同居する

 今読んでいる山口瞳さんの「男性自身」シリーズに次のようにあった。


 小学六年生になるとき、頭を坊主刈りにしなければいかないのだときかされていた。それは、いまから考えるとまことに滑稽だが、私にとって非常に悲しいことだった。坊主になるというのは、ショッキングな事件であった。(坊主頭)


 これを読んで思い出した。そう、私も中学時代坊主だったのである。私が入った公立の中学校は、男子は坊主頭にさせた。
 小学校を卒業して、中学に入るまでの間に坊主頭にしなければならなかった。これが嫌で私立に行く奴もいたくらいであった。
 坊主頭にするとき、いつも行っている床屋には行かなかった。行けなかったといっていい。恥ずかしかったのである。床屋の人間に笑われる気がしたのである。だから坊主頭にするときは、それまで行ったことのない床屋に行って髪の毛を刈ってもらった。
 坊主頭になった自分の頭を触ったとき、やはりショックだった。そんなことを思い出す。
 中学に入ってもしょっちゅう髪の毛検査が行われ、坊主頭が伸びていると、バリカンで刈られた。とにかく何かとうるさい学校で、しょっちゅう殴られていた。
 中学三年間を坊主頭で過ごした反動で、高校に入ったとたん長髪になり、肩まで髪を伸ばしていた。吉田拓郎が「僕の髪が肩まで伸びて、君と同じになったら~」と歌っていた時代である。
 中学時代厳しい校則に縛られていたので、新設高校に入ったとき、その自由さに驚いたくらいであった。もちろん羽を伸ばして好き勝手な高校生活を送らせてもらった。いわゆるまともな高校生ではなかった。
 私の中にある種の堅苦しさや頑固さと「そんなの自由じゃん」といういい加減さが同居するのは、たぶん中学時代、厳しい校則に縛られていたことと、高校が新設高校で、伝統などというものがない分、自由さの中で生活してきたものから生まれているのではないかと思っている。

 ところで山口さんは他で人体における毛はそこに生えている以上何か意味があるはずだから、例えばヒゲなど剃ってしまうのは自然に反するのではないかと言っている。そして大笑いさせてくれる。


 まず、第一に、こう考えた。人体における毛は、それが頭髪であるにせよ、腋下であるにせよ、あるいはその他の箇所であるにせよ、何か意味があるのではないか。たとえば、当然毛が生えていなければならない部位に毛がないときに「あるべきところにあるべきものがない」といって軽侮されることさえあるのではないか。もしそれが男子の場合は、最近は「白い巨塔」などと渾名されたりするようだ。(モトヒゲ)


 このギャク冴えている。(2016年1月24日)
by office_kmoto | 2016-02-20 05:46 | 余滴 | Comments(0)

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