山口 瞳 著 『天下の美女』

d0331556_533779.jpg 「正論を吐く男」で次のようにあった。


 AとBが酒を飲んでいる。AがBにからんだとする。クダを巻くでもいい。
 この場合、たいていは、Aの言うことは正しいのである。正論である。
 酒を飲んでカラムというときに、間違ったことを言いだして因縁をつけると思われがちであるが、決してそうではない。酒を飲んで、どうかして、遂に正論を吐くにいたるのである。
 (略)
 酒のうえの話にかぎったことではなくて、体が弱ってくると世論を吐くようになる。また、老齢になると、正論党になる。つまり頑固オヤジである。
 頑固オヤジが嫌われるのは、曲ったことを言うからではなく、正しいことを言うからである。曲ったことなら聞き流せばよい。正論だから、耳に痛い。従って煙ったくなるということになる。


 ただし、正論党というのは、言わなくてもいいことを言ってしまう、という傾向がある。嫌われるのは、そのためだ。堪え性がないという傾向もある。だいたいにおいて、痩せている。


 しかし、正論党は、やはり、言わなくてもいいことを言ってしまう傾向がある。吉行さんの言われるように「世の中というのは、あまり本当のことをいっちゃいけないところで成り立っている点がある」と思われる。「お前は正しい。しかし、それはイカン」というところがある。


 これは山口さんと北杜夫さん、そして吉行淳之介さんとで鬱病について話し合った時の吉行さんの言葉である。
 これは何となく居酒屋でよく見かける光景ではないか、と思うが、でも確かに本音を言えない窮屈さが今の世の中にはある。
 それでも先に読んだ荻原魚雷さんの「厄介だが天晴れ」の言葉を思い出し、それをこのシリーズで期待している。

 この巻の圧巻は1970年(昭和45年)11月25日の三島由紀夫の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地における割腹自殺の事件から三島由紀夫という人間を山口さんは七回にわたり書いていることである。たぶん一回が一週だろうから七週にわたって、山口さんが考える三島由紀夫という人間を書いたことになる。事件ことがショックで頭から離れなかったという。そこで山口さんが見た三島由紀夫という人間像を書き始め、三島由紀夫という人物はたぶんこういう人物だったのではないかと考える。これが山口さんらしい三島由紀夫像に思えた。
 山口さんは事件の三年ほど前に寿司屋で三島由紀夫と会った。


 三島さんは、トロを注文した。トロ以外食べないのである。その感じは、どうにも、異常だった。(「なぜ?」一)


 それが十回ぐらい続いた。
 いかにも三島さんらしいと思う人がいると思う。私も、いかにも三島さんらしいと思う。(「なぜ?」二)


 山口さんは三島由紀夫が「寿司屋における初歩的なマナー」を知らないのであると書く。どういうことかというと、マグロは仕入値が高く、それでいて儲からない。ひところマグロは寿司屋にとって赤字になるといわれた時期もあった。しかしマグロは寿司屋にとって目玉商品でもある。そのマグロばかり食べてしまう客がいれば、品切れになる可能性がある。そうすれば目玉商品のない寿司屋は店じまいしなければならない。それを山口さんは知っているから、マグロを注文する時は遠慮しいしいという具合になる。ところが三島由紀夫はマグロばかり食べている。山口さんは三島由紀夫がそんなことを知らないで、平気で食べられる姿が「異常」に見えたのである。そこから、


 私は、ここで、三島さんが世事に疎い人であったということと、世間に気兼ねしない人であったことを、はっきりさせておきたい。(「なぜ?」三)


 三島さんは、気兼ねしない人だった。しかし、一般庶民というのは、世間に気兼ねすることでもって生きているのである。
 私は、寿司屋へ行ったら、どうしたって、その店の経営と職人の立場というものを考えないわけにはいかない。(「なぜ?」三)


