菊地 信義 著 『装幀思案』

d0331556_6161596.jpg 南木佳士さんの本の装幀はほとんど菊地さんがやっている。私は菊地さんのシンプルなこの装幀が好きである。
 南木佳士という作家を知って、図書館で借りられるだけ借りて、読んできたが、手元にも南木さんの本を置きたくなった。ただ南木さんのこれらの単行本は、ほとんどが品切れ、あるいは絶版になっているようで、書店で手に入れることが難しい。だから古本屋を歩き回るとき、南木さんの本が目についたら買ってきた。
 今では数冊南木さんの本が本棚に並んでいるが、それらの背表紙を見ていると白い色で統一されていい感じである。
 白といっても、目に突き刺さる白ではなく、淡い黄色味を帯びたやさしい白である。それを眺めているだけで、気分が和らぐ。
 本の装幀は本という媒体を考えたとき、その内容だけでなく、本の外側、あるいは形など、大切な要素だと認識している。だから私は単行本にこだわるのである。文庫とか全集とか統一された装幀だとつまらない。
 菊地さんが装幀した南木さんの本では、白を基調とした装幀がこんなに美しいものとは思わなかった。それは図書館で借りたときには感じられなかったものであった。
 図書館の本は読まれることが大前提であるから、まず本に付いている帯や箱は取られる。その上で透明なシートが本全体に掛けられるから、その手触り感など一切伝わらない。色の味わいもシートを通して見るものだから、てかてか光った感じが拭えない。もちろんそれは仕方のないことだが、手元に置いておきたい本の装幀が美しいもので、その手触り感もなんと言えぬものだと、ちょっとうれしくなってくる。
 ところで図書館で本を借りてくるときいつも思うのだけれど、この透明なシートを掛けるのは大変だろうな、ということである。本のサイズや厚みなど様々だから、機械で出来るのだろうか?そんなことが気になってネットで調べてみると、やはり手作業であるようだ。
 「学校図書館司書の日々」というサイトに本にシートを掛ける手順が写真入りで解説されている。(http://ameblo.jp/gakkotosho/entry-10920478948.html)このシートをこの業界では“ブッカー”と呼ぶらしい。1冊の本にブッカーを掛けるのに要する時間は5分が平均と書かれている。これ結構大変な作業だろう。書店でちゃちゃっとカバーを掛けるのとは訳が違うことわかる。
 ところで本に付いていた帯や箱などはどうしているんだろう?やはり捨てちゃうのかな?
 とにかく南木さんの本の装幀をしてきた菊地さんがどんな人で、どんな装幀をしてきてたのか知りたかったので、菊地さんが書いている本を図書館で借りて読んでみた。
 この本もシックな装幀で、色合いもいい。ブッカーがなければ手触りも良いのだろうと推測される。

 その菊地さんの本である。


 書店の平台で、あ! いい本だと目にとまる本がある。造本や装幀が奇を衒っているわけでもない。題名から内容は漠然としかわからない、著者の名も知らぬ。なのに、だからというか、未知の美しいオブジェのように見惚れてしまう本がある。広告や人に見聞きした本は、書名や著者名が目に飛びこんで、物としての本との出会いを逸している。(めっけもん)


 この本を読んでいると、菊地さんが書店で本を買うのは、我々とちょっと違う感じがする。たとえば私たちは好きな作家の本を手にする。あるいはもう目的の本を事前に見つけて置いてそれを手にする。はたまた何か面白い本はないか、と探して手にした一冊がこの本、という感じで、どちらかといえば本の内容、著者が本を求める大きな理由だろう。ここには本の装幀の良さは二の次のところがある。
 ところが菊地さんはそれに本の外装、すなわち装幀に目が行き、本が一つの美術作品のように思える本を手にする。むしろそうした装幀の良さが本の内容にも波及している感じで本を求めている。もちろん装幀という仕事をなされているわけだから当然であろう。その菊地さんが白い装幀の本が好きだと書いている。


