本川 達雄 著 『「長生き」が地球を滅ぼす―現代人の時間とエネルギー』

本川 達雄 著 『「長生き」が地球を滅ぼす―現代人の時間とエネルギー』_d0331556_5201429.jpg この本は今まで読んできた本川さん本の内容とほぼ重複する。けれどそこから導き出される結果から、本川さんは自然社会と人間社会のギャップを比較対照し、その特殊性を強く訴えている。もちろん今まで読んできた本にも同様の文明論的発想はあったのだが、今回の本の方が強くでいるようだ。
 本川さんは「はじめに」において、「その基礎となっているのが生物の時間。これをもとに老いの時間や現代社会の時間を論じた、今までにない斬新な時間論である」と書いている。その際に本川さんは「スケーリング」という手法を使って、それによりヒトという動物が自然の中での位置と、現代人という特殊な生きものの位置とが、どう違っているのか、何が特殊なのかを指摘する。ちなみに「スケーリング」とは、動物のサイズが変わると何がどう変わるのかを調べる学問である。そこから導き出される主な計算式は以下の通り。

1.いろいろなサイズの哺乳類を使って生息密度(人口密度)と体重の関係を調べると、生息密度はほぼ体重に反比例して減る。

 これからヒトサイズの動物の生息密度を求めてみると、1.44/k㎡となるが、東京の人口密度は5500/k㎡となり平均値の四千倍の密度となる。逆を計算すれば、東京ほどの高密度で住んでいる哺乳類は、計算すると体重が6グラム、哺乳類として一番小さいトガリネズミのサイズとなる。

2.行動圏の広さは体重にほぼ比例する。

 これを計算するとヒトサイズの哺乳類の行動圏の広さは、12平方キロメートルとなる。ところがわれわれの行動圏(通勤など)はゾウ並の体重の生物と同じくらいの行動範囲を持つ。

3.動物の時間は体重の1/4乗に比例する。

 従ってゾウはネズミよりも時間が18倍ゆっくり流れていることになる。

4.体重あたりのエネルギー消費量(比代謝率、標準代謝率、基礎代謝率とも呼ぶ)は体重の1/4乗に反比例する。

 これから導き出される結果は、ゾウはネズミの5.6%しかエネルギーを使わないことになる。(その理由は先の本で説明している)

5.時間の進む速さは比代謝率に比例する。


 以上の計算式から導き出された結果をもとに、時間とエネルギーについて論じ、ヒトの長生きが何故問題なのかを説明する。まずは本川さんはエネルギーと時間の関係を次のように説明する。


 生物においてはエネルギーを使えば時間が進むのだが、これは、生物がエネルギーを使って時間をつくり出しているのだと私は解釈している。エネルギーとは働くこと。つまり働いて仕事をすると時間が生みだされてくるのが生物の時間なのである。


 これがエネルギーと時間の関係である。われわれヒトが属する恒温動物は変温動物より、桁違いに多くのエネルギーを使っている。それは恒温動物は何もしていないときにも、かなりのエネルギーを使い続けているからで、それに対して変温動物は、安静時にはエネルギーを使わない。それは恒温動物はいつでもキビキビ動けるようにするためで、そのようにエネルギーを使って体温を高く保っているには、代謝速度を速めることによって、時間を速くしていると見ることができる。
 ここで現代日本人のエネルギー消費量を計算してみると、食物摂取量でから算すると、121ワット消費しており、そこにヒトは石油や石炭から得たエネルギーを大量に使っているので、この分が5450ワットになっている。合計で5571ワットが現代日本人のエネルギー消費量となる。
 標準代謝率は2786ワットとなり、これはヒトとしての標準代謝率(73.3ワット)の38倍となる。現代日本人は体の使う分のなんと約40倍のエネルギーを使っていることになる、という。ちなみにこれだけエネルギーを消費する動物は何かというとゾウなみの体重のサイズの動物となるそうだ。
 これはものすごい数字である。変温動物から恒温動物に進化したとき、体内の環境を一定にすることで、恒常性を維持したのだが、このとき30倍もエネルギー消費量が増加した。そして人類が40倍のエネルギー消費量の増加をもたらしたのは、「恒環境動物」になったことと言える。これにより安定性と高速性をもつ環境を築き上げているが、これを手放しで喜べない。莫大なエネルギー消費量は地球環境の恒常性を犠牲にしているからである。すなわち、地球温暖化、環境汚染、エネルギー資源の枯渇など放置できない問題を生みだしている。
 ヒトがヒトとしての標準代謝率(73.3ワット)で過ごしていた時代は縄文時代かもしれない。そこから考えれば、社会生活の時間はエネルギー消費量に比例して速くなるのだから、現代は縄文時代より40倍速いということになる。
 このように昔と比べて現代社会の時間は桁違いに速くなっているのだが、体の時間は今も昔も変わっていない。体のリズムは昔と変わっていない。このようにエネルギーを使えば使うほど、社会の時間と体の時間のギャップが大きくなり、これが現代人のストレスとなっているのではないかという。
 エネルギーを使った別のタイプの時間を生みだし方もある。寿命である。エネルギーを使って安定した食糧供給、安全で清潔な都市作り、高度医療を駆使し、長生きできるようになった。その結果、戦前の寿命は50歳だったのが、今や80歳となり、30歳も寿命が延びた。ここから著者は次のように言う。


