白川 密成 著 『ボクは坊さん。』

d0331556_618114.jpg この本のことは知らなかった。何でも今度映画化されるらしく、そのCMで著者は書店員からお坊さんになった、とあった。その書店員から、というのに食いついてしまった。その異色の経歴に興味が湧き読んでみた。普通書店員からお坊さんに成る人などそうそういまい。
 読んでみると、著者の祖父が四国八十八ヵ所の栄福寺の住職で、著者はその後を継いだ。高野山大学を卒業した後、地元の書店に就職し書店員となり、祖父が亡くなったあと寺を継いだ。そんな若い新米の僧の話である。


 どんな世界でも同じであると思うけれど、そこに所属したからといって、その職業に必要な素養がいきなり身につくわけではない。美容師が美容師として認められるには、数年はかかるだろうし、「一人前」として求められる技術は半端なものではないだろう。それは、本屋さんだって、パン屋さんだって先生だって、多分そうだ。
 坊さんも同じこと。しかも、僕たちの「仕事」は時に生と死にまつわる仕事だ。


 まあ正直なところ、坊主に関していいイメージは持っていない。それは自分の周りに尊敬できる僧がいなかったし、どちらかといえば寺の経営に奔走しているかのようなところが見えて、生臭さが人の死を扱っているだけに、余計に目立ってしまって、心の中で「この野郎!」と思うことが多かった。葬式や法事の時の講話など聞いていても、無教養丸出しで、思わずこいつ馬鹿じゃなかろうかと思うことも多い。時に高級車を乗りましているのも何度も見かける。
 そんな坊主ばかり見てきたから、この人はまだ初々しいし、これからどんな坊さんになるのか楽しみさえ感じる。仏教という拠り所を心から感じ、考え、まだ坊さんに成り立てだからということで、ものすごく謙虚だ。逆にそれだけ考えていることが心に浸みる。


 仏教は一般に日本で考えられているイメージよりも、ずっと理知的な側面をもっている。「さとり」や「しあわせ」のために“しくみ”を探求して論理的作戦をすこしずつ積み上げていっているように見えることがある。(略)
 しかし、それでも「坊さん」と「死」は、やはりとても近しい存在だと僕は思う。人がすこしでも、「生命」や「生きる」ということについて、深く思いを巡らしたとしたら、そこに間違いなく登場するのは「死」だ。そんなことを考えることの多い「仏教」の「坊さん」に死の儀礼を人々が任せ始めたことは、むしろ自然な流れだったのかもしれないし、僕は今でもその役割を担わせてもらうことが、「大きな意味のあることだな」と感じることが多い。


 そして、そんなお墓の話になったら、「もしかしたらお墓は生きている人のためにも、つくるものかもしれませんね。亡くなった人と話したい、手を合わせたい、という時に、やりやすいですから」と正直に思ったことを話すと、「あっ、それも、そうだね」と意外に納得する人が多かった。“思い出の再生装置”。そんな機能をお墓や埋葬に関するあれこれは、僕たちの中でひっそりと、じっくり担ってきたのかもしれない。死者のために「墓をつくり、飾る。そして祈る」。考えてみたら、それは想像以上に繊細な行為だ。「人間が人間たる場所」の大切なひとつだと思う。


 たぶん、いいのだ。仏教に自分の思いや、気持ちを対話させても、いいのだ。いや、勝手な僕の感情を吐露するならば、そうしたほうが「宗教」は“いいもの”になりやすいと思う。
 宗教は「もともとあるもの」ではない。人間が、一切の生きるものたちが、より生きやすく、“しあわせ”を得るために試行錯誤を重ねてきた方法論のひとつの過程でもある。だから僕は、これからも慎重に耳を澄ませながら、時に直感的に、自分自身と宗教を素直な心で対話させてみたい。


 仏教は「うれしい」ためにあるものだと僕は思うから、しかめっ面でいることよりも、できるならば笑顔であることを目的としたい。


 「宗教の中の信仰」という、とてつもなく大きな命題を前にして、初心の坊さんである僕が、はっきりと言えることはとても少ないけれど、少なくとも僕自身は、「信仰」というものを、「自分の中にしっかりと流れる旋律のような物語に触れようとする。そしてその続きを綴ろうとすること」でもあると思っているのだ。


 「宗教は、自身の中にある旋律のような物語と出会う場所」
 そんな直感を含んだ寒色を、僕はうまく伝えることができない。しかし宗教のそんな素敵な側面を、すこしずつでも誰かに語りかけることができればいいな、と思うし、それを一番聞きたがっているのは、じつは自分自身なのかもしれない。


 宗教には、さまざまな意味をひっくるめた「思想」や「アイデア」、「祈り」「世界観」などを“長期保存”することができるという、保存装置のような性格があるのかなと思うことがある。僕は、これを宗教のもっている「いい面」のひとつだと考えている。


 これらの言葉を引き出してみると、なるほどそうかもしれないと同感できる。それはやはり著者がとことん謙虚であるから、知らぬ間に引き込まれていく。人は何においても謙虚で、一心に考えついた言葉には耳を傾ける。
 一方でというか、だからこうして自分の中で仏教という信仰が拠り所となっている著者をうらやましくも思えてくる。こうして仏教や今の自分に何が出来、出来ないかを考え、さらに人として何かを考えていったとき、次の言葉はさらに傾聴に値する。


 僕たちのあらゆる行為を「人間だけがすること」「動物全般がすること」に分けて考えると、いろいろな意味で社会や個人が“不調”の時というのは、そのバランスが偏っている時が多いのかもしれない。おそらく「人間固有」に振れすぎても、人間は動物なのでどこか居心地が悪いし、「動物」の成分が強くなりすぎても、人間は動物界の中でかなり固有な存在なので、バランスが悪くなってしまうように思った。


 そのバランスをとることを「ととのえる」と著者は言っているが、それは「仏教の話をこえて意味のあることだ」と思っていると書いている。一心に仏教に帰依し、考え出てきた言葉の一つのように思える。


 最後に坊さんが集まった野球チームがあって、その名前が「ナム(南無)・スターズ」という。その試合の開会式の大会代表挨拶があるのだが、その代表が欠席のことが伝えられる。


 「みなさん、こんにちは。今日、代表は欠席でございます。お葬式です」


 大笑いしてしまった。


白川 密成 著 『ボクは坊さん。』 ミシマ社(2010/02発売)
by office_kmoto | 2016-01-17 06:20 | 本を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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