山口 瞳 著 『卑怯者の弁』

d0331556_6383196.jpg 今回のシリーズはわりと面白かった。
 山口さんの自宅が大雨で浸水した話。戦争肯定みたいな清水幾太郎の論文に関する反論。そして第一次長島監督の更迭の話であった。
 山口さんの自宅は“変奇館”と自ら称している今で言えばデザイナーズハウスであろう。要は家のデザインに凝りすぎていて、逆に住みにくいというやつ。おそらく山口さんもそのことは実感してしていて、そのことを書いている。
 しかし家を新築するときはデザイナーさんに任せたのだから、文句は言わないと自戒する。負けず嫌いのところがある。住みにくさは慣れることで解消しようとしていた。その凝ったデザインの家に住んでいる山口さんの感想が書かれる。


 「建築家というのは、住む人の身になって建ててくれる人と、自分の作品を発表する人の二種類にわかれます」
 これは単純明快なるところの名言であって、含みの多い言葉である。
 私の家は、その作品のほうである。
 作品に住むと、何か前衛演劇を見ているような按配になる。何が起こるかわからない。鼻づらを持って引きずり廻すようなところがある。ああなって、ということがわかり、うまいなあとか下手だなあという感想なり批評なりがすぐ湧いてくる。
 作品のほうには法則がない。自由自在である。本当は法則があるのかもしれないが、こっちにはわからない。そこで、住んでいて違和感が生じてくる。これに馴れるのが大変だ。また、どうしても厭だと思って手直ししようとしても、近所の大工では手がつけられない。つまり、法則がない。寸法があわない。


 これ、私の自宅にも当てはまる事柄なのでよくわかる。変にデザインに凝ってしまって、実際住んでみると、あれこれ問題が出てくる。暮らしにくい部分があちこちに出てくる。そして確かに寸法に問題が出て来たり、特殊な照明のため、電球を変えるのさえ、専門店で買わないとならないこともあった。それでも30年近く住んでしまうと、からだのほうが家に慣れてしまい、「仕方がない」と諦めて暮らしてきた。それが当たり前になってしまったのである。

 山口さんの家が集中豪雨で地下室が水没した。当然大騒ぎになる。その模様が七回に渡って描かれる。
 その水害の顛末を何回も書いてきたものだから、読者は「水害」ではなく「水割(みずわり)」と読んでいた人がいたというのは笑ってしまった。


 「あんたのことだからよう、スイガイじゃなくてウイスキイのミズワリだと思っていたんだ。いつ酒の話になるのかと思って読んでいたら、とうとう出てこない。終ってみて、やっと水害だっちゅうことがわかったんだ」


 野球の巨人軍の話が度々出てくる。山口さんは根っからの巨人ファンではないと言っていているが、野球が大好きときているし、長島や王とも交友があるので、巨人軍に一言持っている。当時「江川問題」で球界は揺れていて、世間の人には巨人にダーティなイメージが付きまとった。


 巨人軍は正義の味方だった。いや、正義そのものだった。礼儀正しく、汚いことをやらない人たちの集まりだった。私は、巨人軍というチームは、子供たちにとって、現代における修身の役割を果たしていると書いたことがある。いや、大人もそう思っていたのである。正義の味方が悪漢たちに苛められる。ところが、王ちゃんという英雄があらわれて、夏場にポンポンとホームランを打って逆転勝利となる。そんな筋書で楽しんでいた人も多かったのである。そこまでいかなくても、会社から帰ってきて、ビールを飲みながら巨人軍の試合を見るのが最大の愉快としていた人がいる。そこには、ルールがあり、ごまかしのない数字があると思っていた。


 それが「江川問題」で崩れた。巨人軍に対して不満を漏らすようになった。長島が監督となり、成績不振で更迭される。それも現役時代ヒーローだった長島が、フロントの意思で更迭される。つまり巨人軍にあれこれ問題が噴出した。
 これって巨人の野球が庶民の生活の楽しみ一部として同化していた時が長かったから、一端問題が出てくると、不満は一気に高まる。そして時代は楽しみが野球だけじゃなくていくことも時代の流れにあって、プロ野球が低迷することになる。テレビの野球中継がなくなったことがそれを物語っている。松井以来ヒーローがいなくなった。
 今では巨人軍には、野球賭博で逮捕者が出る時代である。山口さんが生きていたら悶絶するぐらい、腹立たしく書いたことだろう。

 野球に限らず今のスポーツには裏の部分が時々顔を見せる。健全でクリーンなんてありえない、とわかっている。だからこそ純粋にそれを楽しんで見ていた時代が懐かしい。
 ところでこの頃思うのだけれど、今の風潮って、どこか陰湿だ。スポーツに限らず、芸能人の不倫、都知事の公私混同、自動車の燃費改ざんなど、確かにあってはならぬことではあるけれど、一つ不祥事があれば、立ち上がれぬほど、それをたたきのめす。完全に“逃げ道”を断つ。それで不祥事の再発を防ぐということにしてしまう。だけどそうしてひとつひとつ逃げ道をなくしてしまうと、何もかも窮屈になり、最後は何も出来なくなってしまうように思える。そして今度それが自分たちに跳ね返ってくる。やりにくくなる。生きづらくなってしまう。
 もちろん悪いことは悪い。しかし・・・・。
 このあたりの落としどころって、昔はもう少し余裕があったように感じてしまう。

 話が長くなった。
 清水幾太郎さんの再軍備論文についての山口さんの態度は、確かに国を守るというのはわかるとしても、それでも経験上から、戦地で子が死に母が悲しむ。妻が家族が悲しむ。そんなことをしてはならない、と思う。人として根本的なところで悩む。
 私は物事を大上段に構えて論ずるよりも、こうした気持ちの上で論ずることに心が動かされてしまう。感情論に弱いのである。しかし一方でこれを持ち出すと何もまとまらなくなることもわかっている。この時の論文に対する反響というものがあったかどうか知らないが、お互い歩み寄れない理由は、多分今の安保法の議論と同じではないか。


山口 瞳 著 『卑怯者の弁』 男性自身シリーズ 16 新潮社(1981/03発売)
by office_kmoto | 2016-07-23 06:41 | 本を思う | Comments(0)

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