山口 瞳 著 『元日の客』

山口 瞳 著 『元日の客』 _d0331556_8102752.jpg ここまで読んできたこのシリーズに故人の追悼文がいくつかあったが、今回は梶山季之、きだみのる、檀一雄の追悼文が加わる。山口さんが書かれる故人の追悼文はジンとくるものがある。
 故人と以前付き合いのあった頃など、普段普通の生活をしていて、ふと故人を思い出し、また感慨にふけってしまう。特に梶山季之の死による梶山ショックが長く続いたようで、何回か梶山季之と思い出話が綴られている。
 自ら歳をとれば失っていく親や友人がいやが上にも出てくる。その時故人を思うのと同時に自らが歳をとったことを実感される。いずれにせよ、このシリーズは老人の日常だから、ある意味身につまされる。


 それはともかく、齢を取るということの悲しさと忌々しさは、生きてゆくための道具がふえるということである。(老人のこと)


 私は年頭所感は、もうアヤマチは許されないという一事に尽きる。失策をおかして、それを反省材料にするという年齢ではなくなっていることを感ずる。失敗は取りかえしのつかない失敗になる。それを思うと、むやみに悲しくなる。まことに厳しい年齢になったものだと思わないわけにはいかない。(元日の客)


 本の書名になっている「元日の客」に、いくつか気になる文章がある。


 酒はラグビーにおける「魔法の薬罐」のようなものだ。常人にもどるのである。(いや、そう思うのは錯覚なのだろうが)とにかく、元気になって活潑になる。俺はまだ充分に戦えるという気分になる。(元日の客)


 最近ラグビーがまたブームになっているけれど、そういえばラグビーを見なくなった。昔明治が強かった頃はよく見ていた。愚直まで正面突破を試みる明治と、華麗なパス回しをして選手がグランドに全体に広がっていく早稲田の試合を楽しんでいたものだ。
 その時怪我をした選手に救護班が大きな薬罐をもってグランドに出てきて、選手に薬罐からの水を掛けている光景をよく見た。
 今はそんなことやっているのを余り見ないような気がする。すぐスプレーみたいなものをふりかけている。
 もっとも昔みたいにラグビーを見ていないのでわからないが、確かあの薬罐は「魔法の薬罐」であった。薬罐から水を掛けられると選手は復活する。


 正論というのは、それが急所であるのだから、相手を傷つけてしまう。どうも、酒を飲んでカラムというのは、そういうことであるらしい。(元日の客)


 この文章は以前書いたような気がする。言っていることはそういうことで、そうであるから正論には逃げ道がなく、相手に突き刺さる。酒を飲んでいれば、言われればウダウダ言い訳めいたことを言ってダメージを少なくしようとする。それを相手はさらに言葉の攻撃を行う。これがカラムだ。酒の席のことだから、簡単に水に流せればいいのだが、翌日“後遺症”がくる。言った方も正論をかざしたことの気恥ずかしさに悩まされるし、言われた方は正論だけにこたえる。


 私は、一年三百六十五日のほかに酒を飲む日というのがあって、禁酒は実行していますが、今日は酒を飲む日ですから頂くことにします。(元日の客)


 これがよくわからない。山口さんはここで酒も競馬も野球も将棋も止めると宣言している。しかし酒は相変わらず飲んでいる。一年にうち酒を飲んでいい日があるでは禁酒にはならないと思うけれど。どういうことなのだろうか?
 最後の鶯の話。これは笑った。


 鶯というのは相当にうるさい鳥である。雀の比ではない。しかも、その鳴き方が、なにか稽古事をしているようなところがある。三流の花街の見番の二階に飛びこんでしまったような感じがする。
 「おや、あんた、そこが違うのよ」
 「そうかしら。駄目? ホーホケキョ、ケキョ、ケキョ」
 「そのねえ、ケキョんところよ」
 「ケキョ、ケキョ・・・・・・」
 「あんた勘がわるいのよ。そこは二上りでしょ」
 「ホー、ホケキョ、ケキョッ」
 「じれったいわねえ。・・・・・・ねえ、よく聞いてよ、ホー、ホケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョ・・・・」(四十雀)



 確かに鶯の鳴き声は稽古事をしている感じがある。なかなかうまく鳴けず、何度も練習しているようにくり返し鳴く。何度かやっていてやっとうまく鳴けた、というイメージはよくわかる。
 今年、私は一度だけこのように練習みたいな鳴き声を聞いたが、鶯の本格的な鳴き声を聞かなかった。


山口 瞳 著 『元日の客』 男性自身シリーズ 12 新潮社(1976/12発売)
by office_kmoto | 2016-06-09 08:14 | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


by office_kmoto