山口 瞳 著 『父のステッキ』

d0331556_8271270.jpg こういう週刊誌の連載エッセイは世相を反映する。ときにここまで言っちゃう?、なんて、今のもの差しから考えれば、それはアウトでしょうと思うところもある。けれどよくよく読んでみると、言っていることは正論である。
 でもこういう言い方が許されるのは、この時期がおおらかな時代であったということではないかと思う。逆に今はそれだけ神経質にならなければならないほど、窮屈な時代になってしまったということか。寛容の範囲がどんどん狭くなっていく感じがしてしまう。
 気負らず、頑固爺がもの申すのだが、でも言った後自分をふり返ってそこまで言っちゃっていいかな、と反省したりする。その人間臭さがいい。何だか不思議なんだけれど、このシリーズ読んでいてホッとしてくる。安心して読んでいられる。


 遊ぶということも、これまた大事業である。(なんの糸瓜)


 総じて「頑固一徹」とみられているひとは、その根に「実生活上の不器用」があるのではなかろうか。鈍ではなくて、そのことに敏感すぎるあまりに、自分の廻りに垣根をつくってしまうのではなかろうか。(白痴)


 すなわち、事業とは必ずある種の正義観に支えられている。あるいは一種のオセッカイである。(遺伝的)


 私は、生きるということは、そういうバカバカしさを敢えて行うところにあるのではないかと思うのである。(不思議な家)


 この「男らしさ」は、一種の「痩せ我慢」と考えてもらってもよい。(女)


 酔ってくると、私には、すべての人が、世の中全般が、たとえば男女のことにしたって、仮り末代に思われてくるのである。どんなときでも、誰にとっても、こころならずともというのが、実は、本心なのではあるまいか。(仮り末代)


 仮り末代のことは以前書いた。でもあらためて読んでみると、やっぱりしみじみしてしまう。
 人生の哀しみの部分を感じてしまう。だから馬鹿なことでもしなければやっていられないところがある。人が長いこと生きてきた中で経験したペーソスをこのシリーズで味わっている。特に戦争を体験してきた人の話は心打たれる。
 

 「その通りだ。俺も親馬鹿だし、溺愛している。俺たちの親があんなふうだったろう。だから駄目なんだ。それと、ああいう時代を通って、やっとここまで生きてきたろう。その生きているという証拠が、この子なんだ。有り難いと思う。この子が生れたとき、つくづく有り難いと思った。『子を持って知る親の恩』ではなくて『子を持って知る子の恩』なんだ。生きている証であると同時に、この子が生れたときに、戦争になってはじめて俺は力一杯生きていこうという気になった。この子は俺の恩人なんだ」(子の恩)


山口 瞳 著 『父のステッキ』 男性自身シリーズ 4 新潮社(1968/07発売)
by office_kmoto | 2016-03-22 08:30 | 本を思う | Comments(0)

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