 時間を速めるせよ寿命を長くするにせよ、どちらもエネルギーを使って自由な時間を生みだしているのですが、エネルギーはお金を出して買うわけですから、「現代人はエネルギーを使って時間を買いとっている」と言えるのではないでしょう。金でエネルギーを買い、そのエネルギーで時間を買いとっているのです。


 戦前の人間の寿命が50歳と聞いて、織田信長を思い出す。本能寺で織田信長は「敦盛」の一節を舞った。「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢まぼろしの如くなり。ひとたび生を享け滅せぬ者のあるべきか」このとき信長27歳。この「敦盛」の“人間五十年”は妥当な寿命見積だったことになる。しかし戦後たった60年間で寿命が1.6倍にもなった。
 人間同様同様の現象は動物にも見られる。動物園の動物が長生きなのもこれと同じ。さらにその家畜を長生きさせる方法があるという。それは去勢することだという。子供をつくるということは、身をすり減らす大仕事なので、寿命が縮むのも当然で、子供を作らなければその分長生きできるからだ。
 現代日本は少子化が叫ばれて、問題となっているが、これも日本が長寿国になっているのに関係しているかもしれない、と著者は言う。子供を産まなければ、身をすり減らすことも、寿命を縮めることもないからだ。
 そもそも寿命はどうしてあるのか?単純に考えて、物というのは使っていればガタがくる。これは生物とて同じ。少々のガタなら直して使うことも可能だけれど、ひどい状態なら直すより、新品に取り替えた方が経済的である。そこで生物はガタの来た個体を捨てる。これが個体の死であり、捨てるときが寿命となる。
 ではどの辺で古い個体に見切りをつければいいのか。生物の目的は、自分と同じものをたくさん作って残すことであるなら、生殖活動前に死んでしまうわけにはいかない。生殖活動を続けていれば、次世代の生産に直接関わっているわけだから、生きる目的がしっかりある。ということは生殖活動が終わったら、それが寿命ということになる。ではヒトのように生殖活動が終わった生物でも生き残っていていいのか。ここが問題となる。
 生殖活動が終わったものが生きつづけることは、親と子が餌の奪い合いをすることとなる。さらに住む場所も限られているいる以上、そこに親が居座っていれば、子の居場所がなくなってしまう。未来につながらない年寄りが資源を横取りすると、横取りした本人の子孫が少なくなり、自己の遺伝子を残せなくなる。このことから生物学的に年寄りが長生きする積極的な意味は見いだせない。
 子供を作る作業は生物が行っているもっとも難しい作業であり、だからこそ、間違いのない立派なものを作れるだけの体力を得るためにそれなりの時間を要する。大人になるまでに時間がかかるのはそのためである。また体がすり減って来てからはいいものは作れない。子の出来が悪ければその子は生き残れないわけだから、そんな出来の悪い子を作るより、作るのをやめた方がいい。資源的にもである。だから体がある程度すり減って来たら、生殖活動を中止し、生殖活動が終わったら寿命も終えることになるのである。
 普通野生の状態で年老いた動物を見かけることはほとんどない。野生で長生きすることはほとんどない。野生とは厳しいもので、食う食われるのぎりぎりの力関係で成立している。ちょっとでも脚力が衰えれば食われてしまうし、獲物を捕らえられなければ飢えて死ぬ。このことから厳しい自然の中で生きるとは、厳しい自然選択を受けているということである。老いの期間は自然には見られないものである。だからこの期間は自然選択を受けていない。この間に起こることは、自然によって厳しく鍛え抜かれた出来上がったものではない。老いから死へのタイムスケジュールは、いい加減であって、まったく問題にならないものなのである。
 戦後たった60年間で寿命が1.6倍にもなった。延びた部分は自然状態では見られないものであり、生物学的には積極的な意味を持たない期間である。いわば「おまけの人生」である。次世代の生産に当たらない年寄りが長生きすれば、結果として自分自身の子孫の数を減らすことになる。「おまけの人生」は「うしろめたい人生」でもある。だからこそ、このうしろめたさを補って余りあるだけの、次世代に対して意味のある人生を送るべきである。
 この本で、時間は物理学的には一種類しかないけれど、生物学的には生物によっても、また子供と成人の時間が違うことを知った。また時間はエネルギー消費量によってもその進み方が違うことを学んだ。つまり時間はデザインできるのである。そうなれば時間の質も違ってきていい。「おまけの人生」を自分でデザインしていけばいい。
 だから老人になっても働くべきである。老後はそれまで苦労して働いてきたのだから、ご褒美であるなんて、馬鹿な考えはやめるべき。もちろん敬老精神に甘えていられる立場じゃない。若いもののエネルギーを横取りして生きているのだから、ご褒美に値しない。だったら、それなりに働き、存在を認められるだけの価値を作り出す必要がある。たとえ「おまけの人生」の期間が自然にはあり得ない期間であっても、次の世代に何らかの形で寄与する生き方をすれば、自然的摂理に叶うことになるというのである。この本はここが言いたくて書かれた本ではないか、と思った。

