平成27年10月日録(下旬)

10月16日 金曜日

 雨。

平成27年10月日録(下旬)_d0331556_652280.jpg 久坂部羊さんの『芥川症』 (新潮社2014/06発売)を読み終える。
 この本は7篇の短篇が収められている。いずれの短篇の題名が芥川の作品を題名のパロディだ。「病院の中」「他生門」「耳」「クモの意図」「極楽変」「バナナ粥」「或利口の一生」といった感じだ。話ははっきり言って面白くなかった。
 久坂部さんも芥川龍之介が好きのだろうか。南木佳士さんも若い頃、芥川の作品を出ている文庫で全部読んだと書いていた。医者は芥川が好きになるのか、というつまらぬことを思った。
 我が家にも岩波の芥川龍之介全集がある。この全集実はただでもらってきたものだ。本屋で働いていた頃、閉店したお店の整理をしていたとき(実は私はこんなことばかりやってきた)、出てきたものであった。たぶんお客が予約していたのを取りに来なかったものだろうと思われる。こんなものを残しているからこの店は潰れたのだろうが、返品も出来ず、捨てるしか他になかったので、それならもったいないので引き取ってきたものだ。それが私の本棚にでんっとある。読んでみたいとは思っているが、未だ手を付けていない。

 続けて色川孝子さんの『宿六・色川武大』も読み終える。


10月17日 土曜日

 雨のちくもり。

 司馬遼太郎さんの『街道をゆく』 のDVDの4巻目を見終える。今回「信州佐久平みち」が収録されている。この回の最後に、南木佳士さんが勤めておられる佐久総合病院が出てきて、司馬さんはこの病院の屋上から近くを流れる千曲川や佐久平が見渡すことが出来て、その映像が映し出される。本当に病院の近くに千曲川が流れていて、南木さんは朝ここに来て釣りをして、その後病院へ向かったんだな、というのがよくわかった。鮎が泳いでいるのがわかりそうである。
 そういえば南木さんのエッセイで司馬さんの『街道をゆく』について書いた文章がある。


 私は、信州については知るところがない。
 司馬遼太郎の文章にはこういう突き放した表現がよく出てくるが、これはまた見事なほどの言い切りである。要するに、信州になんか興味はないのだが、知人が佐久の病院(わたしのいまの勤務先)で療養しているので見舞いに行かねばならず、仕方なく同地を訪れるのだ、と最初に正直にことわっているのだ。
 佐久平の住人としては、それはないでしょう、司馬さん、とつぶやきながら読み進むと、やがて、知らぬ間に司馬話術のなかにぐいぐい引き込まれてゆく。そうか、この地名にはそんな由来があったのか、とうなずきつつ、いつの間にか読み終えてしまう。
 作家の紀行文がその土地に住む読者に受け入れられる第一の条件は、地勢に関する記述が正確であることだろう。このあたりが、個人と環境のかかわりや人間関係の細部を描いて普通の域をめざそうとするために、実際にはあり得ない土地をや場所を創作してしまいがちな純文学作家の苦手とするところだ。いまさら言うまでもないが、司馬遼太郎がそういう類の作家でないことだけはたしかである。(信州佐久平に住む 『からだのままに』に収録)


 司馬さんの文章には、地名、寺、仏像、人物、様々な記述の裏付けとなっているだろうと思われる膨大な資料の読みこなしがある。そこから漉された一滴が言葉となり、文章となっている。だから「知らぬ間に司馬話術のなかにぐいぐい引き込まれてゆく」のである。


10月18日 日曜日

 くもりのちはれ。

 やっと晴れたので、借りていた本とDVDを返却し、予約していた本、4冊とDVD2本を借りてくる。これを2週間で読み、見ることになる。まあ何とかなるだろう。

 今年最後のさつきの消毒をする。今年は結構まめに消毒をやってやった。きっと来年も多くの花を咲かせてくれると期待している。
 最初は義父の残していったものをそのまま残してやりたいという気持で始めたものだが、今もそれはもちろんあるが、それよりもけなげに年に一回きれいな花を咲かせてくれるのが楽しみにもなった。このまま冬を迎え、越していくことになるのを見守るだけである。