 白い本が好きだ。書店で白っぽい本はいくらも目に入るが、あらかた白をまとっているだけだ。色の白に興味はない。白い紙で装幀された本が好きなのだ。
 色彩としての白は清潔や誠意をはじめ、おびただしいイメージがまとわりつき、観念的だ。装幀表現に白は敵ですらある。紙にかぎらず、その支持体から離れて語られる色彩は危険な匂いがする。(包む)


 さらに「白い紙ほどその物性を想起させるものはない」、「白い紙で装幀された本は、どの色よりも本の物性をあらわにする」とも書く。菊地さんが白い色にこだわる気持ちがここにある。
 菊地さんが本の装幀の意味、その存在価値を随所で書いている。


 人が本という物へ心引かれる感覚に対する謙虚さ、それが装幀に力をさずけたのだ。本は人の心を作る道具。本に盛られた作品は読者を得、読む人の心に意味や印象を結ぶ。読んだ人の心の数だけ作品が生まれる。文芸であろうと実用の書であろうと、文を綴る言葉の真の役割(読むという行為を得て意味や印象を生む)に誠実であれば、本を作る側(著者・編集者・装幀者・・・・・・)は本のあと半分の作り手である読者に己を提示するに謙虚でなくてはならない。(装幀の慎み)


 良い装幀には、一瞬そのすべてを忘れて、見つめさせる力がある。(取り寄せ)


 人を読者へと誘うことが装幀の目的だ。(火種)


 本と読者を橋渡しするのが装幀。(小村雪岱『日本橋』)


 本の装幀では函やカバー、表紙に見返し、扉から本文の組み方までデザインする。(竹下夢二『露地のほそみち』)

 本は人が手に取って表紙を開き、ページをめくり見る。函やカバーをはじめ、素材の感触は装幀表現の大事な要素だ。(粟津潔『シュールレアリスム宣言』)


 装幀は人の目を引き、読みたいという思いを誘い、手に取られることをめざす。(加納光於『螺旋都市』)


 色は装幀に不可欠な要素だ。たとえ白い紙に表題を記しただけの本も、白という色をもつ。(清原悦志『吸血妖魅考』)


 装幀という仕事は、本のすべてをデザインする。何も表紙だけじゃないのだ。しかも読む人のことを十分考えて、奇を衒った装幀を嫌う。


 ところで、菊地さんが読者が読むことを考えて本の装幀を考えている一文がある。


 版面(一行の字数と一頁の行数)の天地・左右のあきは、一行の字数や判型にかかわりなく、天を地より多くした方が、上から下、下から上へ字を追う目線が版からこぼれない。天のあきが少ないと、下から折り返し、上がってきた目が次の行の行頭にわたれず外へ出てしまう。
 版面の綴じられる側がノド、逆が小口。ページ数や綴じ方にかかわらず、ノド側は丸みをおびるので小口のあきよりひろくする。小口のあきは、読者の指先が行に乗らぬ、十五ミリほどはほしい。(チリ)


 この文章を読んでいると、確かに本を読んでいて次の行に移ろうとするとき、次の行がわからなくなることがある。思わず行を探したりする。ページを押さえる指が本文にかかってしまうことも経験したことがある。でも読者は我慢して読んでいる。きっとこんな本は菊地さんからすればいい装幀の本じゃないんだろうなあ。
 でもこうして読む側のことを考えて作られた本は、読みやすいだけに、装幀者の気配りを感じることがないかもしれない。これからはこのようなさりげない気配りが装幀にあることを少しでも感じたいところである。
 それにしてもこの本値段を見てびっくりしてしまった。本体価格3,000円となっていた。この値段だったら、紹介している本がカラーであってほしかった。カラー写真だともっとわかりやすかったと思う。


菊地 信義 著 『装幀思案』 角川学芸出版(2009/03発売)
by office_kmoto | 2015-12-03 06:17 | 本を思う | Comments(0)

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