半藤 一利 著 『B面昭和史 1926‐1945』

d0331556_5431448.jpg 半藤さんの著作には『昭和史』、『昭和史 戦後篇』がある。いずれもこの本のように分厚い本だが、これらは歴史的事実、流れを追ってきたものである。これを「A面」とするならば、今回の本は「B面」と断るように、政治や軍部の視点ではなく民衆の視点で、昭和の初めから終戦までを描いている。

 いわゆる昭和の歴史を追っていくと、昭和の初めから終戦までの昭和20年までは日本は戦争に明け暮れた時代であった。そうなっていく理由は半藤さん先の著作に書かれている。
 それでは戦争に追い込まれた民衆の姿というものはどういうものだったのか。そしてなぜ日本国民は戦争を選択したのか。それを追ったのがこの本である。読んでいくと知らぬ間に国民は政府や軍部の言うがままにそれを受け入れ肯定していく様がわかる。そして恐ろしいのはそれがひしひしと迫ってくるのだけれども、その流れが徐々に浸透していくものだから変化に気づかない。その変化が日常生活の中に何の違和感もなく取り込まれていく。

 いまからすれば、雪だるま式に危機をふくらませ破綻したプロセスは急激に、かとみえるが、はじめは決して単線的ではなく、静かにひたひたと、いつの間にか、といった眼にみえない形で変わっていった。政治・外交・経済のみならず、われわれの日常の生活様式のこまごまにはじまって価値観といった精神の部分に至るまで、それはわからぬままに変わっていた。その時代を生きるとはそういうものではないかと思う。決して流されているつもりはなくて、いつか流されていた。


 そもそも歴史という非情にして皮肉な時の流れというものは、決してその時代に生きる民草によくわかるように素顔をそのままに見せてくれるようなことはしない。いつの世でもそうである。何か起きそうな気配すら感ぜぬまま民草は、悠々閑々と時代の風にふかれてのんびりと、あるいはときに大きく揺れ動くだけで、そういうものなのである。


 それはそれ以前からの軍部や政府の情報操作による巧みな宣伝があり煽動があったのであるが、それにうまうまと乗せられたというよりも、むしろ国民のなかに年月をかけてそれをやすやすと受け入れる素地がありすぎるほど養成されていた、といったほうがいいか。


 ではそれをやすやすと受け入れてしまう素地とは何か。それを半藤さんは次のように書く。


 人間には生まれながらにして楽観的な気分が備えられているのではないか、と思えてくる。何か前途に暗い不吉なものを感じ警告されていても、「当分は大丈夫」と思い込む。楽しくていいニュースは積極的にとりこむが、悪いニュースにはあまり関心を払わない。注意を向けない、というよりも消極的にうけとめやがてこれを拒否する。どうやら人間の脳の働きは未来を明るく想像したときにもっとも活潑化するようなのである。
 そして同じように考える仲間に出会うと、たがいに同調し合い、それが集団化する。するとその外側にいたものまでが、集団からの無言の圧力をうけ、反撥するよりそれに合わせようとする。そのほうが生きるために楽であるからである。揚句は、無意識のうちにそれまで自分のもつ価値観を変化させ、集団の意見と同調し一体化してしまう。


 さらに戦争が不当に儲かるという変な知識を国民が持ってしまった。


 ここでちょっと嫌なことをかくが、戦前の日本人はたしかに戦争とは利益をもたらすものと考えていた。そういっていいと思う。日清戦争では賠償金二億両(いまに直せば約四億円?)を得た。日露戦争は賠償金ゼロであったが、満州にたいする厖大な権益を獲得した。第一次世界大戦では南方の島々を委任統治地にして、南方進出の拠点を得たし、戦争需要に乗じて製造業と海運業は莫大な利益を得た。と、そうした歴史的事実を追ってみると、よくいわれるような、娘を身売りさせなければならなかった、そうした貧困と窮乏とが戦争へと突き進んだ原因だ、という説に首を傾げたくなってくるのではないか。


 ここで、


 世の空気に濃厚な危機感というものが醸成されはじめる。戦争が突如として日常生活の中に押し入ってきた。


 歴史とはつくづくと知らぬ間にある部分が極大化するものと思わせられる。しかもそうした水面下で起こっているおっかない変化に、民草の多くは気づかない。急激な国粋化が表面化するのは、すでに積もり積もって飽和しきったあとになる。そのときには止めることはとてもむつかしくなっている。


 そして戦争状態に日本がなって、抜き差しならぬ状態になっていることに気づき始める。戦争遂行のために上からのきびしい統制が次から次へと発せられ、日常生活の細かい部分まで干渉されることとなる。必勝の信念こそ高かったけれど、どことなく戦争指導者を信頼できなくなっていく。
 生活が窮屈になってきて初めて「これはおかしい」と悲鳴を上げても、その時はもう遅い。まさしく、


 国民とは、ほんとうにいつの時代でも、真の情報に接することのできないあわれな存在、ということ。それが歴史の恐ろしさというものではないかと思う。


 あとがきにあるが、


 過去の戦争は決して指導者だけでやったものではなく、わたしたち民草がその気になったのです。総力戦の掛け声に率先して乗ったのです。


 まさしくこの本は戦争責任を一部の指導者に責任を押しつけてしまう傾向があるけれど、政治に無関心であった国民にも十分責任があると言っている。まさしくその通りなのだ。たとえ情報が下まで降りてこない、あるいは統制されていたとはいえ、そういう社会、国にしてしまったところに問題がある。流されやすい国民性はいまでも如何としがたいところがあるのではないか。
 幸い今はその情報が昔より遙かに知り得る。もちろん隠されていることもあろう。けれど、開かれた部分から「おかしい」と思うことはどんどん声を出していかないと、国民の信託を受けたと勝手に拡大解釈する政治家が多い現在、昔の二の轍を踏みかねない。日本はこうした苦い経験を持っているのだから、それを大切にしないといけない。また日本人の特性というべき流されやすい気質もあることだから注意しなければいけない。そんなことを考えた。


半藤 一利 著 『B面昭和史 1926‐1945』 平凡社(2016/02発売)
by office_kmoto | 2016-06-12 05:48 | 本を思う | Comments(0)

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