福田 利子 著 『吉原はこんな所でございました―廓の女たちの昭和史』

d0331556_85481.jpg なかなか面白い本であった。著者は三歳のとき、吉原の引出茶屋の養女として松葉屋に入り、以来昭和の戦争の時、終戦から昭和33年2月28日の売春防止法によって吉原が完全に幕が閉じるまでの話を語り継ぐ。その間に芸者や花魁など吉原で働く女たちの話を加え、さらに吉原の歴史も語っていく。
 ちなみに引出茶屋というのは、大見世に向かうお客を迎え、芸者、幇間を呼んでお客をもてなし、その後お客を大見世に送るところである。大見世とはいわゆる遊女がいる貸座敷で、6、7人から3人ぐらいの花魁を抱える。等級として大見世、中見世、小見世とあるらしい。


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 吉原の歴史は、元和元年(1617年)のころ徳川幕府公許に遊郭として誕生したと伝えられている。庄内甚内という茶屋の主が、それまで散らばっていた遊女屋を一か所にまとめて管理することが出来るし、もともと江戸は男が多い土地柄なので遊女屋が必要と考えたらしい。
 最初幕府から与えられた土地は現在の日本橋掘留一丁目あたりの、葭や葦の茂る一面の湿地帯だった。葭の茂る土地なので、“葭原”とよび、縁起をかついで“葭”を“吉”に替え、吉原としたのが、吉原の始まりだという。
 その後振袖火事ともいわれる明暦の大火がおき、江戸市中の大半が焼け、浅草観音の裏地に移転した。それ以前の吉原を“元吉原”、新しい吉原を“新吉原”と呼ぶ。以来この地で昭和33年3月31日の売春防止法施行日前日までの長い間、遊郭の町として、吉原歩きつづけてきた。


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 普通、町造は東西南北の方位従って造られるが、吉原は斜に造られている。これは遊女と寝るとき北枕を嫌うので、どこにも真北に向かった部屋が出来ないようになっているからである。


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 吉原の見世では花魁と無理心中をする迷惑な客もいるので、花魁は客に身体をとられないように、お腰に紐を付けなかったという。お腰は紐で結ばず、布を腰に巻いた後、布の先を胴のところに挟み込むようにしていた。帯も決して結ばず、端を挟み込んでいたという。そうすれば客に帯やお腰を掴まれても、くるくる回りながらほどいて逃げることが出来るかららしい。そういえば写真などで目にする花魁の姿も着物など、ちょっとだらしなく見えるのもそういうことなのか、と思った。

 第二次大戦中の吉原の姿も興味深い。戦争中は、千人針を通行中の女性に頼む姿があったそうだが、吉原には女性がたくさんいたので、よく千人針が回ってきたという。
 従軍慰安婦として戦地へ向かった花魁のことも書かれている。
 昭和20年3月10日の東京大空襲で吉原の町は全滅した。それでも焼け出されて2カ月しか経たない5月には当局から吉原を復興するようにという命令が来る。理由は、「東京の男たちの戦意を昂揚させるためにも、東京の治安を守るためにも、廓は必要だ」というものであった。そして再開したのが8月5日で、15日に終戦。たった10日間だけ営業し、焼け跡の娼館は店を閉め、生え始めたススキにの中にその姿をさらすことになったという。
 しかし終戦後、その焼け跡に娼館はすぐ進駐軍慰安所になった。


 進駐軍が日本本土に上陸するに先だって、日本の政府が用意したのが、進駐軍将兵のための慰安施設だったというのをあとで聞いて、私はびっくりしたものです。“終戦の詔勅”が放送されてまもない8月18日には、内務省から各府県に向けて「進駐軍特殊慰安施設について」という無電が打たれていたというんです。
 戦争中は、兵隊さんを慰問するために女の人たちが集められ、今度は進駐軍将兵を慰めるために、また女の人たちが集められたというわけです。


