村上 春樹 著 『職業としての小説家』

d0331556_5373483.jpg この本のあとがきに次のようにある。


 本書は結果的に「自伝的エッセイ」という扱いを受けることになりそうだが、もともとそうなることを意識して書いたわけではない。僕としては、自分が小説家としてどのような道を、どのような思いをもってこれまで歩んできたかを、できるだけ具象的に、実際的に書き留めておきたいと思っただけだ。


 ということでこの本は村上春樹という小説家が、小説家とはどんな人物で、どのように小説を書いてきたか。そして小説家として世間の評価をどう考えてきたかを書いている。
 第一回の「小説家は寛容な人種なのか」では、村上さんが小説家というのはどういう種類の人間なのかを村上さん流に定義する。そこには「小説家は円満な人格と公正な視野を持ち合わせているとは言いがたい人々」で、「そしてたいていの作家は『自分がやっていること、書いているものがいちばん正しい。特別な例外をは別として、外の作家は多かれ少なかれみな間違っている』と考え、そのような考えに従って日々の生活を送っている。だから友人や隣人として持ちたいと望む人は少ないのではないか、と言っている。
 しかし小説家という職業領域における排他性に関しては、小説家ほど広い心を持ち、寛容さを発揮する人種はいないと言っている。
 普通専門外の人間が手を出してくると、その分野の人々から良い顔をされない。素人が何をやろうとしているんだ、と非難され排除される。しかし小説家は専門外の人間が小説を書いても鷹揚であり、寛容だ。小説は才能の有無は確かに左右するけれど、書こうと思えば訓練しなくても、誰でも書くことが出来る。事実村上さんがある日、ヤクルトの野球の試合を見ていて、小説を書いてみようと思い書き始めた。そしてそれが文芸誌の新人賞を取ってしまったほどなのだからと言う。
 だからといって文学を軽く扱っているわけではない。ここ言うのはそれだけ小説は間口のとても広い表現形態であり、小説の持つ素朴で偉大なエネルギーの源泉の一部となっていることを言っているのである。
 ただ小説家として長く留まり続けるのは簡単ではない。何か特別なもの、例えば才能や気概、運や巡り合わせも必要になる。小説家として留まり続けるにはそれを含めたある種の「資格」が求められる。

 小説家はあまり頭の切れる人には向かない。なぜなら小説家は自分の意識の中にあるものを「物語」という形に置き換えて表現する。しかし頭の切れる人なら、わざわざ物語に置き換えなくてもストレートに言語化して話した方が遙かに早いし一般にも理解されやすい。知識の豊富な人であれば、わざわざ物語というファジーな「容れ物」を持ち出さずに、手持ちの知識をうまく組み合わせて言語化すればいい。それくらい小説は手間のかかる回りくどい作業なのだ。だから異業種から来た頭のいい人や知識のある人が小説を書いて「これならほかのことをやった方が効率がいいじゃないか」と言って去って行く。こういう人は長期間にわたって小説を書き続ける必要性を感じない。それを小説家は知っているから、異業種から小説に参加しても鷹揚でいられるのである。


 「小説家とは、不必要なことをあえて必要とする人種」


 小説家の資格とは小説という回りくどく、手間のかかるヴィークル(乗り物)に乗って、書き続けられる職業人のことを言うのだ。だから第七回の「どこまでも個人的でフィジカルな営み」で、それを忠実に誠実に言語化するために必要とされるのは、寡黙な集中力であり、くじけることのない持続力であり、あるポイントまでは堅固に制度化された意識だ。そのためにそのような資質を維持するために必要な身体力が要求される、と考え、村上さんは体力維持にいつも努めている。

