沢木 耕太郎著 『テロルの決算』

d0331556_6171987.jpg 腹のバンドに差している日本刀を抜いたのはどの辺か記憶はありませんが、テレビカメラの所を一メートルぐらい走り抜けた時には刀を抜き、右手で柄を握り、左手の親指を下にして掌で柄の頭を押さえ、腹の前に刀を水平に構え、浅沼に向かって夢中になって突進しました。







 このときの写真がこれである。


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 昭和35年10月12日、日比谷公会堂の演壇に立った浅沼稲次郞は山口二矢に刺殺された。いわゆる「浅沼稲次郎暗殺事件」を扱ったのがこの本であるが、ただ時系列に事件を描写したものではない。どこで浅沼稲次郞と山口二矢がクロスしたのか。それを山口二矢が何故右翼に走り、浅沼が左翼である社会主義に身を任せた過程を語り、そして山口二矢が浅沼を刺殺するまでに至った浅沼の第二回訪中の際にはなった「米帝国主義は日中人民共同の敵」という発言が何故行われたのかをたどる。
 まずは山口二矢である。二矢が右翼に向かったのは、兄の朔生の影響による。二矢と朔生は歳が近いこともあってよく喧嘩をしていた。二矢にとって朔生は「圧制者」であった。しかし朔生は単に喧嘩の度に泣かされる圧制者ではなかった。朔生は軍隊への強い関心があって、少年時代にすでに右翼的な思考方法をとるようになっており、それが二矢にも浸透していった。
 父親の仕事の関係で転校を繰り返しているうちに、孤独の中、二矢は「強いもの、流行するもの」に対する反発心が強くなっていく。彼にとって左翼こそ強者であり、流行に便乗していると映っていく。ちょうど時代は戦争が終わり、昭和30年代前半という、日本全体が一種の「政治の季節」の到来に浮き足立っており、思想的に右翼とか左翼とかを問題にする時期であった。この後安保闘争の時代に入っていく。またそんなとき父親が自衛隊に勤めているという負い目が屈折した鋭さを二矢に生んでいく。二矢の高校の時のあだ名は「右翼野郎」であった。


 二矢には朧気ながら敵が見えはじめていた。あとは明確にその敵を名ざししてくれる誰かがいればよかった。二矢は無意識のうちに指導者を欲するようになる。それは彼の「反共」に意味を付与してくれる人物でなくてはならなかった。


 そんなとき二矢は赤尾敏に出会うのである。二矢が初めて赤尾の街頭演説聞いて震えを覚え、その二日後愛国党の本部を訪ねている。以来二矢は愛国党の本部で過ごすことになる。赤尾の街頭演説に立ち会い、ヤジを飛ばすものがあれば、二矢は相手に殴りかかっていく。何度も警察に検挙された。
 時代は安保闘争に入っていた。安保反対に集結する群衆の前では、二矢たちの右翼は一握りの砂でしかなかった。国は安保反対に揺れていた。この大波を食い止めるには、自分のような金も組織もない人間にとって、残された方法は一つしかない。


 彼はしだいに愛国党を離党し、武器を手に入れ、左翼の指導者をテロルによって倒そうと考えるようになっていった。


 しかし誰を倒せばいいのか。二矢は六人の政治家をリストアップするが、その中に浅沼稲次郞の名があった。浅沼は社会党右派として、またその人柄によって右翼からも親近感を持たれていたが、二矢がリストアップした政治家の名前に浅沼の名があげるのは浅沼の第二回訪中の際に発言にあった。


