平成27年3月日録(上旬)

3月1日 日曜日

 雨。

 昨日の疲れが残る。開高健さんのことを一昨日から書いていた。引用したのは山口瞳さんの「男性自身」の古い切り抜きだ。それを読んで開高さんが亡くなった歳が58歳だったと知った。今の私の年齢と同じである。

 58歳で生きている人間もいれば58歳で死んだ人もいる。

 58歳で遺作となった開高さんの『珠玉』を読みたくなり本棚から取り出す。「珠玉」は雑誌「文學界」の新年号に掲載され、単行本は開高さんが亡くなった翌年2月に発行されている。
 私はもちろん「文學界」に掲載されたものも読んでいるし、単行本になった本も読んでいる。
 本が発売となってすぐ読んで、それ以来本棚にしまったままだから、今回25年ぶりに本を箱から取り出したことになる。
 25年もそのままだから、箱入りの本を取り出すのに苦労する。なかなか本が箱から出てこなかった。
 やっとの思いで本を取り出すと、クロス装の表紙が少し浮き上がる。まるで25年ぶりに解放されたという声が聞こえてきそうな感じがした。
 私はこの『珠玉』を2冊持っている。最初に雑誌で読んだとき、この小説は“すごい!”と感動した。もし誰かにこの本を薦めるとき、差し上げることが出来ればと思い、もう1冊手元に置いていたのである。ただ未だにこの本を差し上げる機会はない。そのため1冊は25年前に買ってから一度も本を箱から出していないことになる。


3月2日 月曜日

 はれ。

 NHKの天気予報で「春に三日の晴れなし」という言葉を聞いた。なるほどここのところの天気を見るとまさしくそうだな、と思う。
 今日は晴れたけれど、明日はまた雨だという。そしてまた天気が回復して、土曜日にはまた雨になるという。
 今日は天気が良かったのはいいが、花粉がピークで飛んでいるようだ。私は以前から比べれば花粉症は軽くなったのではないか、とちょっと前に書いたが、さすがに今日はくしゃみは止まらないし、花はむずむずするし、眼は痒いと、三拍子そろい踏みである。昨年は何とかこの時期を乗り越えたのだけれど、今年は用心しないとえらいことになりそうな予感がする。

 開高さんの『珠玉』を読み終える。続いて南木佳士さんのエッセイ『生きのびる からだ』も読み終える。『珠玉』は後で別に書く。
平成27年3月日録(上旬)_d0331556_7582741.jpg 南木佳士さんの『生きのびる からだ』(文藝春秋2009/07発売)で、南木さんが外来担当として検査の結果を患者さんに話しかけるところがある。


 そして、受診者とおなじように老い始めている一人の男として、生きることは投機みたいなもので明日の相場はだれにもわからないけれど、とりあえず病気のリスクだけは減らしましょうよ。どうあがいてみても、機械のごとくには完璧にコントールできない、自然なるからだを持って生きているわたしたちにできるのはそれくらいなのですから、という基本線で話をする。(老眼と白衣)


 この話しぶり、正月に妻が急に胸が痛いと言いだし、慌てて病院に行ったとき、検査の結果で胸の痛みとは関係ないところで問題がみつかった。それは今すぐどうこうと言うわけじゃないけれど、詳しく調べて見る必要がある言われた。その時担当医が似たような言葉を発したのである。つまりあの言い方は「基本線」だったんだな、と思う。ただそれを馬鹿にするというのではなく、むしろこう言われれば確かにそうだな、と思えるのである。
 さて、ここでも「生きのびた」ということがよく書かれている。この「生きのびた」というのは決して自虐的な言いまわしで使われてはいない。「生きのびた」ことの感謝とでも言っていいようなものなのだ。そこには「在るだけの身の世話をされた記憶」がそういう思いにさせる。
 この「在るだけの身」とはどういうことかと言えば、南木さん三歳のとき早く母親に死なれ、以後祖母に育てられたという。その祖母が亡くなったとき思うのである。


 この歳の子にできるのは飯を喰い、遊び、おねしょをするくらいだった。要するに存在するのみだったのだなあ、との思いだけが、ある。
 でも、この存在には生きのびるための、大人よりはるかに鋭敏な意識が備わっていたから、ただ存在するだけの身の世話をしてくれたひとのことは決して忘れないできた。そのひとがのおかげでいまがあるとの意識は、世界観の土台になってきた。
 逆に、のちに世の中に出て、底上げされた価値を身にまとってから急におだてる側に回ったひとたちのことはすぐ忘れる。
 ひとはおそらく、じぶんの存在の世話をしてくれた者を喪ったとき、最も深く悲しむのだ。(浅間山)


