南木 佳士 著 『からだのままに』

南木 佳士 著 『からだのままに』 _d0331556_18282493.jpg この本はエッセイ集である。
 いくつか言葉を拾って、感じたことを書いてみる。


 心身ともリラックスすること。
 テーマはこれだった。五十歳を過ぎてまで自分を含めただれかと競うことなどまっぴらごめんだから、リラックスの境地を得るための正しいからだの使い方を覚えたかった。(滝の音)


 これ今の私が思っていることでもある。この歳になって誰かと競うなんて、本当にまっぴらごめんだ。もういいだろう、と思っている。


 生活ののかに濃密に浅間山の息づかいが浸透している、そういう村で生まれ育った。だから、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、作家になってからも人と自然が切り離された状況を描くことが不得意であり、都市のみを舞台にした小説は幾度試みても書きすすめられなくなる。駅前の雑踏に漂う匂いを表す形容詞一つでも、作者が現実感を覚えずに用いたとき、作品はそこから破綻する(浅間山麓で書く)


 人は時とともに変容する。それも、無責任なまでに。
 こういう実感を得ると、言葉に置き換えたくなる。すくなくともわたしにとって、書くという行為は、からだを通して得た実感を他者に伝えようと試みる作業にほかならないのだから。(風邪の実感)


 生きることを見てとるためには、とりあえずただ生きることが必要だったのだ。(病んで出合った(流れとよどみ)


 これだけで南木さんの文章がどういう形で書かれているかわかる。そして南木さんが人と自然を切り離した人工的な都市を描かないことにこそ、私は惹かれている。さらにからだを通して得た実感を言葉にして表していることに魅力を感じている。だから南木さんの小説は私小説という形を取らざるを得ないのだろうが、それはそれでいい。少なくとも南木佳士という作家の体で濾過された言葉が、むしろ現実感を感じさせてくれると思っている。
 ところで、南木佳士とはペンネームだと初めて知った。ペンネーム由来は以下の文章で語っていた。


 北側の故郷から近世の災厄の元凶として、永く住む南側からは太古の、想像の域をはるかに超えた巨大噴火の自然遺産として見えてしまう浅間山は、山麓で、火山の脅威におろおろしながらも懸命に生きた祖先たちの姿を想い起こさせる。その子孫である、祖母のような地に足の着いた暮らしを営む人たちの生き様を描く作家になりたかったからペンネームを「南木」とした。南木山とは嬬恋村の浅間山麓一帯を指す地元の人たちの呼び名だ。(浅間山麓で書く)


南木 佳士 著 『からだのままに』 文藝春秋(2007/02発売)
by office_kmoto | 2015-05-13 18:29 | Comments(0)

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