南木 佳士 著『ダイヤモンドダスト』 再読

d0331556_5402990.jpg 南木佳士さんの『ダイヤモンドダスト』を今年最後の本として読み終える。(この文章は去年の暮れに書いた)今度は自分の本として。
 読み返してみて、この本に収録されている「冬への順応」はいい作品だ、と思った。南木さんの小説で好きな作品だ。
 この本のことは以前詳しく書いているので、今回は別なところで思ったことを書きたい。


 あたりまえに生きた女が、当たり前に死んでいく。あくまでも第三者でしかあり得ない医者として、ぼくはそういう死に慣れすぎていた。
 死者を見送るとき、いつからか、ぼくは残される者の側に立ってのみ、事を処理するようになった。すでに死亡している患者に人工呼吸器をつなぎ、家族全員が到着するのを半日待ったことさえあった。ようやく遠方からかけつけた家族に向って、たった今、というふうに頭を下げる。見とどけることのできた安堵感が拍車をかける号泣の中で、人工呼吸器のパイプを抜く。心臓や呼吸の停止は、ほとんどの場合、本質的な意味を持たない。死に価値があるとすれば、それを決めるのは、残された者の内に生まれる喪失感の深さの度合いなのではないか、とぼくは思っている。
 ぼくは今、初めて残される者になろうとしている。千絵子が死ぬ。ぼくは残る。千絵子が死ぬ。ぼくは残る-


 この描写が養老孟司さんの言葉を思い出す。養老さんは死には人称があるという。一人称、二人称、三人称の死があると考えるのだが、ただし一人称の死はあり得ない。自分が死んでしまえば自分の死を見ることが絶対にあり得ないからだ。
 二人称の死とは、「あなた」。すなわち身近な人の死である。そして三人称の死は「彼・彼女」。すなわち生きているときに特別な人間関係がなかった赤の他人の死を意味する。だからその死は客観的に「死」と認識でき、必要以上の感情はそこにはない。
 主人公の「ぼく」この三人称の死に慣れすぎていていたことを自覚する。それでもまだ二人称の死に思いやれる気持ちがあるから芝居をするし、その死に価値があるとすれば残された者の喪失感の深さと思いやれる。
 養老孟司さんも「身内は死にません。身内であればいつまでも生きていると思っているのです」と言う。
 特に大事な人が死んだ場合、その人が死んだということを自分で納得させなければならない、と言っているのを思い出す。このぼくの最後の言葉は、その大事な人が死んだことを何とか自分自身で納得させようとして、やっとの思いで吐き出された言葉に思えた。

 「ワカサギを釣る」では日本の難民医療団の思いがけない実体がさらりと書かれていて、以前はそれを読み飛ばしていた。


 (日本から送り込まれる医療団の)ある大学のチームは若手の外科医に手術のノルマを課し、達成されそうにないと収容されている四万人の難民の中から患者狩りをした。日本にいればせいぜい第二助手くらいしかできなはずの新米医師が、めったにない機会だから、と癌の手術の執刀者に選ばれることも多かった。


 回診のとき、陽に焼けない青白い肌をした日本の若い医者が老婆のベッドの脇にしゃがみ込み、あなたは癌ですよ、治らない癌なのですよ、とおだやかに頬笑みながら、はっきりした発音の日本語で呼びかけた。老婆は落ち窪んだ目を微かに開き、残った体力を出しきるように歯の抜け落ちた口もとに微笑を浮かべ、萎びた乳房の上で合掌した。
 「この言葉、一度言ってみたかったんだよな」
 半袖の仕事着の胸に日の丸のワッペンを付けている医者は、うしろに立つ種村をふり返って無邪気な白い歯を見せた。
 老婆の足にたかるハエに手押しのスプレーで殺虫剤を撒いていたミンは、その頃十分に日本語を理解していた。彼はスプレーを左手に持ち変え、右手で拳をつくった。種村はそれを見て、ミンの横に行き、医者の視線を塞ぐ位置で静脈の怒張した彼の右腕をつかんだ。


 この二つの件に関しては私は何も言えない。作り話かもしれないが、ただ南木さんはカンボジアの難民医療団の一員であった。それだけである。



南木 佳士 著『ダイヤモンドダスト』 文藝春秋(1989/02発売)
by office_kmoto | 2016-02-22 05:42 | 本を思う | Comments(0)

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