南木 佳士 著 『落葉小僧』
2015年 11月 14日
老いた者から順に死んでゆくことわりは、こんな山の中に住んでいると、誰に教わらなくても自然に身につくものである。大工が古くなった家の寿命を言い当てるのとおなじで、あの勉強不足の老医にも職人としての経験は十分にある。あの医者の見立てに任せておくのが、なんか一番自然のような気がする。誤診だのなんだのと騒ぐより、七十歳を過ぎたら、たとえどんな病気で死のうと、それは寿命なんだと考えたほうがやっぱり自然だと思う。残された者が楽だと思う。(ニジマスを釣る)
十年というのは、物事を曖昧にするにはとりあえず十分な時間なのだ。(ヤマメを釣る)
寂しさをたたえた目を維持するにもある種の覚めた意志が必要なのだ。(金印)
こんな悟った言葉が書ける南木さんの文章に引かれる。しかしこうして言えるまでの生きることの苦しみを想像すると、それは溜息に似たものに思える。私はこうして口にされる言葉を読むと、生きることはそう簡単なものじゃない、とつくづく思う。
追い込まれないと吐ける言葉じゃないこれらの言葉は、それを経験したものでなければ共感できない。私は読んでいてやりきれないことはなかったけれど、それは今の自分と同じ境遇だからかもしれない。もしバリバリに生きることが出来ているなら、きっと南木さんの作品に共感などしなかったのではないか。
しかし人生いつも華々しいわけではない。山あり谷ありだ。谷のあとまた山に登れればいいが、登りたくても登れない。
いつかそんな時が来るとうすうす感じていても、これまでは勢いでやり過ごして来られた。だから実際そうなってしまうと、どうしようもなく、立ち上がる手段が見いだせない。
その時生きることを止める手段もあるが、生き続けることを選択した者は、からだがこころがもう無理が出来ないとなれば、もう元に戻れないなら、その生き方を変えるしかない。簡単に言ってしまえばそういうことになる。
そんな時に南木さんの作品の登場する人物たちの口から出てくる言葉が、諦めのように聞こえるけれど、私にはこうとしか言いようのないものに感じてしまう。どちらかと言えば苦虫を噛み潰したように言うしかない。でもそれがよくわかる。だから私は南木さんの作品に惹かれたのだ。
ただ生き方を変えると、見えなかったものが見えてきたりする。その時見える風景が私が好きなのである。
それは普段あまりにも忙しくて、見逃していたものである。それが見えてくる。当たり前の風景が当たり前でなくなってくる。
私もそうだった。ある日突然、庭にある義父が残していったさつきが目に入った。隣にある寺の雑木林から聞こえる鳥の声に耳をすまし、葉の陰から見える鳥たちをしげしげと見るようになった。季節ごとの木々や草花が移り変わり、日差しの強弱を感じ、風の音を聞く。雨が線を描いて落ちてくるのだと、感心して見ていた。雲の形にも目が行くようになった。こうなってくると価値観まで変わってくる。
これまで立ち止まることもなかなか許されず過ごしてきたが、こうして立ち止まって考える時間が増えていく。それはそれで鬱陶しいところもあるけれど、そのたびに自分の立ち位置を確認できる。
なりふり構わず生きてきて、失ってしまった視界を取り戻した感じだ。これは多分生きることに疲れてしまった人たちが得ることが出来ることではないか。そしてそのことで人間性を回復し、再生していくように思えてくる。私は南木さんの作品をそうして読んできた。
村上春樹さんの最新刊のエッセイで、村上さんが小説を書いているとき楽しいからと書いている。あるいは書くことが気持ちがいいからとも言っている。それなら読む方が読んでいて気持ちがいいのもあっていいはずだ。私は今、南木さんの本を読んでいて確かに気持ち良かったのである。
南木 佳士 著 『落葉小僧』 文藝春秋(1990/05発売)