沢木 耕太郎 著 『246』

沢木 耕太郎 著 『246』_d0331556_631867.jpg まずこの文庫本を手にとって思ったことは、しおりとなる「スピン」の色が黄色であることに気がついた。新潮文庫のスピンは普通茶色である。最近新潮文庫の新刊を買っていないので、もしかしたら色を変えたのかもしれない。と思ったが、この文庫、装画もかっこよく、凝っている。だから文庫にある統一感から少しでも離れようとして、スピンの色を変えたのかもしれない、と思ったりする。
 さて、本のことである。


 夕暮れどき、西の窓を開けると、国道二四六号線とその上の首都高速道路の向こうに、赤く大きな太陽が沈んでいくのが見える。ビルとビルの狭い隙間に、どこかの連山が顔を覗かせている。高速道路上を、車たちが夕陽を浴びながら疾走していく。やがて、空気は薄紫に染まってくる。


 西の窓に眼をやると、濃い藍色の山々を背に、国道二四六号線の上に架かる高速道路を、ライトをつけはじめた車が流れるように走っている。それを見ているだけで、瞬く間に二、三時間過ぎてしまう。ビールの缶が机の上に並んでいき、ホロッとした気分になってくる。


 世田谷の弦巻という町に住み、三軒茶屋に仕事場を持つ私は、都心に向かうのに常にこの246を使う。タクシーやバスはもちろんのこと、地下鉄に乗る時さえ、246に沿って都心に向かっていくことになる。いまの私にとっては、この246が「うち」から「そと」の世界につづく唯一最大の道であるのだ。


 だから書名が『246』なのである。
 沢木さんは日記を書かないという。そしてこの本はある年の1月から9月までの中途半端な時期の日々をつづったものである。それを次のように言う。


 単に日記、ダイアリーとだけ言ってしまうとなんとなく落ち着きが悪い。それとは異なるエッセイ風のところもあるからだ。日記風エッセイという意味ならダイアリアル・エッセイだろうし、日付のあるエッセイというならクロノロジカル・エッセイかデイティッド・エッセイとでもなるのだろうが、日本語としてはどれも耳慣れない単語を用いなくてはならない。あるいは、いくらか正確さは欠くにしても、クロニカル・エッセイの方がわかりやすいかもしれない。年代記というほど大袈裟なものではないが、いま読み返してみれば、間違いなく私のささやかな「歴史」は記されている。


 この期間、『深夜特急』、『血の味』、『馬車は走る』の校正をやり、『キャパ』の翻訳を始めている。『深夜特急』の校正、ゲラを見て、「もしかしたら、『深夜特急』はかなりいい本になるかもしれない」と思う。
 校正はかなり苦労しているのがうかがえるが、、それが終わり沢木さんの手を離れ、本になると、自分の本が他人の書いた本以上に無縁なものになるという。


 もし、著者としての喜びがあるとすれば、このようにしてすべてが自分の手を離れ、一冊の本として眼の前に現れてくるまでの、一カ月か二カ月のあいだの期待に満ちた日々にこそ存在するのかもしれない。だが、完成された本が眼の前に出てきた時、それを手に取り、触れ、一度パラパラと頁を操ってしまうと、あとのことは、本の売れ行きも、批評も、遠い世界の出来事になってしまう。少なくとも、私はそうなのだ。文庫本を出すために間違いがないかどうか確かめる、という機会でもないかぎり、まず読み返すことはない。他人の書いた本以上に無縁のものになってしまう。


 そういう意味で、沢木さんにとって無縁になってしまったかもしれないこの本を読んでみると、なるほどな、とか、そうなんだ、と感じることが書かれている。
 沢木さんは一時期、ニュー・ジャーナリズムの旗手と呼ばれていたが、普通言われているジャーナリズムと自らの違いを次のように言う。


 ジャーナリストとは、「いま」という時代に深い爪痕を残すために、永遠を断念する者だという言い方さえできる。しかし、私はやはり、永遠とまでいかないにしても、時間に耐えられるものを書きたいという思いを捨て去ることができない。だが、にもかかわらず、私が雑誌に書き、新聞に書いていることは確かなのだ。つまり、私はジャーナリズムに身を置きながら、常にジャーナリズムからの逃走を試みている者だったのだ。


 あるいはノンフィクションとフィクションの違いはどこになるのか。小説である『血の味』を執筆している時に思ったことが書かれているが、それは興味深い。


 ノンフィクションとは、かつてあったもの、あるいはあると信じられるものを描き出せばいい。対象はこの世のどこかにあるのだ。しかし、フィクションの場合は筆を下ろすまで本質的には何も存在しないのだ。書くことであらしめねばならない。どこにもないものを書くということが、常にあるもの、あったものしか書いてはならないという戒律に縛られてきた私には、恐ろしい行為のように思えてしまう。


 沢木さんは娘さんが生まれたとき、『深夜特急』への旅に出てしまった。そのため知人から「一番可愛い時を見るのを逃した」と言われ、以来、娘さんが寝るときに自ら創作した“お話”をしてあげている。その話や、娘さんとのやりとりが微笑ましい。
 あるいはハードボイルド小説を読んで、主人公に必要な条件を「普通ではあるが平凡ではない。ハードボイルド・ヒーローの感性に必要な条件は、恐らくそれである」と言い切っているのが、確かにそうだな、と思った。
 映画の感想では、「再会の時」という映画を見て、

 かつての日々をなつかしみながら、しかしそこに戻ることはできないということはよくわかっている。友情は、もう何も生みはしないが、何かが生まれるはずだという幻想もない。悲しみは極限まで行かず、喜びも爆発しない。皆が優しくほほ笑み、さようならと言って別れていく・・・・・。

 こんな風にして『再会の時』の主人公たちもひとつひとつ思い出を失っていったのだろう。


 と書くが、私はこの映画は見たことがないが、ただ昔の友人と会うときというのは、確かにこんな感じだな、と思った。
 後は言葉を例の如く拾い出してみた。


 言葉は、踊りの終わったあとでしか必要とされない。


 何かに向かって一直線に突き進んで行っちゃった人たちに対する、独特の尊敬が生じる。


沢木 耕太郎 著 『246』 新潮社(2014/11発売) 新潮文庫
by office_kmoto | 2015-01-11 06:05 | Comments(0)

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