 だから、あとがきに書いてあるが、


 ただ、生きのびるためには多くの他者の犠牲を必要とすることだけはたしかなようだ。ああ、生きのびたのだなあ、と感じた直後の覚えるそこはかとないうしろめたさはおそらくそのせいなのだろう。


 結局自分がここまで来れたのも、他者の支えがあったからこそなのだ。その人たちに感謝しても感謝しきれない、ありがたみを感じるからこそ、それがちょっと後ろめたさになって、自虐的にとらわれてしまうだけのことなのだ。でもこうして生きることに謙虚になれば、生き方も変わってくるような気がする。本当に必要なことは何か。
 それまで自分を無理して「底上げして」武装し、生き馬の目を抜くことばかりしてきても、それがどこまで役に立つのか。結局そういう生き方は自分にところに返ってくる。いい意味でそれが返ってくればいいが、たいていは精神的な変調を来すような気がする。
 南木さんがパニック障害となり、うつ病になって、それが徐々に回復する過程を読んでいると、何が大切なのか、わかってくるような気がする。


 やはり普通の真理は本やインターネットの世界にではなく、日々の生活の細部の、そのまた陰に宿っているらしい。(妻の顔)


 医業と小説書きを兼業しつつこの歳までしたたに生きてくると、こういうからだの実感に裏打ちされた言葉にしか現実味は覚えなくなる。(春になった日)



3月3日 火曜日

 くもりのち雨

 朝いつものように雨戸を開けると、鶯の鳴き声がする。まだ気候のせいか、元気がなく、「ホーホケキョ」の最初の「ホー」がはっきり聞こえない。
 昨日から花粉症に悩まされているので、姿は確認できなかったが泣き声が鶯だと確認できたので、さっさと窓をしめた。初音である。
 午後妻が眼の調子がおかしいので、眼科に行ってみると、網膜裂孔だと言われたという。おいおいどうなっているんだ。娘は網膜剥離で、義理の妹も網膜裂孔と言われ手術をしている。先生は遺伝とかないと言っていたらしいが、どうも妻の家系には網膜が弱いところがあるんじゃないか、と思ってしまう。
 幸い妻は初期の段階で網膜に穴が一つ開いているだけなので手術をする必要はないらしい。ただこのまま放っておくと網膜剥離になるので、レーザーで空いている穴をくっつけるという。明日それを行うこととなった。


3月4日 水曜日

 朝方雨のちはれ

 妻の網膜裂孔のレーザー治療はうまくいったようである。あとは経過観察となるそうだ。
 今日はものすごく暖かく東京の最高気温が17.5度だったという。これは4月上旬から中旬の桜の咲くころの気温だという。
平成27年3月日録(上旬)_d0331556_803491.jpg 南木佳士さんの『生きてるかい?』 (文藝春秋 2011/06発売)を読み終える。この人のエッセイを読んでいると、開高さんの影響を強く受けているなあ、と思えてくる。形容詞の使い方、漢字の語彙などチラチラその傾向が見えてくる。まあ、私は開高さんのファンなので、その分南木さんの文章も親しみやすい。それにパソコン上によく見える用語、例えば「上書き」、「基本仕様」、「同期」などの言葉がうまく使われていて、IT難民になりそうだった人ととは思えない。
 いつものように言葉を拾う。


 「わたし」は不特定多数から認証されるのではなく、目の前の、呼びかければ答える「あなた」がいるからかろうじてその存在を実感できるだけのはかないものなのだと明確に自覚できる歳になった。(ぬる燗)


 毎日がいまを生きているだけで、そのいまが絶えず更新され続けているひとの内部で時は流れず、思い出す状況によっていかようにも変容する記憶が意識の表面に浮いているだけだから、おそらくだれもはいつまで経ってもじぶんでは若いつもりなのだ。(世間)


 でも人生とはすなわち過去の出来事の集積であり、過去とはすでに起こってしまって取り返しのつかないことだから、「わたし」はこのようにしか生きられなかった。(辞めどきの春)


 湖畔のベンチに坐り、湖の向こう、低い丘の端に沈む雄大な夕陽をながめていた。速すぎず、遅くもなく、夕陽はゆるやかな呼吸と同期しつつ沈んでいった。(松江の夕陽)