10月19日 月曜日

 はれ。

 妻の検査結果を聞きに病院へ行く。大した問題はないようだ。次回から近所のかかりつけの病院で定期的に血液検査などして様子を見ることになった。

 なぜだかわからないが、このブログの管理画面からのログアウトが出来なくなってしまった。どうやらインターネットエクスプローラの問題のようで、Google Chromeで閲覧すると、きちんとログアウト出来ているようである。問い合わせをすると、インターネットエクスプローラの設定を変更すると、きちんとなる。
 たった一つのチェックを外すだけなのだが、これが何を意味しているのかよくわからないまま、言われた通りするしかないのが現状である。
 昔読んだ本で、『パソコン革命の旗手たち』(日本経済新聞出版社2000/03発売)に書いてあったことを思い出す。昔のパソコンは何をやっているのかわかったが、今のパソコンは中で何をやっているのかわからないので、面白くない、というようなことが書いてあった。パソコン黎明期の話である。ハードもソフトか単純だったから、自分がしたいことをプログラムに書けたし、理解もできた。簡単なMS-DOSのプログラムを書いてソフトをカスタマイズしたりしたものだ。今はまったくわからない。それくらい複雑怪奇になってしまって、素人じゃ手が出ない。それがどんな意味を持って、何をしていることなのかわからなくても、指示されるがままやるしかないのである。

 荻原魚雷さんの『書生の処世』を読み終える。


10月20日 火曜日

 はれ。

 白川密成さんの『ボクは坊さん。』を読み終える。


10月22日 木曜日

 くもりのちはれ。

 久坂部羊さんの『虚栄』を読み終える。


10月23日 金曜日

 くもり。

 今日から神田神保町の古本祭りが始まった。例年にこの古本祭りには行っている。出来るだけ人の多く出ていない日を選んで行くので、今日は平日だし、と思い出かけた。
 探している本はないことはないが、別にそれだけが目的でもない。私はここの古本祭りは、かつて自分が所有していた本や読んだ本、あるいは書店時代扱ったことのある本たちに会えるのが楽しいのである。
 歩道に並んだ古本屋さんの棚やワゴンの中の本を見て、懐かしむ。言ってみれば“本たちの同窓会”感じで、昔の本に会いにいくのである。そんな本を見つけると、思わず手に取ってしまう。まだ古本として健在だったんだ、と思ってしまうのである。もちろんもう40年近く前のことである。古本として経年劣化は避けられないけれど、だからこそ“同窓会”なのである。人間だって歳をとって老いて、古ぼけるのだから同じであろう。
 今日は昭和40年代に出版された“黒い本”を4冊と割と新しい新しい本が安かったので1冊買う。
 空は曇っていたが、暑くもなく、ちょうどいい感じなので、そのまま靖国通りを秋葉原方面まで歩いて、岩本町から地下鉄に乗って帰る。

 帰ってから『街道をゆく』 のDVDの5巻目を見る。やっぱり本を読みたいなあ。昔読んだときは、司馬さんのやさしくきれいな文章を味わうことなどできなかったけれど、こうしてビデオを見ていると、確かにアナウンサーの朗読のうまさもあろうだろうが、もう一度読んで味わいたくなる。
 こうしてみると、本というのは本当にいいものだなあ、と思う。形として確かに感じることができ、しかも年数が経てば経っただけ、いい味を出すし、読む方も向かし読んだのとまた違う感じを味わえるのだから、手放せない。
 今日は買ってきた古本をそばに置いて、手触り感や装幀、古ぼけた感じを楽しむことにする。