 以上がこの本読んで知ったことであるが、この他に“なるほど”と思ったことがあるのでそれを書いて終えることにする。まずは年をとって成人病などに苦しむのは当然だという話。

 クールに考えれば、ガンや生活習慣病になること自体正常なことである。年をとってピンピンしている方が異常である。私たちは病気を異常なことととらえるが、老いてガタが来るのは自然なことであって、成人病とはガタ以外の何ものでもないのだから、成人病にかかるのはいたって自然なことと言える。生活習慣を改めて、気を使えばガタの来るのはゆっくりかもしれないが、来るものは来るのである。

 長生きの弊害が精神的に及ぼす話では、

 昔の人は老いる前に死んでいった。ところが今は50で死ぬなんてとんでもない。まわりに自分より長生きしている人間が多くいるものだから、「もっと生きられたはずなのに・・・」と思ってしまうのだ。だから現代では自分は早死にして損したという恨みながら死んでいく事態になってしまった。著者は「老後の人生とは、ガタがきた体を抱えながら死の影におびえ続ける長い不安な旅なのです」という。そうなってしまったのである。

 「メートル法の功罪」と題して面白いと思ったことは、

 長さを測る時、昔は自分の身体を物差しにしていた。指を広げて尺、両手を広げて尋、一歩の歩幅がフット、腕の長さがキュピト、といった感じで。これなら物差しが自分の体だから実感できる。
 ところがフランスの合理主義の時代になり、地球の子午線の長さの4000万分の1を1メートルとするメートル法が作られ、普遍的な単位を作り上げた。時間も同様である。時間は一直線に流れていくものとして考えるようになった。われわれが時間というと「絶対に変わらない等速の時間が私たちの体の外に厳然と存在しているのだ」という見方をするのは、こういう見方は恒温動物という自分の体のデザインから生じているものと思われる、と著者は言う。しかし生物にはそうした時計で計る時間を「物理的時間」の他に、「生物に関わる時間を、生物の体の中で繰り返し起こる現象の周期を単位として計ったもの」、すなわち「生物時間」がある、と言っている。

 科学が未来の問題を解決してくれるという妄想の話では、

 私たちが将来のエネルギー問題をあまり真剣に、そして深刻に考えようとしないのは、いずれ科学が問題を解決してくれるだろうと、安心しているからでしょう。だからこそ、このようなバチ当たりな生活を平気で続けていられるのです。「科学に投資しておけば、いずれは新技術を開発してエネルギー問題も環境問題も解決できる」と科学は言い続け、人々を信じさせてきました。つまり科学を信じて少々お布施を出しておけば、ぜいたくな借金生活を正当化でき、罪を感じることはないと科学は言うのです。
 現代日本人は、みな科学を信じていると私は思っています。こぞって科学教徒になっているのですね。科学は、現在のこの物質的な繁栄をもたらしてくれました。さらに罪の意識まで取り去ってくれるのです。絶大な御利益があるんですね。これなら一億総科学教徒になるのももっともなことだと思います。


 これは原発の問題にもつながるのではないか。


本川 達雄 著 『「長生き」が地球を滅ぼす―現代人の時間とエネルギー』 阪急コミュニケーションズ (2006/01/23 出版)
by office_kmoto | 2014-07-09 05:22 | Comments(0)

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