 ところでこの本では先に読んだ「先生のあさがお」のことが書かれている。この短篇が書かれた経緯は以下の通りみたいだ。


 事実の端からおのずと伸び出た言葉を核に捉えた文章しか読むひとの胸に届かない。数多の虚構を書き連ねてきて、そんな確信めいたものがいつ生じたのかわからないが、からだの芯にある。
 だから、あさがおが出てくる小説を書こうと思い立ったとき、当然のごとく種をまいき、あさがおを育てるところから作業は開始された。こう記してしまうと、いかにも小説を書くためにあさがお育てようになってしまうが、このあたりはすこぶる微妙だ。
 たまたまもらった種があったので、あさがおでも育ててみようかとなにげなく思いついた。あさがおを育てる「わたし」を小説に仕立ててみたらどうだろう。
 こんな想いが交じり合って、ある日小説が浮揚する。(あさがお)


 このエッセイを読んでいるとあさがおの成長は小説通りのようだ。ただそのあさがおの種の生まれやその後などここに補足的に書かれている。


 あさがおの種は数年前に亡くなった老医師のもので、生前、それをわけてもらった看護師より譲られたのだった。東京から信州に移り住んだ老医師は、江戸のあさがおをこの寒冷地で咲かせるべく、地道な努力を重ねたのだという。


 昨年、畑から苗を持っていったひとたちの庭でも品のよい花が咲いている。そしてなによりも、この畑の隅に作られた広い畑で、あさがおは自由に蔓を伸ばし、毎朝百を超す見事な花々を咲かせている。


 なんかいい話だと思う。私も昨年に続き今年もあさがおを育てるつもりだ。


3月5日 木曜日

 はれ。花粉症がはひどい。

平成27年3月日録(上旬)_d0331556_821457.jpg 山口瞳さんの『会社の渡世』 (河出書房新社 2005/07発売)を読み終える。この本は第一部が「山口瞳氏の生活と意見」となって、いつものように当時の世相に関して自分の意見を述べる。これといって得るものなし、といった感じだ。ただ「東京、わが偏見」の銀座、日本橋の“偏見”はちょっと面白かったかな。
 山口さんは麻布に生まれ育ったので、「銀座は町内であり、遊ぶところあり、活動写真を見るところであり、食事をしたり買物をしたりするところであった。それより前に、銀座は歩くところあった。銀座は自分たちのものであり、そこで生活し、そこで育ったのである」。
 そのあと山口さんが銀座、日本橋の“偏見”を披露する。


 それからまた、銀座のデパートは安っぽいものだと思っていた。銀座には、優秀な専門店がそろっていた。子供であるが、文房具は、伊東屋か文祥堂か、少し歩いても丸善で買うべきものと考えた。
 日本橋の三越は、お高くとまっていて、よそよそしかった。そこのところが田舎くさいのである。白木屋は大衆的で、がさがさしていた。私にとって、デパートは高島屋なのである。その感じを正確に表現するのはきわめて困難であって、そうだと言ってくださる方が何人かおられるはずだと信じるより仕方がない。高島屋は適度な大きさで、装飾的でなく、大売り出しの感じがなく、落ちついていて買いやすかった。


 まあ、生意気なガキだったんだな、と思うが、それが山口瞳さんの山口さんらしいところだろうと思える。それにデパートは高島屋というのは個人的によくわかるが・・・。

 第二部が「山口瞳氏の一日社員」となっていて、初出誌一覧を見ると、雑誌「オール読物」に1964年に掲載されていたものである。その主旨は以下の通りだ。


 さて、この連載のねらいは、経済成長によって新時代にはいった企業の動きをみることと、そこまでの新しい社員気質と社風、地方都市の風土と企業との結びつき、および私のような今までほとんど旅をしたことのない人間の目によって見たローカル・カラーを盛り込むことだろうと理解している。


 ということで日本水産(今のニッスイですね)から吉田工業(YKK)のその会社の拠点を歩いている。まあもう50年以上前の話なので、「そうなんだ」と軽い感じで読み終える。


3月7日 土曜日

 くもり時々雨。


平成27年3月日録(上旬)_d0331556_83112.jpg 米澤穂信さんの『満願』(新潮社 2014/03発売)を読み終える。「夜警」「死人宿」「石榴」「万灯」「関守」「満願」の6つの短篇集である。本の帯には「このミステリーがすごい!2015年版」、「週刊文春国内部門2014ミステリー10」、「ミステリーが読みたい国内編2015年版」いずれも第一位だという。
 こう書かれると読みたくなるのも心情なのだが、読んでみて「それほどでもなかったな」というのが正直な感想である。
 私は短篇ミステリーというのは性に合わないところがあって、ミステリーの短篇で感動したというのは思い出せない。それに短篇ミステリーによくある“ゾクッとした”感じがあまり好きじゃない。
 この6篇のうちどれか一つをあげろと言われれば、「夜警」が良かったかな。


