながら考える。シロがつくるにレイプされたと言うことに何か思い当たることはないか、シロと特別な親密さを感じることはなかったか、と沙羅から聞かれる。
 つくるは一度もそういうことなかったし、そういうことが起こらないようにしていた、と答える。それはグループ内に男女の関係を持ち込まないことが暗黙の了解となっていたからだ。
 沙羅はしょっちゅう一緒にいれば、お互いに性的関係に関心を抱くようになるはずだで、つくるたちの暗黙の了解は不自然なことだ、と言う。


 「ガールフレンドを作って、普通に一対一でデートしたいという気持は僕にもあったよ。セックスにも興味があった。人並みにね。グループの外でガールフレンドをつくるという選択肢もあった。でも当時の僕にとって、その五人のグループは何よりも大事な意味を持つものだった。そこから離れて何かをするということはほとんど考えられなかった」

 「そこに見事なばかりの調和があったから?」

 つくるは肯いた。「そこにいると自分が何か、欠くことのできない一部になったような感覚があった。それは他のどんな場所でも得ることのできない、特別な種類の感覚だった」
 沙羅は言った。「だからあなたたちは、性的な関心をどこかに押し込めなくてはならなかった。五人の調和を乱れなく保つために。その完璧なサークルを崩さないために」

 「つまり、ある意味ではあなたたちはそのサークルの完璧性の中に閉じ込められていた。そういう風に考えられない?」


 つくるは最後にクロに会うため、フィンランドへ向かう。つくるは十六年前に何が起こったのか、その真相をクロから聞いた。クロはつくるがシロをレイプしたなんていう話は最初から信じていなかったが、シロを護らなくてはならなかったから、つくるをグループから追放した、と言う。


 「そのときには正直な話、とても説明をしているような余裕はなかったの。『ねえ、つくる、悪いけどとりあえず君がユズをレイプしたことにしておいてくれるかな?今はそうしないわけにはいかないの。ユズもちょっとおかしくなっているし、なんとかこの場をおさめなくてはならない。あとでうまく処理するから、ちょっとそのまま我慢していて。そうだな、二年ぐらい』そんなこと私の口からとても言えない。悪いけれど、君は君で一人でやってもらうしかなかった。それくらいぎりぎりな話だったの。そして付け加えれば、ユズはレイプされたのは嘘じゃなかった」。そしてユズは妊娠していた。

 そしてつくるは「シロがあのとき求めていたのは、五人のグループを解体してしまうことだったのかもしれない」と思うのであった。


 高校時代の五人はほとんど隙間なく、ぴたりと調和していた。彼らは互いをあるがままに受け入れ、理解し合った。一人ひとりがそこに深い幸福感を抱けた。しかしそんな至福が永遠に続くわけがない。楽園はいつか失われるものだ。人はそれぞれ違った速度で成長していくし、進む方向も異なってくる。時が経つにつれ、そこには避けがたく違和が生じていっただろう。微妙な亀裂も現れただろう。そしてそれはやがて微妙なというあたりでは収まらないものになっていったはずだ。
 シロの精神はおそらく、そういう来るべきものの圧迫に耐えられなかったのだろう。今のうちにグループとの精神的な連動を解いておかないことには、その崩壊の巻き添えになり、自分も致命的に損なわれてしまうと感じたのかもしれない。沈没する船の生む渦に呑まれ、海底に引きずり込まれる漂流者みたいに。


 完璧な調和などあり得ない。たとえ一時はそうあり得ても、いつかほころびが来る。なぜなら人は成長し、考え方や生き方が変わっていくからだ。むしろ自分たちのグループが完璧な調和の中で存在できたと思った分、その亀裂が始まったとき、その違和感が大きな存在となる。シロはそれに気づいてしまったのだ。そしてこのグループの存在に耐えられなくなったのだ。


 そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。


 この本の話はこういうものである。
 私は今回の作品では、心の奥底の“井戸の中の暗さ”の中でもがくものが少なかったように思えた。今回は簡単にその方向性を示してしまい、答を教えてしまう。要するに昔のグループ仲間に会って、真相を聞けば、答えがわかってしまうのだ。真相がはっきりしない間は村上作品の特徴であるシニカルな自己批評もあるが、そこまでである。
 深い自己批評が少ないからユーモアも光らない。いやむしろほとんどなかった。私はちょっとひねくれた村上作品のユーモアが好きだっただけに残念である。
 つくるが進むべき道を他の登場人物が指示してしまうようなところが、なんか鬱陶しかった。


(この文章は1年前に、この本が発売されてすぐ書いたものだ。本は前後してしまったが、前やっていたブログにたぶん載せていないと思われるので、ここに載せた。)


村上 春樹 著 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』 文藝春秋(2013/04発売)
by office_kmoto | 2014-05-26 05:51 | 本を思う | Comments(0)

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