山口 瞳 著 『少年達よ、未来は』
2016年 03月 30日
私には「好き」か「嫌い」か「都会人」であるか「田舎っぺ」であるかという尺度しかなかったが、だんだんプロであるかアマであるかという、もうひとつの尺度が加わるようになったのである。(プロと人殺し4)
それだけではない。スマートであるかどうか。不自然じゃないかどうか。みっともなくないかどうか。ここで山口さんの師匠である高橋義孝さんの言葉を繰り返す。
「山口くん、人生というものは短いものだ。あっというまに年月が過ぎ去ってしまう。しかし、同時に、どうしてもあの電車に乗らなければならないというほどには短くないよ・・・・・・それに、第一、みっともないじゃないか」(少年達よ、未来は)
そういう視線で物事を見ているが、山口さんの視線はどちらかと言えば「小市民的」であり、「瑣末主義」的なところがあるので、滑稽である。まあ大上段に構えて物事を論ずる輩よりははるかにいい。少々偏見もあるが。それが面白い。
私は偏見の多い人間である。他人からもそう言われるし、自分でもそう思う。(ショック)
ただ私は山口さんの言うことは身近に感じる。それらを書き出してみる。
「若さというものは、禁止事項が少ないということではないか」
こんなふうに、中年とは、禁止事項を設けて生活をせばめてゆくことではないかと思われる。(禁酒考)
釣りの好きな人は気が短いという。のんびりと釣り糸を垂れているのではなくて、いまかいまかと思ってウキをにらんでいるのだそうだ。
植物の好きな人間にも同様のことが言えると思う。心がざわざわする。のんびりと桜の枝を眺めているのではなくて、いまかいまかと蕾を睨みつけているのである。
梅が終り、木蓮と辛夷が咲き、その他もろもろの花がいっせいに咲き、桜になる。とても落ちついていられない。
仕事をしていても、ついつい庭のほうを見てしまう。違った角度から花を見てみたいと思う。そうやって、ついつい庭へ出てしまう。ちょっとだけ土盛りをしてやったりする。
そうでなくても、私は、庭に植木を植える空間が残っていると落ちつかない。びっしり植えてしまわないと気が済まない。植木屋は、この庭は、十年経つとよくなるといったようなことを言う。とてもそんなに待ってはいられない。
庭に植木があるということの有難さは、それによって一年の移り変りがくっきりとわかることである。(春)
このことはよくわかる。この頃毎日庭の植木を眺めていると、早く暖かくならないかな、とか、花が咲くイメージを思い浮かべることが度々である。そして何度も書いているが、そうした植木の変化は確かに一年の移り変わりを実感してしまう。
庭に空き地があると何か植えたくなるというのは、気持ちとしてわかるが、ただ狭い庭にいっぱい植え込んでしまうと、栄養が行き届かなくなるし、陽の当たらないものも出てくるだろうから、それは自重している。
このように「庭に植木を植える空間が残っていると落ちつかない。びっしり植えてしまわないと気が済まない」というのはチャペックの本にもあった。園芸家はせっせと空き地を探してしまう習性がある、と書いていたはずだ。
私たちが結婚することになったとき、先輩が、こう言った。
「夫婦が、夫婦としてレールに乗るようになるには十年かかる。隣に寝ている女が俺の女房だと思うようになったのは十年後だった」
いまから思うと、本当にその通りである。私もそう思う。
それ以後の夫婦を支えるものは他者である。外的なるものである。夫婦以外の何かが夫婦を支えるようになる。
共同の敵が夫婦を支える。たとえばそれは病気である。貧困である。戦争である。あるいは子供である。親類縁者である。友人たちである。
夫婦愛というようなものに実体はないと思う。それは幻である。(やれやれ二十年)
ところでこの本の「創作の秘密」では、このシリーズの絡繰(からくり)が書かれている。どういうことかというと次に上げる3つのスタンスでこのシリーズを書いていると告白している。
すなわち、まず「座談会の前後」にある雑談の方が実際の座談会よりも真実があり、面白いということがある。言ってみればちょっとした裏話とか曝露話の方が好奇心がわく。それを書く。
第二にもともと浅学菲才だから、死んだ気でぶつかって書く。
そして第三に追悼文を先に書いてしまいたい、ということである。つまり亡くなった人の追悼文って悪いことは書かない。けれど当の本人は死んでいるから、その人に伝わらない。だったら惚れている人には惚れていると先に書いてしまいたいというのである。それに戦中世代の者の常として、明日をも知れぬという思いがいつもつきまとうので、だったら言いたいことは全部言ってしまえと言うのである。自分にとって遺言状のつもりで書きたいと言う。
山口 瞳 著 『少年達よ、未来は』 男性自身シリーズ 6 新潮社(1970/08発売)