山口 瞳 著 『隠居志願』

d0331556_6193676.jpg 「昼猶聞き」というエッセイで次のようにある。


 私はチューリップという花が嫌いだ。見ていてムカムカする。あの赤だとか黄だとか紫だとかいう花は美しいのだろうか。それがわからない。葉にも風情がない。総じて洋花というものも好まない。
 チューリップを植えた庭を好まない。庭にチューリップを植える人を好かない。その神経がわからない。



 さらに、「私はツツジもきらいだ」という。「従って、サツキも好まない」と書く。こう書かれると猫額庭主人としては、はなはだ困ってしまう。わが庭はサツキ、ツツジがメインで、チューリップも植えている。
 山口さんに気を使う必要はないのだけれど、あえて言わせてもらえば、サツキ、ツツジは義父が残していったものである。それをそのまま引き継いで管理している。チューリップを植え始めたのは、孫が生まれてからである。すなわち孫が一番喜びそうな花がチューリップではないか、ということで、毎年植え始めた。
 山口さんがチューリップやツツジ、サツキを嫌うのは、それがいかにも作り物の庭という風情をだからだろう。このシリーズで度々出てくる山口さんが求める庭は、“雑木林”である。となればチューリップやツツジ、サツキは似合わない。そういうことのようだ。

 次に読んでいてなるほど、と思うことを書き出す。

 才能のない人間はいない。人間は、誰でも、その一人一人が天才である。しかし、自分の才能がどの分野の仕事に向いているか気づかないことがある。
 私は、才能については、そんなふうに考えている。その考えが正しいかどうかわからないのだけれど、そう考えれば気が楽になる。人間だれでも使い道があるといったように-。(才能について)


 確かにこう考えれば、私も何か才能があるのかしら、と思わなくもない。どこか使い途があるのだろう、と思いたいところである。


 東京は(東京ということにこだわるつもりはないが)、東京以外の生まれ育った人がやってくるところになった。東京人でない人が住むところになった。(なるようになれ)


 これは言うまでもないことだが、こう書かれればその通りである。


 万年筆というのは、人間の使う道具としては、まことに不完全なものであり、不自然なものである。そうして、万年筆の生命は、ペン先の先端の、わずか一ミリか0.五ミリのところにある。(万年筆その後)


 万年筆のことを書かせれば長くなるので控えたいところだが、確かに万年筆は不完全な道具である。本当に使いこなせるようになるには、悪戦苦闘しなければ、スムーズに文字が書けない。イライラを幾度も経験し、我慢して使い続けて、それでやっとなじんでくる。それを左右するのがペン先のわずかな部分だ。万年筆が自分のものとなるには、とにかく我慢するしかない。


 意外に思うかもしれないが、流行作家とか文壇の大家というものは、罐詰にならない。彼等は、書くことが商売であり、そのことに習熟しているから、一番いい条件を知っているのであり、そういう部屋を自分で用意しているのである。鴎外、漱石、谷崎潤一郎、佐藤春夫、井伏鱒二、あるいは松本清張、司馬遼太郎が罐詰になったなんて話は聞いたことがない。
 いわゆる罐詰にされてしまうことの多いのは、学者、評論家である。どういうわけか、そういうことになっている。
 さらに、大衆小説を書く人より、純文学の若手作家のほうが、罐詰になることが多い。(いわゆる罐詰)


 これはそうなのかな、と思うだけであるが、確かに大家になれば、自分の書斎をきちんと洩っていて、その余裕もあるだろうから、これが出来るということか。

 さて今回「隠居志願」となっているのだが、山口さん自身、隠居という身分になりたいと思っている。この時山口さんは47歳である。ただ肉体年齢は糖尿病もあって優に60歳を越えている、と言っている。


 特に私たちの年齢の者は、戦時中は苛烈なる受験勉強と軍事教練と学徒動員が同時に課せられ、空襲あり敗戦のショックあり、就職してからは国家再建、会社再建のためメチャクチャに働かされてきた。体にいいわけがない。
 これから、もうヒト花、もうヒト波瀾というのは幻想であるに過ぎず、私にはとうていそんなことは考えられない。
 少年というのは未来を無限と考える男であり、老年になると死から逆算するようになると誰かが書いていた。かりに、還暦から逆算して、あと十二年、ここでヒト花と思うのが誤りのモトであって、最近の高級官僚の汚職事件、すべて四十二、三歳から四十六歳、七歳まで、課長補佐、課長、部次長といったあたりが間違いをおこす。この人たちは、俺は隠居だと思っていれば、あんな馬鹿な真似をせずに済んだはずである。



 平均寿命が男で七十歳なんていうのはマヤカシもいいところであって、これは不当に不自然に生かされているに過ぎない。人生五十年とおもいさだめて、ヤリタイコトヲヤルというのが男の一生なのではないか。そうやって、偶然七十歳まで生きてしまったのが古希であり、古来稀なりということになる。
 つまり、私などもう遅い。すでに終ってしまっているのである。


 そこで隠居するということになる。私も隠居同然の生活をしているので、人がどういう形の隠居を望んでいるのか興味ある。しかし山口さんが言う「積極的隠居論」を読んでいると、これはちょっと勘弁して欲しいなあ、と思ってしまう。まわりからすると、ただうるさい爺さんだ。“いじわるじいさん”である。まあ山口さんらしいと言えば言えるのだが・・・・・。


山口 瞳 著 『隠居志願』 男性自身シリーズ 10 新潮社(19743/08発売)
by office_kmoto | 2016-04-28 06:20 | 本を思う | Comments(0)

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