『煙に消えた男』と『蒸発した男』

『煙に消えた男』と『蒸発した男』_d0331556_5373137.jpg またマルティン・ベックシリーズの読み比べである。新訳と旧訳の違いを味わってみた。
 新訳はスウェーデン語からの直接の訳なので、旧訳にある省略された部分がきちんと訳されていること。そしてスウェーデン語から英語、英語から日本語と訳がまたがっていることで、イメージとして違う部分があると聞いているが、新訳を読んで旧訳を読み直しみても、それほど気にならなかった。

 今回はハンガリーで忽然と蒸発したジャーナリスト、アルフ・マッツソンを雇用している出版社から外務省へ、そして警察へと捜索の依頼が届き、白羽の矢が立ったのがマルティン・ベックであった。
 当時第二次世界大戦が終わったばかりで、ハンガリーを含む東欧諸国には“鉄のカーテン”が引かれていた時代の話である。実際著名なスウェーデン人がハンガリーの首都ブタベストで姿を消した事件があり、国際問題となったことがあったらしい。
 著者のマイ・シューヴァルとペール・ヴァールーは、実際この事件を取材していた。その取材が生きて、ハンガリーの情景がこの本に描かれる。
 ベックは本当は遅い夏期休暇に入っていたが、このためすぐ呼び出され、単身ハンガリーへ行くこととなる。ベックの妻に「あなた以外に警察官はいないのか」と嫌味を言われながら・・・・。(この妻の言葉はベックの同僚たちも同じように言われているのが面白い)
 ところで新訳の柳沢さんはこの巻でもベックの子供たちの名前は出て来ても、妻の名前は出てこない、とこだわって書いている。ただし旧訳には“インガ”とちゃんと名前が出ている。ベックと妻の関係は冷め切っていて、いずれ離婚するのだが、そういう状態を知っているから、ベックの妻の名前が出てこないことにこだわるのかな、と思ったりする。妻の名前が出てこないことを今後の「伏線」と言いたいのかもしれない。
 さて話である。
 失踪したマッツソンを、見知らぬ国でベック一人、探すのは大変である。少ない目撃者の証言を頼りに街を歩き回るが、失踪後の足どりがつかめない。


 心の内で、なぜこんな仕事を引き受けてしまったのだろうと、自分の衝動的な判断を呪った。この仕事を解決する可能性はゼロに近い。孤軍奮闘、しかもなんのアイディアも浮かばないときている。万一何かアイディアが浮かんだとしても、それを実行するには何の予算も付いていないのだ。
 いや、本当のことを言えば、最悪なのは、自分が衝動からこの仕事を引き受けたのでないと知っていることだった。それは、彼の言わば警察官としての本能が引き受けさせたものだった。コルベリが休日を返上して調べ物をしたのと同じ<内なる力>に突き動かされたのだ。それは彼に任務を引き受けさせ、最善を尽くして解決までもっていかせる、ある種の職業病のようなものだった。(柳沢 由実子 訳)


 そこにハンガリーの警察官であるヴェルモス・スルカ少佐がベックに近寄り、限られた情報を教えてくれることとなる。
 ベックはこの失踪事件をどこかしっくりこないことを感じていた。ベックは街を一人歩き回っているうちに、自分を尾行する者がいることに気がつく。そしてついにベックは襲われた。しかし窮地を救ったのはハンガリーの警察のスルカであった。
 犯人達はこのハンガリーでマッツソンと接触していた麻薬取引者であった。マッツソンは彼らから麻薬を仕入れに度々東欧で彼らと接触していたのだ。しかし彼らもマッツソンの行方を知らなかった。
 マッツソンはそもそもハンガリーに来ていなかった。誰かがマッツソンに変わってハンガリーに入国し、すぐ出国したのであった。ベックがこの失踪事件がどこかしっくりこない理由がここにあった。
 マッツソンはハンガリーに入国する前に、呑み仲間とのいざこざで殺されていた。

『煙に消えた男』と『蒸発した男』_d0331556_5385382.jpg 基本的に私は旧訳である高見浩さんの訳の方がこのシリーズの登場人物のイメージにぴったりだと思っている。刑事というのは男の世界であるところが大きく、柳沢さんの訳だとどうしてもやさしすぎる。
 一つ新訳と旧訳を較べてみたい。ハンガリーでベックを襲った犯人が許しを乞う場面で犯人に言った言葉である。


 「ちょっと待て、ヘル・ラーデベルゲル。私個人のことで言うのではないが、昨日、あんたは自分の都合で一人の人間を殺そうとした。殺すことが目的で計画を立て、襲いかかった。たまたまそれはあんたたちの意図に反し失敗したが、その行為は、人の命、人には生きる権利があるという基本原則に対する重大な犯罪なのだ。あんたのやったことはそういうことなのだ。許してはならないことなのだ。考えなさい」(柳沢 由実子 訳)


 「待ちたまえ、ラデベルガー君。わたしはきみに個人的な怨恨をいだいているわけじゃない。きのうきみは、自分の保身をはかるために他人を殺そうとした。周到に練ったその殺害計画が幸い挫折したのは、きみのおかげじゃない。きみの行為は法に違反しているばかりでなく、人生の基本的なルールと重要な規律をも犯している。だから許せんのさ。それだけだ。よく考えたまえ」(高見 浩 訳)


 ね、旧訳の方が男っぽいでしょう。最後の「考えなさい」より、「よく考えたまえ」の方がベックのイメージにぴったりだと思う。でもまた柳沢さんの新訳が出たら、同じように旧訳と較べて読んでみたい。私は別に新訳を非難しているわけではなく、訳によって、あるいは訳する本によって違いのあるのが楽しいのである。

 柳沢さんの“訳者あとがき”にこのマルティン・ベックシリーズも、「警察小説の古典」になっているという言葉はちょっとさびしいな、と思った。
 

マイ・シューヴァル/ペール・ヴァールー 著/ 柳沢 由実子 訳『煙に消えた男―刑事マルティン・ベック』 KADOKAWA(2016/03発売) 角川文庫


マイ・シューヴァル/ペール・ヴァールー著/ 高見 浩 訳『蒸発した男』 角川書店(1977/05発売) 角川文庫
by office_kmoto | 2016-07-13 05:40 | Comments(0)

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