佐伯 一麦 著 『麦主義者の小説論』
2015年 07月 05日
昔は私小説というのを、なんか個人的事情の曝露みたいなものと感じていて、どろどろしていて嫌だな、と思っていた。だからからりとした物語を感じさせてくれる、あるいは楽しませてくれる作品が気に入っていた。
しかしよく考えてみると、どんな作品でも作家の日常を反映しない作品はあり得ない。どんな作品も私小説要素を免れぬことは出来ないのではないか。
小説作品には、いかに異なる域へ押しあげようと、日常の下地が透けてのぞく。これはひとまず作中の日常のことであるが、作者の日頃の、日常感にもつながる。(略)そればかりか、日常より拠んどころなく懸け離れようとすればするほど、日常への無際限な依存が露呈してくる。(古井由吉氏との交点-『招魂としての表現』)
もう一文。
いまの私にとっては、書けば書くほど私小説の背理に搦め捕られてしまい、自分で自分を認識するいとなみである私小説というものがわからなくなっていくばかりである。(私小説の背理)
この二つの文章を読んでいると、南木さんが医師と作家の二足のわらじをはいたあとしばらくして、パニック障害、うつ病になってしまったことを思い出す。
医師が多くの他者の死を見続けてしまう職業であり、そんな職業についている自分を凝視して小説を書く。それがとんでもないことであり、パニック障害やうつ病になってしまった原因として書いていた。
この佐伯さんの二つの文章を読んでいると、なるほど、と思える。私小説としてもう一人の自分を書いていくと、佐伯さんの言う通り、「私小説の背理に搦め捕られてしまい」、そしてそんな小説を書くこと自体が「作者の日頃の、日常感」にもなってしまう。こうなってくると、際限がなくなってくる。区切りがはっきりしなくなってくる。そこで精神的「自家中毒」を起こしてしまう。
少なくとも私にとって、私小説とは、事実の穿鑿よりも、読む度ごとに、その都度その都度更新され、一回限りの相貌を帯びて蘇ってくる文学の謂である。肯定も否定も、そもそも不可能と思われるような己の出自、お里を突きつけるものとして、あるいは、親、そのまた親たちの流動や営為の結果として、己が今この世にあることの不思議さと、それゆえのある充実した感じとしかいいようのないものとして。(私小説という概念-和田芳恵と『暗い流れ』)
「更新」、この言葉も南木さんよく使っている。思えば「更新」されることで、物語が違う形で生まれてくるのかもしれない。
作家が小説を書くことは、そこに書かざるを得ない理由があって、小説が生まれるのだから、これは大変なこととなる。ある意味、小説は作家にとって“魔物”なのかもしれない。覚悟が必要となる。
先ほど書いたように、昔は私小説を敬遠してきたところが私にはあったが、最近はそうでもない。佐伯さんや南木さんの作品を読んでみると、一気に虜となった。こういう私小説は味わいがあっていいものだと思うようになった。たぶん自分も歳を取ってきて、人生の機微に多少同感できるところが出来てきたのではないか、と勝手に思っている。 もしかしたら私小説というのは、ある程度歳を取らないと本当の意味で味わうことができないのかもしれない、と思ったりする。そう考えれば、本を読む楽しみの幅が広がったことにもなる。これからはこうした小説も読んでいきたい。
佐伯 一麦 著 『麦主義者の小説論』 岩波書店(2015/02発売)