10月24日 土曜日

 くもり後はれ。

 松村賢治さん監修『暦のある暮らし―旧暦で今を楽しむ』を読み終える。

 テレビ東京「出没!アド街ック天国」で今日取り上げられる街はお茶の水であった。そこで出演者の一人がお茶の水は「ランチ激戦区」の街と言っていた人がいて、その光景を昨日を見かけたのである。
 ちょうどお昼ご飯の時間帯に通りを歩いていると、確かにサラリーマンやOLが店の前で並んで待っている光景をあちこちで見かけた。学生よりも多いかもしれない感じだった。一歩裏通りに入っても、やはり同じ光景で、同僚と一緒に順番待ちをしている。こんな中一人でその列に並ぶ勇気はないので、昼食の時間をずらすことにしたくらいだ。 お茶の水は大学など少なくなって学生も減った分、ビジネス街と変貌している。そのため店も昔と違って洒落た店が増えて、一人で気軽に入れる店が少なくなっている感じだ。
 番組ではオリジナル・キャストの「ミスター・マンデイ」が流れ、思わず懐かしくなる。
 喫茶店の話が出て来た。昔アイスミルクティーをアイミティーとかレモンスカッシュをレスカと略して言っていたとか、これも懐かしい。私はコーヒーしか飲まない人なので、こんな言葉は使わなかったが。
 喫茶レモンの話も出てきた。今は小洒落たイタリアンの店になっているけど、昔は画材と一緒に喫茶店にもなっていた。何度か学生時代入ったことがある。確か妻とも付き合っていた頃も一緒に入ったと思う。
 「LEMON GASUI」と名前の入ったグレーのオリジナルビニール袋を持っていると当時はお洒落だったと番組では言っていたが、そうかもしれない、とも思った。デザイナーの卵みたいに見えたのかもしれない。
 私は学生時代レモンよりそのはす向かいにある文化学院の横にあった二階建ての小さな喫茶店に入りびたっていた。文化学院も今は両国に引っ越したことをこの番組で始めた知ったけど、その喫茶店も今はない。喫茶店があったビルらしいものはあったが、今は雑貨屋さんみたいなものがぽつんと建っている。
 あれほど入りびたった喫茶店であったが、店の名前が思い出せないでいた。今回また懐かしくなって、もしかしたら私のようにあの頃のお茶の水の喫茶店が懐かしむ人がいるのではないか、と思い、ネットでいろいろ調べていたら、私と同じようにあの喫茶店を懐かしむ人がいて、その店の名前を書いていた。「マロニエ」と言った。そう言われればそうだったかもしれない。
 大学の友人に聞いてみればすぐわかることだが、そんなことを聞くほどでもないので、いずれ確認する機会があれば聞いてみようと思う。口の悪い友人のことだから、「お前、あんなに毎日通っていた喫茶店のに、名前忘れたの?思い出せないの?」とボケたみたいに言われるかもしれないが。

 『街道をゆく』 のDVDの6巻目を見終える。偶然だが、この6巻目にも「神田界隈」が収録されていた。
 夜木枯らし一号が今年初めて吹いたことを翌朝知った。


10月26日 月曜日

 はれ。

平成27年10月日録(下旬)_d0331556_682637.jpg 池波正太郎さんの『わたくしの旅』 (講談社2007/04発売 講談社文庫)を読み終える。このエッセイは昭和40年前後に書かれたエッセイをまとめたもののようだ。
 いくつか面白い文章があった。


 時代小説のとって、ぬきさしならぬ制約が、ざっと云って[三つ]ある。
 第一に[自然現象]である。第二に[制度]である。そして第三に[人間]である。(時代小説について)


 ここで第一の[自然現象]については、そうだよなあ、と思ったのは、先に『暦のある暮らし―旧暦で今を楽しむ』を読んで、旧暦がだいたい1カ月早く進んでいることを知ったからである。
 池波さんはここで三方原の戦いがあった日を、元亀3(1572)年の12月22日を例にとって、新暦でこれを考えるとおかしくなる。資料は旧暦で書かれていることを心に留めておかないといけない、と言っている。この場合、この戦いはおおよそ2月3日か4日にあったことになるのだ。
 これはまだ冬だからイメージ出来る気象状況だろうけど、季節の変わり目など、旧暦と新暦ではがらりとイメージが変わってしまうだろう。
 さらに学者の仕事と小説家の仕事の違いをここで言っているのだが、小説家は学者になってはいけない、と言っている。


