波多野 聖 著 『本屋稼業』

d0331556_6275171.jpg この本は紀伊國屋書店の創業者田辺茂一と、佐野眞一さんが『だれが「本」を殺すのか』の中で“閣下”とよいしょする松原治との二人三脚で紀伊國屋書店を発展させてきた物語である。

 まず茂一は明治38(1905)年2月12日、市電の終点、新宿駅の前にある薪炭問屋、紀伊國屋の長男として生まれた。
 当時薪炭が家庭燃料として生活を支える時代で、新宿駅周辺には数十軒、大小の薪炭商が集まっていた。中でも紀伊國屋は軒を連ねる大店で、主は代々、大地所持ちとして新宿の有力者に遇されて来た。
 その歴史をさらに見ていくと、初代は屋号の通り紀州徳川家に仕えた足軽で、江戸に出てきて住みついた。五代目になって牛込で乾物商を営み、六代目の茂一の祖父が新宿に出て材木商を始めた。
 茂一の父鉄太郎は商家の常として尋常小学校の途中で奉公に出され小僧として働いた。それが神田の薪炭商だった縁で父の代で商売替えをしたのだ。
 ところで今の秋葉原の東口、ヨドバシカメラのあるにあたり、昔は船だまりであったらしい。そこから神田川に向かって運河があり(今は公園になっている)、鉄道で運ばれた荷物を船に載せてその運河を通って神田川に出たという。その運河のある近辺に薪炭問屋がいくつもあったと聞いたことがある。なので茂一の父が神田の薪炭商で奉公に出たのはもしかしたらこの辺りだったのではないか、と思った。
 とにかく茂一は子ども時から恵まれた境遇だった。
 大正4(1915)年の御大典(大正天皇の即位式と大嘗祭の2つの儀礼のこと)の日、茂一は父親に連れられて日本橋に来た。その時赤い煉瓦造りの建物に茂一は釘付けになる。丸善である。中に入ると茂一がこれまで味わったことのない、上質の、ひんやりした、凜とした空気が流れている。洋書の棚を見て「こんなところが世の中にあるのか」と、十歳の少年茂一は蕩けるような気分になった。
 以後茂一は本屋になりたいと思う。この時受けた衝撃から、父親に本屋をやる、と言って動き出す。


 「欲しいものは欲しい。欲しいものは手に入れる」


 子供の頃からわがまま放題に育てられてきた茂一は親戚筋から、銀座にあった近藤書店に奉公に出るが、店での接客の様子を見て、仕事がわかったと言って半日で奉公を打ち切ってしまう。
 店は薪炭問屋の紀伊國屋の薪置き場の薪を取り払って、売り場面積15坪、一階が書籍売場、2階のすべてをギャラリーにした。丸善での衝撃がこのような造りとしたのだった。


 本屋もそうだが茂一は景色が欲しいのだ。


 店主茂一の他、番頭、女子店員が二人、小僧一人の計5名でスタートした。昭和2(1927)年1月22日、茂一21歳のときであった。当時、全集時代であって、どんどん本が売れた。
 しかし空襲で店も何もかも焼けてしまい、やる気の出ない生活を送っていた。本屋はもうやらないと決めていたが、それ以外に何をやるかまったく頭に浮かんで来なかった。ただ女遊びに明け暮れていた。
 店の焼け跡の整理をしている時、戦地から帰還した元店員から店の再開を望まれ、紀伊國屋書店の再興に立ち上がる。再興には溜息が出たが、「これからもやりたいことやる。欲しいものは欲しい、でいく」と妙な自信を持っていた。
 バラックで再開した紀伊國屋書店であったが、人々は読み物に飢えていて、大繁盛する。

 一方松原治のことである。
 松原治は大正6(1917)年10月、千葉の市川で生まれた。父、平治は陸軍士官学校を出た職業軍人で、東京の砲兵連隊に勤務していた時、松原は生を受けた。兄が幼くして亡くなっていたので戸籍上は長男とされて育った。
 松原は小学校から中学校そして高校と大阪で過ごし、東京帝国大学法学部を受験し合格する。松原がいた法科学生の親睦会には、鳩山威一郎、曽山克巳、中嶋晴雄らがいる。同級には中曽根康弘もいた。
 卒業後、先輩で、後に講談社社長になる野間省一から声を掛けられ満鉄に入社する。この時野間は満鉄に勤務していた。松原はそして大陸に渡る。入社二年後、招集され、陸軍経理学校を首席卒業する。その後中国各地を転戦し、糧秣課長として、兵員や物資の輸送、補給を作戦指揮する。終戦後兵隊を日本へ帰還させる任務を終え、佐世保へ帰ってくる。
 復員後、東京に出て、大学の先輩である戦時金融公庫にいた亀井玆建の紹介で大蔵省の子会社の日本塩業に取締役営業部長として入社する。しかし日本塩業も最初のうちは景気がよかったが、そのうちじり貧になる。会社の存続問題まで来ていた。松原は再び亀井に相談する。