 第三回の「文学賞について」は一番興味深かった。毎年秋になると村上さんのノーベル文学賞受賞なるか、と話題になる。それとは別にいつもノーベル文学賞の対象となる村上さんが芥川賞を受賞していないことが、日本の芥川賞ってどうなのよ?と思わせるところが生じてしまう。日本で芥川賞を受賞していない作家がノーベル文学賞の候補に度々挙げられるわけだから、芥川賞の価値というか、意味あいにそんなに価値を見出すほどのものではない感じを与えてしまう。
 つい最近太宰治が当時芥川賞選考委員だった佐藤春夫に自分が受賞できるよう懇願する手紙が新たに見つかったのが話題になった。太宰が芥川賞を強く望んだことは有名な話だが、今回の手紙はその懇願があまりにもあからさまで驚いてしまう。太宰は「芥川賞は、この一年、私を引きずり廻(まわ)し、私の生活のほとんど全部を覆つてしまひました」と切り出し、「第二回の芥川賞は、私に下さいまするやう、伏して懇願申しあげます。私は、きつと、佳(よ)い作家に成れます。御恩は忘却いたしませぬ」と畳みかけるように頼んでいる。
 そんな芥川賞に対して村上さんは次のように言う。


 芥川賞に「魔力がある」のかどうか僕はよく知らないし、「権威がある」かどうかも知らないし、またそういうことを意識したこともありませんでした。これまでに誰がこの賞を取って、誰が取っていないのか、それもよく知りません。昔から興味があまりなかったし、今でも同じくらい(というか、ますます)ありません。


 一方で村上さんは『風の歌を聴け』で「群像」の新人賞を受賞している。そのことは素直に喜んでいる。


 『風の歌を聴け』という作品が文芸誌「群像」の新人賞に選ばれたときは本当に素直に嬉しかった。それは広く世界中に向かって断言できます。僕の人生におけるまさに画期的な出来事でした。というのは、その賞が作家としての「入場券」になったからです。入場券があるのとないのとでは、話がまったく違ってきます。目の前の門が開いたわけですから、そしてその入場券一枚さえあれば、あとのことはなんとでもなるだろうと僕は考えていました。芥川賞がどうこうなんて、その時点では考える余裕さえありませんでした。


 だから入場券としてはそれなりに有効だけど、これくらいのレベルのもので「群像」新人賞に続いて芥川賞までもらってしまうと、逆に余分な荷物を背負い込むことになるかもしれない、という気がしたのです。


 これを読むと村上さんらしいな、と思ってしまう。第二回の「小説家になった頃」で村上さんは次のように言っている。


 僕が長い歳月にわたっていちばん大事にしてきたのは(そして今でも大事にしているのは)、「自分は何かしらの特別な力によって、小説を書くチャンスを与えられたのだ」という率直な認識です。そして僕はなんとかそのチャンスをつかまえ、また少なからぬ幸運にも恵まれ、このように小説家になることができました。あくまで結果的ではありますが、僕にはそういう「資格」が、誰からかはわからないけれど、与えられたわけです。僕としてはそのようなものごとの有り様に、ただ素直に感謝したい。そして自分に与えられた資格を-ちょうど傷ついた鳩を守るように-大事に守り、こうして今でも小説を書き続けていられることをとりあえず喜びたい。あとのことはあとのことです。


 もともと権威主義に反感を持つ村上さんだから、芥川賞に関しても冷めた目で見ている。


 いずれにせよ、長く小説家をやっている人間として、実感として言わせてもらえば、新人レベルの作家の書いたものの中から真に刮目すべき作品が出ることは、だいたい五年に一度くらいのものじゃないでしょうか。少し甘めに水準を設定して二、三年に一度というところでしょう。なのにそれを年に二度も選出しようとするわけだから、どうしても水増し気味になります。もちろんそれはそれでぜんぜんかまわないんだけど(賞というのは多かれ少なかれ励ましというか、ご祝儀のようなものだし、間口を広げるのは悪いことではないから)、でも客観的に見て、そんなに毎回マスコミあげて社会行事のように大騒ぎするレベルのものなのだろうかと思ってしまいます。


