丘沢 静也 著 『マンネリズムのすすめ』 と南木 佳士 著 『山行記』

d0331556_17494389.jpg 丘沢さんの本はいわゆる生きた論を書いたものではない。書名からするとそう思えてしまうところがあるが、要は丘沢さんのエッセイ集である。
 この本のキーワードは「フィット」である。自分が心地よく生きるためには、背伸びせず、身の丈に合った生き方、すなわち、何が自分にフィットした生き方であるかを模索している。


 ひょんなことから、からだの喜びに目覚めた。それまで碌に運動らしい運動をしていなかったのだが、ほぼ毎日のように、近所を三〇分走り、プールで一時間過ごすようになったのである。

 十年一日のごとく、私はひとりで、だらだらと走り、カメのように泳いできた。「より高く、より速く、より強く」などと思わず、記録や勝敗とはまったく無関係。自分のからだに耳をすまして、絶対に無理はしない。加齢とともに運動量こそ減ったものの、同じことを惰性のようにくり返していて、飽きない。気持ちがいい。
 気持ちのいいことは、もう一度やりたいと思う。マンネリズムの快楽。私はマンネリズムの取り柄に気がついた。(バッハなぜ偉いのか)


 がんばらないことが、教養なのだ。限界ぎりぎりまで歯をくいしばるのではなく、自分のからだに耳をすましながら、身のほどをわきまえて、からだを動かす。すると、自分は、世界のなかで呼吸しているのだと感じることができる。世界に対立するわけでもなく、世界のなかに溶けてしまうわけでもない。そういう感覚を毎日味わっていると、心身ともにリラックスしてくる。
 そうすれば、しめたものだ。勝負や競争やギネスブックが馬鹿ばかしくなる。競争社会の競争原理が、人間らしい暮らしにとっては、特殊なものだとわかる。からだの教養という視点からながめれば、この国の学校や社会の異常さが、ますますはっきりと浮かびあがってくる。
 心身ともに無理や競争をしない。このフィットネスのスタイルは、スポーツだけではなく、いろいろな場面で必要ではないか。個人の幸せや社会の豊かさの、たいせつな条件ではないか。怠け者の私は、からだの教養に目覚めてから、以前にもまして、そう思うようになった。(どのようにして私はマンネリズムに目覚めたか)


 こういう話は、社会からドロップアップして、自分の好きなことをしている今の私には心地よい。生き方として、確かにからだに無理がないことは心地よい、と思う。

 ここで言うからだの教養とは頑張らないことを言う。頑張らず力を抜いているときのからだの動きが、からだにとって最高のほめ言葉なのである。
 もともと教養なんて、アダムとイブが知恵の実を食べて、自分たちが裸であることに気がつき陰部を隠したことから始まった。以来、人は他者を気にするようになったと丘沢さんは言う。


 人目を気にすること、無垢でないことを引き受けることから、教養がはじまる。教養とは、自分が中途半端であることをわきまえ、中途半端から落ちこぼれないための、さじ加減のテクニックなのである。だから俗物には教養が必要となる。(なぜ俗物には、からだの教養が必要なのか)


 そのさじ加減がいつまで経っても適当なところが見えず、理想の形がどんどん大きくなって行けば行くほどく切りがなくなってしまっている。このため人は疲れていく。


 (だから)善良な小市民の私としては、自分や理想に目覚めすぎないためにも、からだの教養の俗物でありたい。陶酔や感動を求めるような下品なことはひかえ、無理はせず、中途半端を楽しむ。「筋肉の力を抜いて、意志の馬具をはずし」からだの声を聞きながら、微妙なさじ加減で、小さな快感を味わうのである。(なぜ俗物には、からだの教養が必要なのか)


 ここまで読んでいくと、南木佳士さんが丘沢さんのこの本を読んで影響を受けたと言うのもわかってくる。
d0331556_17503429.jpg ちょうど今読んだ南木さんの『山行記』を読んでいると、その影響があちこちで読み取ることが出来きる。
 南木さんが山登りを始めたのは、パニック障害からうつ病と長いこと悩まされ続けて、そこからの解放に一歩踏み出す形で山登りを始めた、と書いている。それまで自分が生まれた場所が浅間山の麓にありながら、浅間山近辺の山を登ったことがなかったと気がついたのであった。
 『山行記』はそんな南木さんの山登りの記録なのだが、山登りに一所懸命からだを動かしていると、それまであった傲慢な意識が初期化され、脳がからだの動きで得た新しい情報を取り込むことで精一杯になり、余計なことを考えずに済むことを自覚できたと書いている。