 小説家は、おもしろい小説を書けばよい。
 生き生きとした人間が躍動している小説を書けばよい。
 小説家が学者になったとき、その人の小説は、完全につまらなくなる。

 もう一つある。


 浅草へ来ると、ホッとして人間なみにあるけるのである。(人が住む町)


 池波さんは今の日本の町は車がガンガン走っていて人の住める町じゃなくなっていることを嘆いていて、その点浅草は人間のための町があり道があるからいいと言っている。 まあこの文章が書かれたのが昭和41年だというから、まだ今よりはましだったのだろう。
 最近の浅草はとにかく人が多くて、さらに外国観光客も増えて、仲見世通りなど歩いているというよりは、歩かされている感じがする。スカイツリーが近所に出来て、浅草はさらに観光スポットになって、しかも2020年東京オリンピックに向けて外国からの観光客を馬鹿の一つ覚えみたいに「おもてなし」とか言って、これが「おもてなし」か?、と言いたくなるほどの喧騒さである。
 私は別に国粋主義者ではないが、最近の国や行政の言うところの外国観光客を迎えるための施策にどこかおかしさを感じている。せっせと外国人観光客のためにあれこれやっているけれど、ここは日本であり、日本の寺であり、昔から繁華街である。すなわち日本人のためにある町だ。それなのに日本人が騒がしくて行きたくなくなるようなことをして、何かおかしくないか、と思っている。ここは誰の国なんだと思うような政策はどうなんだろうか、と思う。
 もちろんこのままでは廃れていちゃうから何とかしなければならない。だから「おもてなし」なのだというくらいはわかる。
 今は外国人観光客がお金を落としてくれるから、それに望みをかけているところなのだろう。でもこんなことをやっていると、いつでも外国人観光客頼みになってしまい、ますます日本人のことを自ら考えなくなるのではないか?外国人が来なくなったら、どうするつもりなのだろうか?いつまでも中国の爆買いが続くわけじゃないだろう。
 札束にものを言わせている人たちの片棒を担いでいては、町も人もすさんでくるに違いない、と思っている。その時残ったものを見て、愕然とするのではないか、思ってしまう。

 昨日こたつを準備した。急に朝晩寒くなってみると、こたつの暖かさはたまらない。 で、こたつを使うようになったのだから、扇風機をいつまでも出しておくのおかしいので、羽などほこりを拭き取って、階段下にしまう。ここ二日ほど吹いていた風は今日収まったようである。 


10月28日 水曜日

 はれ。

 今日は散歩して歩いているとちょっと汗ばむ感じの一日であった。

平成27年10月日録(下旬)_d0331556_694318.jpg 松久淳さんの『中級作家入門』(KADOKAWA2014/01発売)を読む。この本は先に読んだ荻原魚雷さんの『書生の処世』に紹介されていた本で、作家の生活内情みたいなものが書かれているようなので読んでみようと手にしたが、失敗であった。
 書名にもあるようにしがない中級作家が、無理に笑いを取ろうとして親父ギャグを連発し、自虐的になり、虚勢を張っているように見えて、笑えないことはなかったが、読んでいて疲れてしまった。途中で何度か読むのを止めようかと思ったが、区内の他の図書館にあったこの本を私がいつも行っている図書館までわざわざ配送してくれた人のことを思うと、取り寄せた以上読まねば悪いな、という気持があって仕方なしに読んだ感じであった。
 ただ一つだけそうかもしれない、と思える一文があった。


 よく見かけると思うけれど、自家栽培の茄子がうまかった話とか、フジロックにお気に入りのバンドを見に行った話とか、季節が変わって近所のクルマのボンネットに寝るようになった話とか、まあ簡単に言えばその時点でどうでもいい話なんだけど、かつそれが面白い方向ではなく、「なんか含蓄ありそうな」「そんなことにも普通の人とは違う視線をもっているよアピールで」「自分のライフスタイルを小洒落仕様で肯定している感じ」に落とし込んだエッセイは、そりゃ、つまらない。(エッセイはつまらない)