 村上さんは何らかの形で本を読み続ける人は総人口の5%ぐらいじゃないか。残りの95%人たちは文学と正面から向き合う機会が日常的に多くない人たちだろう、と推測している。そして「活字離れ」はますます進行していくけれどそのうちの半分くらいは、社会文化の事象として、あるいは知的娯楽として文学に興味があり、機会があれば本を手に取ってみよう考えているのではないか。選挙で言えば「浮動票」だ。だからその人たちのために、なんらかの窓口が必要で、芥川賞はそのショールームをつとめているのではないか。
 確かにそうかもしれない。例えば今回の又吉さんの作品でも、彼がお笑い芸人だったから話題になった。(作品は素晴らしかったと私は思うが)もし彼が普通の一般人だったら、果たして200万部以上も本が売れたかどうか疑わしい。実際もう一人の作家さんは誰なのか、名前さえ浮かばない。
 でもこんなにマスコミが騒いでくれるわけだから、芥川賞を受賞すれば、作家として生活基盤は築けることも事実なのだろう。
 いずれにせよ、悲しいかな、村上さんがこのように芥川賞について言えば言うほど、芥川賞に“物言い”が着いてしまう。それほど村上春樹という作家に「権威」がついてしまったのだ。言わなければならなかったからこうして言っているのだろうけど、もうこれ以上言わない方がいいように思えた。

 第五回は「オリジナリティーについて」である。

 村上さんが特定の表現者を「オリジナルである」と呼ぶための基本的条件をあげる。

(1)ほかの表現者とは明らかに異なる、独自のスタイル(サウンドなり文体なりフォルムなり色彩なり)を有している。ちょっと見れば(聴けば)その人の表現だと(おおむね)瞬時に理解できなくてはならない。

(2)そのスタイルを、自らの力でヴァージョン・アップできなくてはならない。時間の経過とともにスタイルは成長していく。いつまでも同じ場所に留まっていることはできない。そういう自発的・内在的な自己革新力を有している。

(3)その独自のスタイルは時間の経過とともにスタンダード化し、人々のサイキに吸収され、価値判断基準の一部として取り込まれていかなければならない。あるいは後世の表現者の豊かな引用源とならなくてはならない。

(2)と(3)に関して言えばその作品がオリジナルかどうかは「時間の経過」が重要で、「時間の検証を受けなくては正確には判断できない」わけで、そうでなければただの「一発屋」で終わってしまう。だからそのスタイルの質がどうこう言う前にある程度かさが必要で、実例を残さなければ、その表現者のオリジナリティーが立体的に浮かび上がってこない。だから表現者は自分の作品を一つでも多く積みあげてなければならなくなる。
 その上で村上さんが考えるオリジナリティーとは、自由でナチュラルな感覚で自由な心持ちを、その制約を持たない喜びを、多くの人々にできるだけ生のまま伝えたいという自然な欲求、衝動のもたらす結果的なかたちに他ならないとする。

 第八回「学校について」。どうしてここで学校について書かれるのだろうと思っていたが、読んでみると、村上さんは読書という行為によって学校以上に学んだことがあると書きたかったようである。


 僕は自分の好きなこと、興味のあることについては、身を入れてとことん突き詰めていく性格です。中途半端なところで「まあ、いいか」と止まってしまったりしません。自分の納得のいくところまでやる。しかし興味がもてないことは、それほど身を入れてやらない。というか、身を入れようという気持ちにどうしてもなれないのです。そのへんの見切りのつけ方は昔からずいぶんはっきりとしています。「これやりなさい」とよそから(とくに上から)命じられたことに関しては、どうしてもおざなりにしかできないのです。


 村上さんは学校という「制度」があまり好きになれなかった。学校生活を終えた時点で、「人生でもうこれ以上の退屈さは必要ないんじゃないか」と思えるくらい退屈だった、と言っている。
 それに対して本を読んできたことが、いかに自分にとって意味のあったことかをここで書いている。読書という行為は村上さんにとって自分にカスタムメイドされた学校であったと言い切っている。しちめんどくさい規則もないし、数字による評価もない、激しい順位争いもない。そこで自分自身を確保出来たという。それはどうしてか、次のように言う。


 いろいろな種類の本を読み漁ったことによって、視野がある程度ナチュラルに「相対化」されていったことも、十代の僕にとって大きな意味あいを持っていたと思います。本の中に描かれた様々な感情をほとんど自分のものとして体験し、イマジネーションの中で時間や空間を自由に行き来し、様々な言葉を自分の身体に通過させたことによって、僕の視点は多かれ少なかれ複合的になっていったということです。


