吉田 八岑/遠藤 紀勝 著 『ドラキュラ学入門』
2016年 08月 21日
今さらドラキュラなんていうのを持ち出す理由はないのだが、本棚を眺めていたらちょっと気になり、読んでみた。
ドラキュラといえば、夜中墓から出てきて美女の血を吸う。ニンニクと十字架が苦手というくらいの知識がない。多分映画の一場面を記憶しているのだろう。
この本を読んで知り得たことを書いてみると、ドラキュラを中心とする吸血鬼伝説というのはスラブ世界がその発祥地といわれている。なぜここなのかといえば、ここは「キリスト教の席捲に従い、スラブ世界既存の汎心論的信仰との混淆現象が指摘されている」からだ。
ドラキュラの定番として、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』があげられる。小説では歴史上実在した悪逆無道の君主ヴラド・ツェペシュを連れ戻しドラキュラのイメージを託した。このヴラドの非道ぶりをいくつかこの本では紹介しているが、何でも捕虜を生きたまま串刺しにしたため、“ヴラド串刺し公”と称されている。
女性の吸血鬼モデルもいた。ヴラド・ツェペシュ公とは縁続きともいわれるエリザベート・バートリー伯爵夫人である。彼女は不老不死、永遠の美を求めるあまり、生け贄の血を搾り取り、その中に身を浸した。
このようにドラキュラが血を吸うのは血が生命の源と考えられたからだし、若い女性をの血を吸うのも永遠の美を求めるところがあったからだろうということはわかった。
著者たちは吸血鬼がいまわしく思われる原因の一つを吸血鬼が「血」を吸うことをあげる。そして吸血鬼が血を吸うことの起源を「いわば同族嗜食、共食い」に求める。いわゆるカンニバリズムである。
人類の歴史にはカンニバリズムは度々ある。たとえば我々は飢えの極限状態から生じるカンニバリズムを知っている。近くはあのアンデス山中に不時着した飛行機の乗客が生きるために人肉を食べたことを「アンデスの聖餐」として知っている。
ただこのような話は、悲劇的な事情に対する、ある種の同情と共感から割り引きされるのか、それほど非難の声が高くならない。ところが同じ人間の肉を食うことに変わりはないのだが、これが呪術的、あるいは宗教的なセレモニーで行ったとすれば、それも世界観の違うことで、いたしかないなどとは決して言わない。即座に、野蛮人、原始人、先祖返り、狂人のレッテルを貼られ、社会から抹殺されるはずである。しかし共食いを単に心理学や既成道徳ぐらいの材料だけで解釈できるなどはとうてい思えない。なぜなら吸血鬼伝説の根強さが、人間の精神から発したとすれば、吸血鬼伝説に連なる人肉嗜食も太古の血にその根源があると思われるからだ。
このカンニバリズムには、大きく分けて二つの意味が含まれていることだ。一つは敵を征服した確認行為として食う場合と、もう一つは敵、味方に関係なく、かつて生前に絶大な力を持っていた者の肉体は、死後もその力を内在させているという考えから、その肉体を食うという行為で、おのれの肉体に相手の持っていた力を引く継ぐ、すなわち精神的な遺産も奪えるという観念から行われる嗜食なのである。
もう一つ血に関して重要な行為がある。生け贄である。
神々や祖霊に人間のもっとも重要なものをささげることによって、はじめて神々あるいは神的な存在となった祖霊を敬うことになり、恩恵を受けることができたのである。それは生命であって、その源である血となった。ささげられる血は、いわゆる「聖なる血」であった。
こうしたいけにえと血の信仰が、民間では死者が血を求めているという吸血鬼信仰にもなったいえる。
このように人間自身が自分たちの血と肉に別な意味を見出してしまう傾向が土俗的にある。当然それは恐怖を伴うものだから、センセーショナルでもある。もともと人間にはそうしたことを求めてしまう「性質」があるのかもしれない。だからドラキュラ伝説は広まった。
かつてキリスト教は何世紀にもわたって死者の霊に永遠の生命を賦与することで、信者の救済を図ってきたが、すべてが満ちたりたわけではなかった。一部の異端者や無神論者たちは、このキリスト教の霊魂偏重主義に押し潰されまいと、また帰依点をプリミティブな土俗信仰へともどしたからである。
彼らは精神的慰めよりも、現実的な肉体が持つ「血」や「肉」に不老不死を求めたのだ。
ここにいたり、東欧の暗い伝説闇に産声をあげた「吸血鬼」は、土俗的な因習の殻を抜けだすと、その奔放なイメージを西欧に全域にばらまくことになった。すなわち、生命の源と考えられた「血」への渇望は、よみがえる死者、歩く死体、腐敗しない肉体といった形而上の恐怖をつぎつぎに生みだしたのである。
ではもうひとつの恐怖である、ドラキュラが墓から出てくる起源はどこにあったのだろうか。
西欧では死者を野辺送りする場合、犯罪者、あるいは疫病死の死体などは火葬にすることもあったが、多くは土葬で死者を葬っていたのである。死が訪れたと判断された人間は棺の中に封じこめられ、もしくはむきだしのまま穴に埋められたのである。
だが生きている人間がこの事態を想像したとき、死の判定に誤りがあって、埋められてから息を吹き返すしたらどうなるのだろうという恐怖が生まれたのだ。
実際そんな例がいくつかここに書かれている。死んだとして埋葬され、墓の中で息を吹き返し、そのまま悶え苦しんで今度は本当に死ぬ。その墓を掘り返してみれば、苦しみ、恐怖に悶え苦しむ醜く歪んだ死者の顔を見てしまう。
こうして生きたまま埋葬されることはそうそうあったことではなかろうが、少なくとも土葬だからこそあり得た話であったろう。
火葬の習慣の土地には吸血鬼信仰は生まれない。土葬だからこそ、墓を掘り起こして、遺体の腐敗というおぞましい姿と恐怖の対面をすることになり、吸血鬼の存在を知ったのである。復活のために肉体が必要だったが、まかり間違えば吸血鬼としてよみがえる危険性もあったのである。
早すぎた埋葬による「よみがえった死者」の記録が、に吸血鬼の存在を信じさせる温床ともなったのである。
吉田 八岑/遠藤 紀勝 著 『ドラキュラ学入門』 社会思想社(1992/03発売) 現代教養文庫