南木 佳士 著 『猫の領分―南木佳士自選エッセイ集』  再読

d0331556_4565126.jpg  手元に南木さんの本を置きたい、と思っていることは何度も書いた。それでもなかなか単行本は手に入らず、手元にある本は10冊も満たない程度だ。その中でこのエッセイ集も欲しいと思っていた1冊である。
 読んでいると南木さんが確固とした自分であろうとする姿が感じられる。そこには自然に振るまい、自分に素直になることを、村に住む人、病院に訪れる年老いた患者さんに当てられながら生きていく。


 世間は総論を教えてくれたのだが、各論は自ら学ぶしかなかったのだ。(夏休み)


 そこは変にかさ上げされ、奇形に変容した過去の自分を顧みて、歳を経て穏やかになっていくことを望む。もちろんいつでもそうあるわけじゃないが、できる限りそうありたいと望む姿が心地よい。
 多分私もそうであるから共感できるのではないか、と思っている。


 生きのびることは絶え間なく変容し続けること。ここ数年、このテーマにとらわれて小説を書いている。(壇上にて)


 ここのところ昔のことを思い出すことが多くなった。それも断片的に。それは歳をとったことによる老化現象かもしれないけれど、忘れていたことがふと頭に浮かぶ。


 記憶の海の底に沈んでいたはずの小石が、ある日ぽっかりと海面に浮かんでくることがある。季節、時間に関係なく、俗世の波に波長を合わせて揺れる海面に、石は確かに浮いてくる。(骨折の少年)


 この場合小石が記憶だ。ただ海面に浮かんだ記憶は妙に苦々しい。思い出してうれしくなるようなものが少ないのは何故なのだろうか。それだけ嘘くさく、強いられた生活の中の生き様だったからだろうか。忘れていたから何とか生きられてきた気もしないではない。


 生きるために忘れるのか、忘れるために生きるのか。(骨折の少年)


 いろいろ思い出す。思い出して断片をノートに書き出している。そうしないともう記憶にも登らなくなってしまいそうで、それはそれで惜しい。
 ノートに思い出した断片を書いているうちに、確かにそれを肉付けしたくなる。そんなことをしていたら、「都合のよい改編して、第一版の面影は跡形もなくなる」かもしれないが、それでも思い出した断片を書いてみたい衝動に駆られる。


 小説を書くということは、脳の底から浮かび上がる一言半句を捕まえ、それを土台にして言葉の城を築いていくものだから、浮かび上がるものがなければ確固たる作品は書けない。(言葉の手帖)


 その点小説家は小説を書けるだけいい。そんな才能のない私はただ思い出した断片を持て余している。それは間違いなく今の自分を形作り、苦しめ、変容させた一因であることは確信しているが、どう処理していいのかわからずにいる。

 ところで南木さんも三島由紀夫のことを書いている。以前山口瞳さんも三島由紀夫のことを書いていたのでそれを書いた。南木さんの推察も面白い。


 小説家なんて原稿用紙の上で生きたつもりになる変な人種なのだが、ひとつだけ肌身にしみているのは、長篇小説に結末にこだわると途中に無理がくる、という実感だ。天才三島由紀夫は最後の一行が決まってから小説を書き出していたそうだが、そういう筋書きの人生はやはりどこかに少しずつ歪みが蓄積されてきて、あるところで物語に破綻をきたし、急いで終わらせる必要に迫られたのではないか、と構成力に欠ける非才は、それなりに平凡な推測をする。(保育園に行きたい)


 そして南木さんの愛読書の一つ、丘沢晴也さんの『マンネリズムのすすめ』にある注釈を引く。


 十数年前から、私は、初対面の相手の、腕の筋肉のスジとか、肌の色つやをこっそり観察するようになった。相手がどれくらい運動しているのか、気になるのだ。文章を読むときも、似たようなことをしている。私のささやかな経験によると、「肉体」や「身体」という漢語を口にする人は、たいてい、日頃あまり運動していない。コンスタントにからだを動かしている人なら、「からだ」と言う。例外は三島由紀夫。けっこうハードな運動をしていたのに、「肉体」を連発していた。だから、あんなに異様な死を選んだのだろう。(正直なからだ)


 面白い見方があるものである。


南木 佳士 著 『猫の領分―南木佳士自選エッセイ集』 幻戯書房(2012/10発売)
by office_kmoto | 2016-06-03 04:59 | 本を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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