 確かにこのように自己満足で書かれたエッセイなど読みたくない。一方このように私が好き勝手に気の向くまま、本を読み、散歩をし、庭の手入れをし、その中で感じたこと、考えたことを書いている訳で、もしかしたらこの著者の言うような文章になっているかもしれないな、と思ったりした。
 別にそれを気取っているつもりはないし、自分の視線が何か普通の人と違うよみたいな視線で書いているつもりはない。ありのままを書いている。けれどもしかしたらこんな私の雑文はこの著者の言うような感じで読まれている可能性もあるかもしれない、と思ったのである。ときに何言ってんのか、と思われることもあるかもしれない。
 ただ私は好き勝手に読み、歩き、書いている。それだけである。あくまでも私個人の雑文である。そう思って頂ければ有り難い。


10月29日 木曜日

 くもり。

 今日の新聞の文化・文芸欄で「図書館考」の特集が組まれ、今回で2回目になる。新潮社の社長が本が売れないのは図書館が新刊の無料貸し出しが一因だと噛みついている。
 図書館が人気作家の新刊を貸し出し、あるいは一つの図書館が数冊購入して貸し出しているところもあるから、増刷できたものが出来なくなり、本が売れない原因となっているというのである。
 確かに新刊の無料貸し出しが本が売れない一因にはなっているだろうな、とは思うけれど、それって一方的な言い分にも聞こえなくもない。なぜならどんなに予約待ちの数がすごくても、借りられるまで待っているというのは、図書館で借りられるなら借りて読めばいい。わざわざ買うまでもないと、その本に見切りを付けているからではないか。
所詮それだけの本じゃないか、と言われているようなものだ。本当に読みたいと思う本なら、たとえ昼飯を削ってでも買う。
 理由はいろいろあるだろうが、私には、本が売れないのは、出版社の企画の貧相さ、作家の質の低下などが、大いに影響しているように思えてならない。だから図書館の無料貸し出しに問題があると目くじらを立てる前に、自分たちのやっていることを見てから言った方がいいんじゃないのと言いたくなる。あまりにも消耗品的な本が多すぎる。

平成27年10月日録(下旬)_d0331556_6172260.jpg 荻原魚雷さんの『活字と自活』 (本の雑誌社2010/07発売)に次のような文章があった。


 編集者に優等生タイプが増えた。
 出版業が人気職業になると、優秀な人たちが集まる。そういう編集者と我々との相性がよくない。よくないというより、優等生タイプの編集者は、無名のライターを起用しようとせず、名前の売れている、リスクの少ない書き手を好む傾向がある。
 一か八かのおもしろい企画を通すよりも、過去の成功パターンを望む。成功パターンといえば、聞こえがいいが、簡単に言えば、二番煎じだ。
 雑誌はラーメン特集ばかりになる。なんとかの品格みたいな本がたくさん出る。
 原稿に関しても、賛否両論のあるようなものよりも、つまらなくてもいいから「否」のないものをよしとする人が多い。1990年代半ばくらいから、そういう編集者が増えた。


 荻原さんがリスクの少ないことを選ぶ編集者が多くなったのは1990年代半ばと言っているが、国内の書籍の売上が1996年から減る一方なのと同じなのは本当に偶然なのだろうか?私には荻原さんのようなフリーライターの方が出版界の現実をよく見ているように思えてならない。




10月30日 金曜日

 はれ。

平成27年10月日録(下旬)_d0331556_620322.jpg 図書館で借りた荻原魚雷さんの本を読んでいたら、昔読んだ荻原さんの本が読みたくなり、本棚から引っ張り出してみた。『古本暮らし』(晶文社 2007/05発売)である。
 今までの本と同じように雑文集といっていい。
 その日暮らしのように見せかけていて、自分の身の丈に合った生活を模索している。身の丈もそうだけれど、自分が一番心地よい生活を探している毎日を綴っている。この人はある意味、生きることが下手な人なんだろう、と思えるが、それがいい。