 敗戦直後吉原も貸座敷組合の幹部が警視庁に呼び出され、役人から東京の治安を守り、一般女性の安全を守るためにどうしたらいいのか相談を受けたという。その結果生まれたのが、「特殊慰安施設協会」(Recreation Amusement Association 略してRAA)の設立だった。
 吉原の女性たちに進駐軍の相手をさせておけば、一般女性には被害が及ばないだろうという考え方であったようで、ひどいものである。事件も数多く起こったようだし、性病も猛烈な勢いで広がったという。そのため立ち入り禁止となった。吉原が進駐軍特殊慰安所となってわずか1年足らずだった。
 昭和21年1月には日本の公娼制度にかかわる一切の法規を廃止するようにとGHQから出されたが、それでも風俗対策として、“特殊飲食店を指定し、風致上さしさわりのない場所に限って集団的にこれを認めるようにする”という方針が警視庁から打ち出される。


 警視庁では“風致上さしさわりのない場所”として吉原をはじめ、新宿、州崎(江東区深川)、などを指定し、そこを地図の上に赤線で囲み、“赤線”という言葉が生まれたのでした。“遊郭”ではなく“赤線”になったわけですね。
 そのとき赤線で囲われた東京の“赤線地区”は、吉原、新宿、州崎、千住のほかに、玉の井、亀有、新小岩、向島(鳩の街)などでした。


 ちなみに赤線に対して青線という言葉がある。これは特殊飲食店の営業許可のままで、非合法に売春行為をさせていた区域で街娼の集まるところをいう。
 こうして吉原は赤線の街として生まれ変わることになった。戦争で焼ける前は公娼の遊郭ということで、国の法律はもちろん、遊郭自体も自らを律するいろいろな取り決めあって、それが吉原の格式にもなっていたが、それが一切取り払われて、吉原も変わらざるを得なくなる。公娼制度廃止以前は見世と女の人との貸借関係だったのが、赤線になると、これが自由契約に変わる。そうなれば女の人がいつまでも店に縛り付けられることもなく、嫌になったらいつでも店を辞めること出来、店も何も言えなくなる。
 それでも吉原や玉の井、州崎など昔からの土地の匂いを身に着けている女性がいる。


 赤線地区の娼婦たちが戦後の作家たちに愛されたのも、あの時代特有の臭いのせいではないかしら、と昭和二十年代の吉原の姿を追いながら、そんなことを思っております。


 荷風もそうだったのだろうか?著者は昔の吉原を思い出して言う。


 こうして昔の吉原を思い出しているうちに、もしかすると吉原は、たてまえで生きなければならなかった男の人たちに、夢を売るところだったのではないかしらと思えて来ました。
 君には忠、親には孝、夫婦相和し、兄弟は仲良く、というふうに教育勅語を地でいく“たてまえ”の生活は昔は求められていましたから、たとえば恋愛にとっぷりつかることは表向きの生活では叶えられず、それを男の人たちは廓の中で買っていたのではないでしょうかしら。
 戦前の遊郭がただ“性”の売り買いだけでなく、それプラス何か、たとえば“情”といったもの、あるいは“恋愛に似たもの”があって、男の人たちその“何か”にひかれて通っていたのではないか、そこが現在の風俗産業とちがうところだと思うのですが、どうでしょうか。


 親たちが吉原が貸座敷から戦後の赤線へと店を続けてきたが、売春防止法の制定などで商売が出来なくなる。そして息子たちの代になると吉原という土地に対しても批判的な気持ちが生まれ、これを機会に吉原を離れていくひとが出てくる。土地は足下を見られ安く買いたたかれ、そこに今のソープランドの街が出来上がっていくことになったという。

 この本を読んでいると、矢田挿雲の『江戸から東京へ』を思い出す。私が吉原という街に興味を持ったのもこの本の影響である。このシリーズ、確か2冊ほど残していて、全巻読んでいないのだけれど、また続けて読みたくなってくる。ただ途中で頓挫しているため、前の巻まで何が書いてあったのが忘れている。幸い読んだ巻まで書き残しているものがあるので、まずそれを読んでみてから、続きを読んでみようと思っている。


福田 利子 著 『吉原はこんな所でございました―廓の女たちの昭和史』 主婦と生活社(1986/03発売)
by office_kmoto | 2015-03-14 08:09 | 本を思う | Comments(0)

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