常盤 新平 著 『天命を待ちながら』
2014年 07月 28日
世の中の移り変わりにますます驚いている。もはやちがう世界に生きているのだという感慨を強くする。そういう世界では出しゃばることなく、世のかたすみで暮らしていきたい。それも、楽しく。
初秋という言葉は夏の疲れを癒やしてくれる優しさがある。
悪いこともあれば、よいこともある。生きてゆくというのはそういうことなんだ。それでバランスがとれる。
賑やかなところにいると、そこに溺れてしまいそうだ。
外国に行くと、植物の名を知らないのを口惜しく思う。植物のことを知っていたら、旅はもっとゆたかになるにちがいない。セントラル・パークを歩いていても、この木はなに、あの草はなにと知っていたら、どんなに楽しいだろう。
だが、名前を聞いたり、辞書を引いたりしただけでは、木の名前も花の名前もたちまち忘れてしまう。身につかないのだ。手で触れて、好きにならないとだめだと思う。
国際化というのが合言葉になって、自分を売りこむ世の中になってしまった。
国際化というのは国籍不明になることか。
ところで「仮り末代」という言葉があるらしい。この言葉を使ったのは山口瞳さんである。この本でそれが紹介されていた。「男性自身」にあるという。慌てて重松清編の『山口瞳「男性自身」傑作選 中年篇』(新潮文庫)を取り出して見てみた。
話は居酒屋に入った山口さんとその居酒屋をやっている夫婦の会話である。夫婦は本当は居酒屋を始めるつもりはなかったという。主人は鉄工所の会社員だった。それが居酒屋を始めて15年も経ってしまい、そこで「仮り末代」と女将さんが言う。
「仮り末代って言うでしょう」
「知らない」
「よく言うじゃないですか。仮に住んだつもりが、そのままになってしまうことをね」
そこで山口さんは、友人たちの姿を思いだし、それぞれが「仮り末代」であったのではないか、思い至る。そして、
酔ってくると、私には、すべての人が、世の中全般が、たとえば男女のことにしたって、仮り末代に思われてくるのである。どんなときでも、誰にとっても、こころならずもというのが、実は、本心なのではあるまいか。
と最後に書いて締めくくっている。
常盤さんはこの一編が特に好きだと書いている。私も「仮り末代」という言葉の響きもいいし、その意味も、無情さも、そして山口さんの締めくくりの言葉もいいものだと感じた。
山口さんは自分たちを「仮り末代」の世代であるかもしれない、というが、たぶん今でも世の中の人の大多数が、「仮り末代」ではないか、と思ったりする。意味的にも時代は関係なく、今でも同じではないかと思う。
仮のつもりが気がつけば今もそのまま。年数だけが経っていたということだ。現実の厳しさをひしひしと感じてしまうのである。
また一つ、いい言葉を知った。
常盤 新平 著 『天命を待ちながら』 大村書店(1999/09発売)