伊集院 静 著 『となりの芝生』

伊集院 静 著 『となりの芝生』 _d0331556_2232550.jpg キャバクラでアルバイトを始めた女子大生の相談。内気でお客とうまく話が出来ないという。それに対する伊集院さんの答え。


 話し下手でいいから聞き上手になりなさい。阿川佐和子さんの『聞く力』を読み、そして帯の彼女の顔をよく見て、聞いている感じを練習しなさい。


 大笑いしてしまう。

 もともと私は人生相談というものをする人の気持ちがよくわからない。相談して何とかなるのだろうか。そもそもこんな週刊誌に取り上げられること自体、面白半分に扱われていることがわからんのかなと思う。だからこの本は冗談半分で読んでみたが、それでも伊集院さんの言う言葉のはしはしに意味深いものがあるので、拾い出してみる。


 便利なものは、必ず弱点がある。
 すぐ役立つものは、すぐ役に立たなくなる。


 これ他でも伊集院さんは言っていたが、その通りだと思う。


 人を本気で怒ったり、諭すってのも、人生の勉強かもナ。


 人間には、それぞれ、そこで暮らすのが良かろうという場所があり、それは何が他に比べてイイとか、悪いとか説明できないものだから。
 なぜなら人間が、ひとつの場所に安堵を感じるのは、風であったり、光であったり、特有の静寂であったりするのだから、そんなものは他人に説明できやしないんだから。


 プロスポーツ選手のアホ、バカ言葉に、試合を、競技を楽しみたい、というのがあるが、楽しんで金をもらうのは仕事じゃねぇだろうが。


 いたく同感!最近選手のインタビューでこの「楽しんでいきたい」という言葉をよく耳にする。そのたびにおかしいんじゃないの、と思ってきた。真剣試合を楽しんでやって勝てるのか、と言いたい。もし一所懸命、必死に闘っているのを、謙遜で「楽しみたい」と言っているなら、それは言葉の使い方間違っている。
 さらに本当に楽しんじゃっているなら、それを見せられている方はたまったものじゃない。プロなり、一流選手と呼ばれる人たちは、そんな言葉発しては絶対にまずいだろう、と思う。相手にも失礼な言葉ではないか。


 古い考え、新しい考え、などという区分は、コペルニクスの地動説、ガリレオの、それでも地球は回っていると言った大発見くらいの時しかないものなんです。


 嫌われたくないという気持ちもあるでしょうが、苦言だけが、その人の身体、こころに伝わり、長く身につくのは事実ですから。


 まず最初に断っておくが、本を読む行為は私も職業柄、何か学ぶことができるとすすめるが、すべての人がこの世に生まれて読書しなくてはならないということはまったくない。
 生涯に渡って一冊の本も読まなくとも、素晴らしい人生、生き方をした人は大勢いるし、むしろそういう人の方が読書家よりも、まっとうな生き方、賞賛される人生、仕事している例が多い。
 それはなぜか?
 本ばかり読んで頭デッカチになり、本を読んだことで何かがわかったと誤解してしまうことが多々あるからだ。
 人生も、恋愛も、本に書かれてあることより、まず実践で身につけたものの方がたしかで、応用がきくものだ。
 一冊の本が、人の人生を変えるなんてめったにあるもんじゃない。


 これも同感!大体本を読め、読め、という奴には、どこか胡散臭いところがある。本を読むことによって、情緒豊かな人間になれるとか、知らない生き方など知ることが出来るとか、いろいろ言うけれど、そこにはそうなって欲しいという打算的なものを感じてしまう。だから強制するのだ。そんなことを強制して、本を読む楽しみを、つまらなくしてしまう方が、もったいない気がする。
 一場面として本を読むことの楽しみを提供するならいいが、それを一堂会して、読みたくもない人間まで強制するから、おかしなことになる。読みたければ読めばいい、程度いいのではないか。その結果どうなったかは関係ない。


 人は思わぬところに宝を持って生まれてくる生きものだ。


 世間で日々起こっていること、新聞の三面記事に載っていることは、あなたに明日起こっても何の不思議もないことだ。


 家、家族というものは、その家、その家族にしかわからない事情をかかえていることが当たり前だ。


伊集院 静 著 『となりの芝生』 文藝春秋(2014/10発売)
by office_kmoto | 2014-12-23 04:03 | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


by office_kmoto