 「どうだい?本屋で働いてみる気はないかね?」

 「どう考えても日本塩業には将来はない。ここで仕事を思い切って変えたらどうだろう?実は僕は今、紀伊國屋書店の非常勤監査役を務めているのだが・・・・・ここの社長の経営が危なっかしくって見ていられない。ひどい言い方に聞こえるかもしれないが、よくこれまで倒産しなかったものだと感心するくらいなんだ。だから君のようなしっかりした人に入って貰えたら有難いんだよ」


 ここで松原と茂一は出会うのである。茂一は松原に言う。


 「ボクはやりたいことをやって来た。やりたいようにやって来た。二十一歳で本屋を始めて二十三年・・・・ずっと、そうだった」

 「ボクは経済も経営も分からないし、分かろうとも思わない。女性を通じて社会を理解する。それがボクのライフワークなんだよ」

 「では書店は、紀伊國屋書店は田辺社長にとって何なのですか?」

 「松原さん。ボクは本屋が好きなんだ。本屋という景色が・・・・・」

 「景色・・・・・ですか?」

 「そう、本屋の景色。十歳の時に見た丸善の洋書の棚の景色。そして紀伊國屋書店の景色。それが僕の好きなものなんだ」


 こうして茂一と松原の奇妙な二人三脚で紀伊國屋書店が動き始めた。仕事は昼は松原、夜は茂一と分担してやっていく。店は松原が仕切る。茂一は文壇や出版社との付き合いや冠婚葬祭など対外的なことをすべて受け持った。
 松原は紀伊國屋に来てから様々な問題を解決していき、本店改装、洋書販売の成功、支店の拡大、と発展していく。
 各地に支店が出来ると茂一はきれいどころを引き連れていく。それを松原は「社長はブランドなんだ。紀伊國屋書店という文化のブランド。歩くブランド・・・・・この価値は計り知れない」と思うのであった。

 松原は洋書の営業販売が好調で人を採用したいと茂一に提案したとき、茂一は次のよう言う。


 「人はたくさん採っておいた方が良いよ。僕は昔から、そうして来た。男も女も関係なく良いと思った人材は採っておく。必ず人というものは役に立つ。本屋というのは本の数だけ人が要る。そう思ってやった方が良いよ」


 このような豊富な人材がいるのも、人件費にうるさく言わずに優秀な人間たちを余らせるくらい雇って来たからで、それは利いている、と松原は思っていた。そんな優秀な人材の一人である店舗販売責任者の毛利四郎という人がいる。この人の言う言葉がいい。


 「本は売るんじゃない。お客さまの心に届けるんだ。その気持ちを持って本に接すると本の方で応えてくれる。『私は一冊しか売れませんけど、必ずその人を幸せにしますよ』『私は多くの人を喜ばせることが出来ますよ』とかね。だから、どんな本であってもおろそかに扱ってはいけないんだ」


 それにしても昔だったから出来たのかもしれないが、創業者はそうした社員のために、たとえ会社が危機的な状況になったとしても、文字通り“人材”として人を大切に守っていく。『海賊と呼ばれた男』のモデルであった出光興産の社長なんかもそう描かれていた。そうして守られた社員たちはこのように後に大きな花を咲かせる。

 しかし好きなことを好きなようにやるためには、茂一は尋常でない気配りをしていた。その疲れを知った作家梶山季之は、茂一に社長を辞めたらどうですか、と話しかけると、


 「そうだな・・・・それもいいかもしれないね」


 こうして茂一は松原に社長を譲って話は終わる。

 この本が角川春樹事務所から出版されているのは角川書店創業者である角川源義と茂一との関係があるからなのか、と思ったりする。角川源義は自ら自転車に積めるだけ文庫を積んで紀伊國屋書店に納めていた。茂一もそんな角川を楽しみにして待っていた。そして二人は将棋をさしながら営業会議を楽しんでいる風景が描かれている。

 それにしても惜しいな、と思うのはこの本には参考文献がないことである。


波多野 聖 著 『本屋稼業』 角川春樹事務所(2016/02発売)
by office_kmoto | 2016-06-29 06:30 | 本を思う | Comments(0)

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