 と書く。事実この時、マグロばかり注文する三島さんを職人は困った顔をしていたという。そういう気兼ねしない三島由紀夫の見ることが出来るもう一つの事件を山口さんは紹介する。
 谷崎潤一郎賞の授賞式で選考委員が座る席に一番演壇に近い席を当時の文壇の重鎮である舟橋聖一と丹羽文雄を譲りあって、その席が空いた。そこへ遅れてきた三島由紀夫がすっと座った。


 その様子に、悪びれるところは微塵もなかった。臆するところがなかった。それがいかにも三島由紀夫であるというふうに私の目に映った。
 気兼ねするしないという段ではなく、むしろ、颯爽としていた。(「なぜ?」三)


 山口瞳さんが見た三島由紀夫という人は、こういう人であった。だから、


 私は、ほとんどの人が、三島さんの死の決意に気づかなかったのは、このような三島さんの性癖というか無頓着というか、他人とはおおいに異なる神経のためだったと思う。悪趣味な家を建てようが、裸の写真をとらせようが、シャンソンを歌おうが、軍服を着て観兵式の真似をしようが、いかにも三島さんらしいということで見過ごしてきてしまったということに原因があるように思われる。もし、これらのことが、すべて最後の自決にいたる伏線であったとするならば、たいした演出家、たいした役者といわないわけにはいかない。昼行灯の大石内蔵助以上の役者である。(「なぜ?」四)


 と書く。で、三島由紀夫があのような自決をしたのかいくつか理由を推測しているが、その中で、


 三島由紀夫は、戦争中であったならば、自決あるいは自殺をしなかったはずである。このことは非常に明瞭である。三島由紀夫は、平和だから、昭和元禄だから自決したのである。三島由紀夫を殺したのは「平和」である。(「なぜ?」六)


 これは山口さんの当時書いていた小説のテーマであった。戦争も人を殺すけど、平和も人を殺すのだ。そういう現実を戦後山口さんは見ていたのである。
 山口さんは三島由紀夫の自死は戦中派の徒労感でなかったのかと推測するのである。


 三島さんは、すぐれた小説というだけでは我慢が出来なかったのだろうと思う。傑作であると同時に、売れる小説(当たる芝居)でなければならなかった。それがスターの宿命であって、三島さんは、名作であってベスト・セラーであるような小説を書く自信を喪っていたか、あるいは、そのことに疲れてしまったのではなかろうか。(「なぜ?」七)


 山口さんは徹底的に戦争を、その体験者として非難する。


 戦争はあったほうがいいか。軍隊組織はあったほうがいいか。冗談じゃない。マッピラゴメンである。赤線は復活したほうがいいか?馬鹿なことを言うもんじゃない。昔はよかったか?戦前の日本はよかったか?ちっともよくはない。
 いまのままで、いまの日本で結構だ。
 風呂敷包みの中味は、ねえ、きみ、とってもこわいんだよ。(忘れもの)


 山口さんは電車の棚に忘れられる風呂敷包みに見立てて、その中身には「戦争」が包まれている。それが忘れられている、現在の平和にある不安をこのように言う。
 ひとごろしは戦争だけではないということをこの「男性自身シリーズ」でいろいろな場面で言ってきている。武器だけが人を殺す訳ではない。人がいるだけで、その人の言動が人を殺すという事実が平和の中にはあるということを言っている。あるいは平和の中で求められるもので、その追求による疲労感も人を殺す。三島由紀夫もそうであったと考えていた。

 平和でも人を殺すのだということを自覚しつつも、それでも戦中派の山口さんがこれまでの人生の休息を求める文章は、ホッとする。


 私は歳月を思わないわけにはいかなかった。その歳月は、たとえば温泉旅行とは無縁であるような、血腥いような、熱り立っているような、息急き切って駈けているような年月だった。私も女房も、少しは骨休めをしてもいいだろうと思った。(花梨)


山口 瞳 著 『天下の美女』 男性自身シリーズ 7 新潮社(1971/07発売)
by office_kmoto | 2016-04-05 05:36 | 本を思う | Comments(0)

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