 「米帝国主義は日中の人民共同の敵」


 これが「中共に媚びる売国奴!」と映り、右翼の怒りを買ったのである。では浅沼なぜこのような発言をしたのか?これから先は浅沼の生い立ちと、思想的遍歴を語っていく。
 浅沼稲次郞は明治31年12月27日三宅島三宅村神着で生まれた。彼は庶子であった。浅沼が学生運動から無産運動に突き進み、やがて社会主義の未来を信じる運動家になっていくプロセスは、ほとんど明らかにされていない。
 大正6年のロシア革命の成功と第一次世界大戦後日本の資本主義は大量の労働者生み出し、結果労働運動を激化させることとなる。社会的混乱は都市部だけでなく農村にも広がり、政治的関心を持った若者たちに当然影響を与えていく。浅沼はそうした時代にいた。浅沼が社会主義運動に、政治に活動していく過程は複雑なので、Wikipediaから抜粋と沢木さんのこの本の内容を追加してみる。

 浅沼の父は稲次郎に医者になるよう勧めたが、反対を押し切り、大正7年(1918)に早稲田大学予科に入学する。早稲田では雄弁会と相撲部に在籍した。
 その後社会主義運動に飛び込み、建設者同盟の結成に加わる。同志たちと全国の小作争議や労働争議を応援する日々を過ごした。
 大正12年(1923)に早稲田大学政治経済学部を卒業した後も、社会主義運動を続け、大正14年(1925)には日本で最初の単一無産政党である農民労働党の書記長に27歳の若さで推された。しかし、この党は結党わずか3時間で政府の命令で解散させられた。
 昭和元年(1926)単一無産政党として、労働農民党が結成されるが、まもなく社会民衆党(右派)・日本労農党(中間派)・労働農民党(左派)の三派に分裂した。浅沼は日本労農党に参加した。昭和7年(1932)分裂する無産政党を糾合して、社会大衆党が結成されると、浅沼もこれに加わったが、このとき、浅沼は書記長の麻生久の人柄に心酔し、麻生が軍部との協力によって社会主義革命を目指そうという国家社会主義的な路線を打ち出すと、これを支持した。以後、浅沼は軍部による戦争政策の支持者となる。左派の浅沼たちが軍部を支持したのである。浅沼は次のように意見を述べる。


 《現存せる政党政派の離合集散であっては何等の意義がないと思います。之等既成政党の解消が前提である。国家組織の再編成を行い之を通じて国民指導の任に当り、職分奉公の精神に基く大政翼賛の政治を顕現するため、真に挙国的にして革新的なる政党たらねばならぬ。
 内外の時局は新たなる政治の結成-新政治体制の確立を要求して居ります。之なくしては全国力を統合的に発揮する国防国家建設は困難である》


 沢木さんはこれを次のように言う。


 ここにはかつての社会主義者の姿はない。庶民的な政治家、すら存在しない。見えてくるのは庶民そのもの(つまり国民が戦争を支持していた)、大衆そのものとして事変に身を処している、ひとりの気弱な男の貌だけである。
 麻生の「上からの革命」論は、近衛を「シャッポ」いただいた新党に合流すべく、社会大衆党をして他の政党に先がけて解党させることになる。

 昭和8年(1933)東京市会議員に、昭和11年(1936)には衆議院議員選挙に初当選する。
 昭和15年(1940)に社会大衆党に解党。同年麻生が亡くなる。浅沼は心のよりどころを失い、精神の変調をきたすようになる。沢木さんは浅沼の「発狂」を次のように推理する。


 (麻生の死が)彼らの中で最も深刻な衝撃を受け、永く立ち直れなかったのは浅沼である。麻生というともづなを放たれ、不意に精神的な自由な海に放たれた浅沼は、その不安に激しく混乱してしまう。今度はあらゆるものの責任をひとりで取りながら、戦時という異常な時代に身を処していかなければならなかったからだ。と同時に、今まで麻生が引き受けてくれていた、さまざまな行動の責任が、一挙に彼の肩にかかってきた。浅沼の精神的な混乱は深まった。
 しかし浅沼には、もはや麻生の敷いたレールの上を走るより他に方法がなかった。翼賛議員同盟理事になり、大政翼賛会の選挙制度調査部副部長、東京支部常務委員などの役職についていく。日比谷公園で排英市民大会を主催し、首相官邸に押しかけていったともいわれる。
 このような「愛国」的行動を続けているうちに、彼の精神が音を立ててきしみはじめる。
 庶民そのものとして、時流に身を委ねているうちに、現実は彼の理解を超えて凄まじいスピードで進んでしまった。だが、それにしても、このような社会を招来するために、自分たちは青年時代から苦労して無産運動をやってきたのだろうか。麻生の呪縛から解き放たれ、我にかえった時、このような疑問が芽生えたとしても不思議ではない。もし、そうだとしたら、自分たちは何のために軍閥と闘い、リンチに耐え、検束をはねのけてやってきたのだろう・・・・。