 歳をとると、新しいものにだんだん反応ができなくなってくる。衰えではなく、過去の蓄積が今のものをきびしく査定してしまうのだろう。(売るべき本の基準)


 そうかもしれない。考えてみれば、衰えもあると思うが、長いことやってきたが、頭をがちがちにしてしまい、新しいものを受け入れることが出来なくさせる。それが反応できないと思わせるのかもしれない。 


 本屋でひら積みの本の上にカバンを置く人はよくいる。下の本が見えないっていうのもあるが、そういうことに気がまわらないかんじがいやだ。(本のマナー)


 これはよく見かけるし、正直なところ私は、下の本が見えないとかいう問題ではなく、
本の上にものを置くことが許せない人である。
 昔本屋で働いていた頃は、そんな奴を見かけると、本の上に置かないでください、と注意した。本の上にものを置いて欲しくない。置くべきではない、と思っている。それは非常識とかいう問題以前感覚なのだ。
 今はあるのか知らないが、リクルートで「住宅情報」という家の物件情報誌があった。この雑誌、赤帽がリクルートから店に納品していた。
 雨の日にこの赤帽の運転手が、クルマの荷台から、この雑誌を抱え、店に入ってきた。外は雨である。雑誌には何の覆いも掛けていなかったので、当然濡れた。私はこの運転手を怒鳴り倒したことがある。雨に濡れた雑誌など売りもにならないし、そんなことをわからない奴が配送の仕事をしていること自体、許せなかった。第一雑誌が可哀想である。確か午後になって、リクルートの担当者が謝りに来たが、別に担当者が謝りに来る問題ではない。赤帽の運ちゃんの問題だし、運ちゃんも謝っていたから、それでおしまいでいいじゃん、と言った覚えがある。

 本屋に最初入った頃は自転車で配達を何年かしていたこともある。雨の日はやはり大変であった。私は何も知らなかったので、会社の玄関の前に自転車を止め、雨合羽を着たままそのまま玄関を通ろうとしたら、先輩に怒鳴りつけられたことがあった。
 先輩曰く、我々はこの会社のお客じゃないのだから、表玄関から入ってはいけない。裏口から入れ。そしてお客さんの所へ行くのだから、合羽は脱げ。そして自分は濡れても、本は濡らしてはならないから、濡れないようにタオルを掛けて入れ、と言われた。それは納品業者の常識だろう。先輩はそれを厳しく教えてくれた。(この先輩は常識のない私をひとつひとつ教えてくれた素晴らしい先輩だったし、どういうわけか私を可愛がってくれた)
 そのように合羽を脱いだり着たり、本を濡らさないために、本をかばって自分が濡れることにもなる。だから雨の日の配達が終わると、髪の毛はボトボトになるし、着ている服も雨と汗でベトベトになったものだ。
 もちろん自分が店の責任者になったときは、下の者にも同じように教育した。また私が配達を手伝うときもあったので、先輩づらせず同じようにしてきた。
 それくらい本には気を使ってきた。だから本の上にものを置くことも許せなかった。もちろん今はそんな喧嘩腰になるほどの元気もないし、そもそも店員でもないので、そんな奴を見かけると、私は不愉快になり、その店を出てしまう。(それだけでも歳をとったなあ、と思ってしまう)


 ただしいつのころからか「持ち時間」が「残り時間」にかわる。(練習と習慣)


 自分も同じで、だからつまらぬ思い出話をした。


10月31日 土曜日

 くもり

 午前中胃カメラの検査をする。例によってポリープだらけの胃となっている。今までのストレスから胃潰瘍、十二指腸潰瘍の跡などが残っている。まあ戦士の傷跡みたいなものか?
 しかし検査というのは疲れる。前日から検査のために制限が加わっていて、それが当日にピークとなる感じだ。

 娘が孫を連れて小学校から同級生に会いに来た。娘の女友だちはみんな子どもがいるので、それぞれの子どもを集めて、ハーロインパーティーをやったようだ。帰りが遅くなるので今日は二人して我が家に泊まりに来た。
by office_kmoto | 2015-11-02 06:22 | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


by office_kmoto