 それが良かった。村上さんは身のまわりにある矛盾や欺瞞など、納得のいかないことを正面から追求していったら、袋小路に追い込まれきつい思いをしたはずで、世界がぐずぐずと煮詰まり、フットワークが重くなり、うまく身動きがとれなかっただろう。でも読書体験から得た複合的な視点から自分の立ち位置を眺めることが出来るようになっていたので、世界はより立体性と柔軟性を帯びた。だから、


 これは人がこの世界で生きていく上で、とても大事な意味を持つ姿勢であるはずだと、僕は考えています。読書を通してそれを学びとれたことは、僕にとって大きな収穫でした。
 ここから村上さんは想像力の大切さを言う。


 どんな時代に合っても、どんな世の中にあっても、想像力というものは大事な意味を持ちます。
 想像力の対局にあるもののひとつが「効率」です。数万人に及ぶ福島の人々を故郷の地から追い立てたのも、元を正せばその「効率」です。「原子力発電は効率の良いエネルギーであり、故に善である」という発想が、その発想からでっちあげられた「安全神話」という虚構が、このような悲劇的な状況を、回復のきかない惨事を、この国にもたらしたのです。それはまさに我々の想像力の敗北であった、と言っていいかもしれません。今からでも遅くはありません。我々はそのような「効率」という、短絡した危険な価値観に対抗できる、自由な思考と発想の軸を、個人の中に打ち立てなくてはなりません。

 村上さんは読書体験から想像力を養っていけた。だから学校に効率や数値で表された結果だけを重視することで、「想像力を持っている子供たちの想像力を圧殺してくれるな」ということを望むと言う。


 第十一回「海外へ出て行く。新しいフロンティア」も興味深かった。村上さんが海外で評価されているのは、単に村上さんの作品が海外で受け入れやすい、日本人でなければわからないドグマにとらわれない作風にあるからだと思っていたが、この章を読んで、そうではなく、村上さんが積極的に海外に打って出たことにあるとを知った。村上さん自ら自分のの作品を翻訳してくれる人、エージェント、出版社探しに苦労されたことが書かれている。地道に海外の活動拠点を自ら作り上げて行ったことが、海外で村上さんの作品が読まれているのだ。
 ではなぜ村上さんは世界に打って出ていくのか。


 好景気に沸く日本に留まっていれば、『ノルウェの森』を書いたベストセラー作家(と自分で言うのもなんですが)として、仕事の依頼は次々にありますし、その気になれば高い収入を得ることもむずかしくありません。でも僕としてはそういう環境を離れ、自分が一介の(ほとんど)無名の作家として新参者として、日本以外のマーケットでどれだけ通用するのかを確かめてみたかった。それが僕にとっての個人的なテーマになり目標になりました。そして今にして思えば、そういう目標をいわば旗印として掲げられたのは、僕にとって善きことであったと思います。新しいフロンティアに挑もうという意欲を常に持ち続ける-それは創作に携わる人間にとって重要なことだからです。ひとつのポジション、ひとつの場所(比喩的な意味での場所です)に安住していては、創作意欲の鮮度は減衰し、やがては失われます。僕はちょうど良い時に良い目標、健全な野心を手にすることができたということになるかもしれません。


 この本を読んで村上さんだったら言うだろうな、ということと、なるほどこういうことだったんだ、改めて知ったことは、ファンとして面白かった。


村上 春樹 著 『職業としての小説家』 スイッチ・パブリッシング(2015/09発売) Switch library
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Tracked from 粋な提案 at 2015-12-07 11:39
タイトル : 「職業としての小説家」村上春樹
いま、世界が渇望する稀有な作家── 村上春樹が考える、すべてのテーマが、ここにある。 自伝的なエピソードも豊かに、待望の長編エッセイが、遂に発刊! 目次 第一回 小説家は寛容な人種なのか 第二回 小説家になった頃 第三回 文学賞について 第四回 オリジナリティーについて 第五回 さて、何を書けばいいのか? 第六回 時間を味方につける...... more
Commented by 藍色 at 2015-12-07 11:54 x
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by office_kmoto | 2015-09-21 05:38 | 本を思う | Trackback(1) | Comments(1)

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