 昭和17年(1942)の総選挙(いわゆる翼賛選挙)での立候補を辞退したが、これによって浅沼は戦後、公職追放を免れることとなる。
 昭和20年(1945)日本社会党の結成に際し、組織部長に就任した。中間派の指導者であった河上丈太郎・三輪寿壮らが公職から追放されたため、自然と浅沼が中間派の中心人物となった。


 結党大会で司会をつとめた浅沼は開会の挨拶で国体擁護を主張し、最後に加賀豊彦が天皇陛下万歳の音頭を取ったいう。出席していた荒畑寒村は唖然としたという。

 昭和22年(1947)書記長だった西尾末広が片山哲内閣に入閣すると、浅沼は書記長代理となり、翌年には正式に書記長となった(国会内では初代衆議院議院運営委員長)。
 昭和24年(1949)第24回衆議院議員総選挙で委員長の片山哲が落選し、一時的に委員長が空白となったため、国会の首班指名では、社会党は浅沼首班で投票した(実際に指名されたのは吉田茂)。一時、書記長を離れるが、昭和25年(1950)に書記長に復帰した。
 昭和26年(1951)サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約ともに反対の左派とともに賛成の右派が対立すると、浅沼は講和条約賛成・安保条約反対の折衷案で、党内の対立をまとめようとするが、左右分裂を食い止めることができなかった。その後、右派社会党書記長となった浅沼は寝る間を惜しんで全国の同志たちの応援に駆け回り、そのバイタリティから「人間機関車」の異名がつけられた。
 昭和30年(1955)社会党再統一が実現すると、書記長に就任する。書記長という役職柄、党内で対立があると、調整役にまわって「まあまあ」とお互いをなだめる役割に徹したことから、「まあまあ居士」などとも呼ばれた。また、長年にわたって書記長を務めてきた実績と、長年書記長を務めていながらトップである委員長のポストが巡ってこない境遇をかけて「万年書記長」とも呼ばれた。
 そして昭和34年(1959)の訪中となる。浅沼にとって中国訪問はこれで二回目となる。最初の訪中の時は、毛沢東や周恩来など歓迎を受けたが、今回の訪中は中国側は冷ややかだった。そこで起死回生講演が演出されたのである。これによって浅沼は一朝にして中国における最も人気のある日本人となった。その演説の全段階で浅沼は次のように言う。


 「台湾は中国の一部であり、沖縄は日本の一部であります。それにもかかわらずそれぞれ本土から分離されているのはアメリカ帝国主義のためであります。アメリカ帝国主義についておたがい共同の敵とみなして闘わなければならないと思います」


 これが国内外に大きな波紋を広げただけでなく、山口二矢が浅沼を狙う理由となった。しかもこの発言が大きな問題となっても、浅沼はかたくなに訂正も修正もしなかった。帰国時に飛行機のタラップを中国の工人帽着用で降りてくるというパフォーマンスとあいまって、右翼のみならず党内からも強い批判があがった。
 この「米帝国主義は日中の人民共同の敵」に浅沼はなぜこだわったのか?それを沢木さんは次のように言う。