 心身の病いはそれまでの生活習慣の習性をうながす、からだからの、つまり内なる自然からの重大なメッセージであると痛感させられた。身の周辺のすべての事象はじぶんでコントロールできると思いあがった脳がいったん強制的に初期化された感じで、病んでいた期間の記憶はほとんどない。ゆえに、まっさらになった脳は五感のセンサーから入力される情報を素直に出力に変換してからだの各部に指令を送るという、原初の働きにもどって活動を再開せざるをえなかったのだ。


 それは、ほうっておくと勝手に不安を醸成する過剰な自意識をもてあました結果、からださえ動かしていれば脳は刻々と入力される情報を出力に換えるのに精一杯で、とりあえず死や病いについて考えずにすむことに気がついた。


 この時「わたし」は「からだ」そのものになっていることに気づいていく。

 丘沢さんの本に戻れば、各所でなるほどと思えることが書かれている。まずは今の日本におけるスポーツの有り様を次のように言うのだが、なるほどと思う。


 この国の体育・スポーツ界のボスや指導者のほとんどは、競技スポーツ出身者である。自分が経験した競技スポーツの特殊性やイデオロギーを、彼らが検討し反省して、修正する気配がない。いまだに、メダル獲得数をスポーツ振興と勘違いしている馬鹿もいる。「より速く、より高く」のためには、たいていのことが犠牲にできると思っている。
 そしてマスコミは、競技スポーツの思想やフォーマットをゆさぶることをせず、逆に、「ドラマ」や「感動」や「ひたむき」とか、「結果をだす」や「仕事をする」などの下品なボキャブラリーで、見世物の競技スポーツをもちあげる。
 こうして不幸なことに、世間では、すべてのスポーツが、競技スポーツを語る言葉で、ながめられるようになる。(どのようにして私はマンネリズムに目覚めたか)


 まだ他にもある。


 テキスト至上主義からちょっと距離をとれば、個性とかオリジナリティは些細なことに思えてくる。森のなかででは、村人たちが歩いているうちに、踏みしめられて自然に小道ができる。用を足すために、あまり遠回りならないルートで、大きな木があるところや、枝が張り出したり、地面に根の背中が露出しているところは迂回し、草に足を取られない歩きやすいところ、くり返し歩いているうちに、自然に道ができる。最初に誰が歩いたのか、道の曲がり方が独特のものであるか、など問題にならない。(森の小道に著作権はない)


 エージングはマンネリズムの別名である。すべてが新しい変化を求めるわけではない。おさまるべきところにおさまろうとするものも、けっこう多い。(エージング-年をとる?)


(プロも顔負けするほどの力量を持ったシロウトが多くなってきたが)これは、なんでもお金に換算してしまう世の中にたいする、皮肉な現象だ。仕事の論理は、どうやら現代では、お金や効率の論理という意味になりさがってしまった。だがシロウトは、お金の論理にも組織の論理にも縛られたりしない。根回しや人脈や会議や接待などのエネルギーをすりへらされたり、判断力や感度をにぶらされる心配もない。だからシロウトは、強い。シロウトは、すごい。(シロウトのすすめ)


 最後にもう一つ。


 この国では、キリスト教徒ではないのに、教会では結婚式をあげる人が多い。キリスト教が世界各地に浸透していった理由は、その教義の力というより、キリスト教徒である西洋人の生活や文化に、豊かで魅力的な雰囲気があったからかもしれない。洋風の暮らしは、キリスト教より普及している。(懐かしい未来の記憶)


 小難しい教義より、単に西洋に対する憧れからキリスト教が広まった、というこの考え方はちょっと目から鱗であった。確かに頭で理解するより目に見えるものに直接魅力を感じるというのは、どこかしっくりくるところがある。こう言われると、案外これが真理なのかもしれないな、と思えてくる。


丘沢 静也 著 『マンネリズムのすすめ』 平凡社(1999/06発売) 平凡社新書

南木 佳士 著 『山行記』 山と渓谷社(2011/04発売)
by office_kmoto | 2015-08-28 17:52 | 本を思う | Comments(0)

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