平成26年7月日録(上旬) その2

7月某日 雨


 台風が沖縄から九州に向かって、このままだと日本列島を縦断しそうな感じだ。気分は昨日より良い。
平成26年7月日録(上旬) その2_d0331556_5581420.jpg 常盤新平さんの『威張ってはいかんよ』を読み終える。これで常磐三昧はおしまいだ。いささか食傷気味だ。
 この本を読んでいたら、やたら昔のことをあれこれ思いだした。常盤さんが昔のこと、友人ことなど思いだしているのを読んで、自分もいろいろなことを思いだしていた。
 それにしても、歳をとるということがしみじみ書かれていて、何となく「そうかもしれない」と思ってしまう。


 二人とも足がおそくなっている。若い人たちがどんどん追いこしてゆく。この近くの居酒屋あたりで飲んで、これから帰るのだろう。かつては彼や僕が追いこしていったが、いまは反対になってしまった。だが、彼は追いこされたのも気がつかないようで、夜空を見上げて言う。
 「今夜は楽しかったよ。今回は二度も会ったんだからな。蕎麦がうまかった」
 「また会いたいね、二、三年先に」と僕は言ったけれど、会えるという自信はなかった。今夜が最後の別れになるかもしれないが、それもいたしかたない。


 何ごとも諦めなければならない年齢に来てしまった。


 「また来てくれよ。僕も来年は七十だから、日本へ帰るよ。そのときまた会おう」と沖村はワゴン車のなかで言った。ホテルまで送ってもらい、車からおりて私たちは握手した。
 「楽しかったよ」と沖村は笑った。私も笑って、また来るよと言った。妻は涙ぐんでいた。約束しても、その約束を果たせるかどうかわからない年齢まで私たちは来てしまった。


 まだ私は常盤さんまでの年齢に達していないから、ここまで先のことを心配する必要はないのだろうけど、いずれ、あと十年も過ぎれば、似たような状況になる。
 十年そこそこだ。その時どう感じているだろう。常盤さんと同じように先の確約が出来ないことに不安になっているだろうか?ちょっと考えさせられた。だからか、昔のことをいろいろ思いだしたのかもしれない。

 ところでこの本の最後に「忘れがたい人たち」というのがあって、常盤さんにとって3人の忘れがたい人物について書かれている。
 普通こういう場合、恩師や友人を親しみを込めて回想するのものだろうが、1人は違っていた。その人が植草甚一さんである。常盤さんはここで植草甚一さんを批判しているのである。
 植草甚一さんはいろいろなことに興味を持って、趣味人みたいな、そんなところの“教祖”みたいになっている人だが、常盤さんは中身のない薄っぺらな人のようにいうのである。それがちょっと驚いてしまった。
 常盤さんは翻訳者である。常盤さんは作家やその作品に深く踏み込んで行かなければ翻訳などできないと考えている人である。そんな人には、どうしても植草さんのような上っ面だけをさーっと撫でた感じの文章を書く人は認めがたかったんだろうと思う。
 私も植草甚一さんの本は一冊も読んだことがない。読みたいと思わなかった。どこか自分はこんなことを知っていて、それを楽しんでいるよ、という自慢げがぷんぷん感じられて、それが嫌だなと思っていた。もちろん趣味の話なんだから、それで良いという考えもあるかもしれないが、結局それだけのことであろう。たぶん植草さんの本はこれから先も読まないような気がする。