3月8日 日曜日

 雨時々曇り。

 五木寛之さんの初期のエッセイ『風に吹かれて』を読みおえる。


3月10日 火曜日

 くもり。

 五木寛之さんの『ゴキブリの歌』を読みおえる。


3月11日 水曜日

 はれ。今朝は冷え込み氷点下0.4度だったという。昼は12度まで上がったが、風が強く吹いたので体感温度としては平年並みとは思えず、寒く感じた。

 4年前のあの日も寒かった。あの夜、歩いて帰宅するしかない人々の中で自分もその一人として黙々と歩き続けたが、いくら歩いても身体が温まらなかったことを思い出す。
 ちょうど2時46分、私は区役所にいた。黙祷を促す館内放送があったが、私がいたところでは誰も立ち上がって黙祷する者はいなかった。区役所に用があってみんな来ているのだろう。それなりに忙しいにに違いない。ただその時、それまで動いていた人々の手が止まっていた。私も立ち上げることはしなかったけれど、「黙祷終わり」という合図があるまで、しばらく手を休め、作業を中断する。
 区役所を出て役所の屋上にある国旗と区の旗が半旗になっているのを見て、4年前の今日だったんだな、と改めて思った。


3月12日 木曜日

 はれ。

 会社で同僚であった人と久しぶりに会う。元気そうであった。話しているうちに彼が中間管理職としての立場に苦労されていることを知るが、いつの間にか私は偉そうなことを言っていた。もちろん元気づけるつもりで言っていたのだが、よくよく考えてみればそんな偉そうなことを言える立場かよ、とあとで落ち込んでいく。
 でも、昔と同じように彼が一所懸命頑張っていることがうれしいかったし、それにうらやましかった。
 11時頃帰宅。その彼からお礼のメールが届く。本当に優しい人だし、気づかいしてくれる人だ。こういう人との付き合いを大切にしたい。


3月13日 金曜日

 はれ。

 出かけるとき、妻が「○○さんから痩せたって言われなかった」と私を見て言う。○○さんとは昨日会った元同僚である。
 そういえば言われたと言うと、なんて答えたのと聞かれる。「別に変わってないけれど」と言ったはずだ。
 それを聞いた妻は、体重が変わっていない人間が「痩せた」と聞かれるのに、実際に痩せたにもかかわらず、誰も「痩せた?」と聞いてくれないと嘆く。
 確かに痩せたのかもしれないが、何せ分母が大きいので、痩せた風に見えないところがある。もちろんそんなことは口に出して言えないが・・・・。
 沈黙を守り、そのまま車に乗る。この前眼鏡市場で作った妻のめがねの微調整をしてもらい、そのままイオンで買い物をする。ホワイトデーのお返しに、コージーコーナーでシフォンケーキを買う。生クリームの多さにあとで胸やけを起こす。

 今日はこれ以外に出かけず、一日かけて、昨日まで読んできた本のことをまとめて書きとめた。やっと追いついた感じだ。
 この頃本を読む方が圧倒的に楽しく、こうして文章を書くのがわずらわしくなってきた。
 でも、読んだ本のことは何らか書き残したいという気持ちは、その本に対する礼儀みたいに思えるので、ない頭を使ってあれこれ考えつつ書いていく。
 その結果、今日一日を使ってしまったが、まあ、こういう一日の使い方もありか、と思う。


3月14日 土曜日

 はれ。

 我が家で百日紅のほかにもう一本秋に葉を落とす木がある。例によってその木の名前は知らない。
 その木が新芽を出し始めている。そろそろ肥料をあげなければいけないと思い、その木の根元に油かすを与える。さつきも同様に肥料を与えた。いずれの木も根元の土が少なくなってきていて、与えた肥料の上から新しい土をかぶせて盛った。
 名前の知らない木は、昨年数個の花を咲かせた。その前までは管理もちゃんとしていなかったから、花は咲かなかったので、数個で花を咲かせてくれただけでうれしかったが、今年はどうだろうか?
 新芽を見ながら今年は昨年より少しでも多くの花を咲かせてくれればいいのだが、と思う。


3月15日 日曜日

 くもり。

 南木佳士さんの『天地有情』を読み終える。  
by office_kmoto | 2015-03-16 08:05 | Comments(0)

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