 浅沼には社会主義者として中国に対する大きな負い目があった。彼の属した日労系グループが、満州事変には反対していながら支那事変となるに至り双手を挙げて賛成するようになってしまったというばかりでなく、彼自身も中国侵略を「聖戦」とみなし「支那事変は日本民族が飛躍するためのひとつの仕事」と述べたことすらあったからだ。
 初めて中国を訪れた時、浅沼はこう挨拶した。
 「私たちは、かつて日本に民主主義、平和主義、そして社会主義の勢力がきわめて弱かったために、あの恐るべき戦争を、未然に阻止することができず、貴国の皆さんに筆舌に尽くしえない惨禍をもたらしたことに対して、社会主義者として力の足らざりことを深く反省しているものであります」
 公式発言のためにその内面まで曝け出されていないが、彼の心の奥に沈殿する罪の意識だけはうっすらと滲み出ている。

 中国への「贖罪」の意識が発言を支えた。中国への「感動」がさらにそれを強力に支えた。帰国した浅沼は、妹の夫である能美正彦に「中国には人間がいたよ・・・・」と呟いた。
 浅沼の眼には、建国の意気に燃えた六億八千万の民の姿が、強烈に映った。とりわけ彼らと共に同じ道を歩むことのできる指導者たちの幸せが羨しかった。
 かつて戦前のある時期、彼にも大衆の中で大衆と共に闘えばよいという日々を迎えたことがあった。それは単純で、明快で、だから至福の日々だった。


 浅沼は中国の空気に触れて久しぶりに昂揚した気分を味わうことが出来たのである。


 昭和35年(1960)西尾末広らが社会党を離党して、民主社会党(民社党)を結成すると、鈴木茂三郎委員長は辞任し、浅沼が後任の委員長に選ばれた。浅沼は安保闘争を自ら戦いの前面にたって戦い、岸信介内閣を総辞職に追い込むが、安保条約の廃案を勝ち取ることはできなかった。
 そして同年10月12日日比谷公会堂で開催された自民・社会・民社3党首立会演説会に参加した浅沼は、17歳の右翼少年・山口二矢に腹部を刺され、波乱の生涯を終えた。

 二矢の犯行には誰か二矢に使嗾(しそう‐指図してそそのかすこと。けしかけること)した者がいたのではないかと思われた。一番疑われたのが赤尾敏であるが、赤尾の率いる愛国党は単に宣伝ビラを撒いただけのことで(それで警備に隙が出来、二矢が壇上に登れた)、この事件は二矢単独の凶行であった。
 二矢は警察の取り調べで次のように言う。


 「このたび浅沼委員長を刺殺したことはまったく自分ひとりの信念で決行したことで他人からいわれたり、あるいは相談したことは絶対にありません」

 「浅沼委員長を倒すことは日本のため、国民のためになることであると堅く信じ殺害したのでありますから、やった行為については法に触れることではありますが私としてはこれ以外に方法がないと思い決行し、成功したのでありますから、今何も悔いる処はありません。しかし現在浅沼委員長はもはや故人となった人ですから、生前の罪悪を追及する考えは毛頭なく唯故人の冥福を祈る気持であります。また浅沼委員長の家族に対しては経済的生活は安定しているであろうが、いかなる父、夫であっても情愛にかわりはなく、殺害されたことによって悲しい想いで生活し、迷惑をかけたことは事実でありますので、心から家族の方に申し訳ないと思っています」


 これは17歳の少年が言える言葉であろうか、と思った。それにしても、と思うが、これ以上言えば別の話になってしまうのでやめる。
 山口二矢は11月2日に練馬の少年鑑別所に移された。午後八時の点呼で部屋の中で天井からぶら下がっているのが発見された。シーツを細長く裂き、それを80センチほどの紐にして天井の裸電球を包む金網にかけて首吊り自殺した。遺書はなかったが、コンクリート壁に翌朝使うために支給された粉歯磨きを水に溶き、人差し指を筆にして、

《七生報国
 天皇陛下万才》

 と書いた。
 私は沢木さんが書いた山口二矢を知りたくて、この本を読んだつもりだったが、読み終えた後、二矢より浅沼稲次郞の人生の方に気持が移ってしまっていた。


沢木 耕太郎著 『テロルの決算』 文藝春秋 (2008/11/10 出版)文春文庫
by office_kmoto | 2015-05-20 06:20 | 本を思う | Comments(0)

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