7月某日 台風のため大荒れの天気

 私は昔から“ついでに”ということをよくする。例えば一つの用事があって、出かけることがあれば、ちょうど出かけたのだから、まったく別の用件でも、ついでにこれも片付けちゃおう、と考えてしまうのだ。つまりいくつかの予定を詰め込んでしまう。一つの用件だけでその日を終わらせることが少ない。効率的といえば効率的と言えようが、単に貧乏性なのである。
 今日もそうであった。まず昔の同僚とお茶の水で飲む約束をしていた。飲むという以上夕方からである。それまで時間がある。そこでハローワークの就活セミナーに出席することにする。場所は飯田橋の東京しごとセンターである。そこで話を1時間ほど聞いてから、遅めの昼食を近くにある喫茶店で食べる。のんびりと食事をしながら本を読んで、4時頃お茶の水に着く。お茶の水といえば「本」である。欲しい本がいくつかあるので、それを買いに出る。
 三省堂のポイントがたまっていた。これを使いたかった。もう昔みたいに三省堂に頻繁に来ることもないだろうし、そうこうしているうちにポイントの期限が過ぎてしまい消滅してしまう。ちょうど欲しい本があるので、それで使い切っちゃおうと考えたのだ。そうすれば本を少し安く買える。その前に三和図書に半年ぶりにも寄ってみた。
 さらに古本を探しに、天気の悪い中歩き回る。結局今日は本を9冊購入した。ちょっと大人買いをしてしまった。
 そうこうしているうちに昔の同僚からメールが届く。ちょっと早く会えるという。慌てて古本屋街からお茶の水駅前へ戻る。
 10時過ぎまで飲んで話した。彼も思い入れが深かった分、なくなってしまったお店のこと、会社を辞めさせられたことをずっと引きずっていたという。だから私と会うと昔のことを思いだしてしまうので、なかなか連絡が取れなかったという。最近になってやっと気持ちの整理がついたので、連絡したという。
 そうじゃないかと思っていた。だから私は自分から連絡を取らなかった。待つことにしたのである。そしてこうしてまた会えるようになったことを、二人で喜んだ。また会えることを楽しみしていると最後に言ってくれ、今度は私から連絡しますと言って別れた。
 そうそう、彼に渡そうと思っていて忘れていたアンカーボルトの破片を彼に渡した。今さら迷惑かな、とは思ったのだが、それならそれで捨ててくれればいいと思って、彼に手渡す。
 彼はあの店は今の自分の原点だったから、このアンカーボルトを宝にしたい、と別れた後届いたメールに書いてあった。

 山口正介さんの『正太郎の粋 瞳の洒脱』を読み始める。


7月某日 台風一過

 久しぶりに長いことを話したことと、お酒も久しぶりだったので、少々お疲れ気味。台風が過ぎ去ったあと、日がかーっと照ってもいるので、今日も散歩は取りやめる。これで3日散歩には出ていないが、昨日出かけているので、良しとする。
 昨日買ってきた本をあれこれ眺める。ちょっと買いすぎたかな、という気もしないではないが、まあ、たまにだから良しとする。

 昨日三和図書を訪ねたとき、昔本屋で働いていたころの同僚が遊び来ていたらしく、私と連絡を取りたいと言っていたと聞いた。それで携帯の番号を聞いたのでかけてみる。
 本当に久しぶりだと何を話していいのかわからないのだけれど、とりあえず近況を聞いたり、話したりする。彼にもいろいろなことがあったようだ。だから下手なことも言えずに終わってしまう。近いうちに会いましょう、と言ってくれたので、私も「是非」と答える。
 会社が左前にならなければ、昨日会った同僚も、今日電話した同僚も、そして私も同じ会社の仲間でいられたのに、と思ってしまう。そしてそうであったら、昨日の彼にも深い傷を残さなかっただろうし、今日の彼もその後波瀾万丈(勝手に私が思っていることではあるが)な人生を過ごさなくて済んだかもしれない。私だって同じだ。そして自分たちだけでなくその家族も苦しまなくて済んだはずだ。
 また経営能力のない経営者のことを罵っても仕方がないのだが、あの人間は会社で働いていた人間だけでなく、その家族のことも責任を持つのだ、という自覚がなかった。経営者は今日の彼の仲人だった。

 気がつくと百日紅の花が咲いている。


7月某日 はれ

 携帯がやかましくなった。緊急地震速報であった。それで起こされる。こうして注意を呼びかけてくれるのは有り難いが、朝早くだと、やれやれと、何ごともなかったので思ってしまう。昔働いていた頃の同僚が、やはり朝早く緊急地震速報がなって起こされたことを「やってくれた!」なんて、ぼやいていたが、今日も同じように思っているだろうか?
 緊急地震速報といえば、朝の通勤の電車の中でなったことがある。乗っている乗客の携帯が一斉になったのである。車内はざわめき、電車が確認のため止まった。あれは異常な光景だったなあ。しかし満員電車の中で緊急地震速報がなっても、どうしようもない。

 ベネッセの顧客情報が流出し、その顧客名簿をジャストシステムが買って、ジャストシステムがやっているスマイルゼミのダイレクトメールに使ったという。
 ジャストシステムが小学生や中学生のための通信教育講座をやっていることは知っていたが、長いこと一太郎ユーザーをやっている者としては、あまりいい気持ちがしない。直接ソフトとは関係ないにしても、出所のわからない情報を使って商売をしている会社のワープロソフトを使っていると思うとあんまりいい感じはしない。「やめてほしいなあ」という感じだ。

 山口正介さんの『正太郎の粋 瞳の洒脱』を読み終える。続いて川上弘美さんの『あるようなないような』を読み始める。


7月某日 くもり

 朝顔が花をつけない。やたら葉っぱばかり大きくなっている。おかしいなと思い、図書館で例の『大人が楽しむアサガオBook』を見てみる。そうすると、肥料のやり過ぎと書いてある。

 ん?!

 肥料をやれば、元気になるだろうと思って、調子づいてがんがんあげていた。確かに葉っぱは元気になったのだが、肝心の花が咲かないことになってしまった。要するに食い過ぎて、お腹がいっぱいになっちゃって、朝顔としては花どころじゃない、ということになっているわけだ。
 本ではしばらく様子をみなさい、と書いてあったので、そうすることにする。たかが朝顔でてんてこ舞いするのもおかしいが、花を育てるというのは難しい。結局何も知らない素人がやっているからこういうことになる。
 せっかくここまで育てたのに一つも花が咲かない可能性もあるかも。こんだけ元気な葉っぱに育ってさぞかし大きな花を咲かせるだろうと期待していたのに、まさか葉っぱだらけの朝顔を育てることになるとは。それもご丁寧に6鉢もだ。とほほ・・・・。


7月某日 はれ

 ワールドカップ決勝戦、ドイツ対アルゼンチンは1-0でドイツの優勝となった。

平成26年7月日録(上旬) その2_d0331556_5562777.jpg 川上弘美さんの『あるようなないような』を読み終える。
 この本は今までの川上さんのエッセイとはちょっと違う感じであった。書かれた文章はちょうど川上さんが芥川賞を受賞した頃のもののようで、後の川上さんのエッセイにあるような、やわらかく、のほほんと出来る文章にはなっていない。どちらかと言えば“観念的”な文章で、いささか“硬い”。
 芥川賞を受賞して、今までと違う生活を強いられた頃の文章に次のようにある。


 常と違う生活をしていた期間には、多くの人に会った。おおかたの時間はぼんやりしていて、ときどき人に会うことは、今までもやってきた。そうやって人に会うと、たまのことで、たいそううれしくありがたい心もちになる。相手の言葉が砂地にしみ込むようにからだにしみ込んでくる。ところが今年は一時に多くの人に会ったので、しみ込む感じがなくなってしまったいっぺんに多くしみ込んでくるので、すぐ飽和してぼたぼた流れていってしまう。容量が少ないようなのだ。そうなると、からだがやたらぼんやりを求めることになる。頭や気持ちは人に会うことをよろこびおもしろく思っているのに、からだは眠りに入ろうとするような感じになる。脆弱なつくりのからだである。情けない。
 ただ、そのように眠ろう眠ろうとしているようなときでも、ときどきその眠りを起こしてくれるような人もいて、どんなに過飽和になっているときでも、その人の言葉やしぐさはどんどんしみ込んでくる。初対面でありことさら特徴のある言葉しぐさをするように思えないのに、素早くしみ込む。それは私との相性なのか、それともその人の才能なのか、才能、対人関係というものに関する才能、とにかくそのように「しみ込みやすい」人がこの世の中に僅かではあるが存在するという不思議な感じのことを知ったのが、たぶん今年の大きな収穫だったろう。


 と最近の川上さんのエッセイと比べてみても、観念的で硬い。ここにある「ぼんやり」することで、川上さんらしくなっていると思われるが、それを許さない時だったのだろう。
 でも人によってその人の言葉やしぐさが「しみ込みやすい」というのは確かにある。特に今までと違う日常を送っていると、それが非日常であるだけ、ものすごく自分の心にしみ込んでくると、ハッとすることがある。私はそれを先週感じたものだった。

 続いて佐々涼子さんの『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている』を読み始める。


7月某日 はれ

 とにかくここのところ蒸し暑くてかなわない。蒸し暑くなければ、結構耐えられるのだが、身体にまとわりつくべとべと感が嫌だ。
 今日は胃カメラの予約に行く。先日の区民検診で引っかかってしまたので、詳しく検査することにしたのだ。検診で撮った胃のレントゲン写真を見せてもらうと、丸いものがある。ポリープだという。
 今まで通っていた病院には行かなくなってしまったので、そこで検査してもらうことも出来なくなってしまった。なので近所で楽に胃カメラが飲める病院に行った。予約待ちで2カ月後の9月となる。

 川西政明さんの『吉村昭』を読み始める。吉村昭さんの評伝だ。

 今回日録が2回に分かれてしまった。まとめてアップしたら“文字が多すぎます”と出てくる。最初は仕方なしに削っていたが、せっかく書いていたものを削るのもばかばかしいので、2回に分けた。
by office_kmoto | 2014-07-16 06:31 | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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