沢木 耕太郎 著 『キャパの十字架』
2016年 09月 02日
ここに一枚の写真がある。
この本はこの一文から始まる。写真はこれである。写真の題名は『崩れ落ちる兵士』である。
有名な写真だ。この写真を撮ったのはロバート・キャパ。
それは写真機というものが発明されて以来、最も有名になった写真の一枚でもある。中でも、写真が報道の主要な手段となってから発達した、いわゆるフォト・ジャーナリズムというジャンルにおいては、これ以上繰り返し印刷された写真はないように思われる。
調べてみると、歴史的に交戦中の兵士が撃たれた瞬間をあのように鮮やかに捉えた写真はこの『崩れ落ちる兵士』の他にはほとんど存在しない。
だが、この写真を撮ったとされるロバート・キャパは、それについて死ぬまで正確な説明をしようとしなかった。そのため、この写真に関してはいくつもの謎が残されることになった。
これはいつのことなのか。
ここはどこなのか。
この人物は誰なのか。
これはどのような状況なのか。
それをどのように撮ったのか。
つまりこの写真の真贋が問われていた。この本はこの一枚の写真の謎を追ったものである。
ここにおいて、私たちは、その迫真力を信じるか、撮れるはずがないという常識的な感覚に支えられた状況証拠を取るのかの、二者選択を迫られることになるのだ。
1996年9月2日の朝日新聞の夕刊に、スペインのアマチュア郷土史家が根気よく調べて、この写真に写っている兵士はフェデリコ・ボレル・ガルシアという青年であることがわかったと報道される。フェデリコ・ボレル・ガルシアは1936年9月5日のセロ・ムリアーノで戦死している。これでこの兵士の名前、写真が撮られた場所が特定できたことになる。しかし2009年7月18日のAFP通信が写真が撮られた場所は、セロ・ムリアーノではなくて、エスペホであると明らかにした。この調査をした人がJ・M・ススペレギという大学教授であった。沢木さんはスペインへ飛んで、この教授に会いにいき話を聞く。
①「崩れ落ちる兵士」の写真が撮られた場所はセロ・ムリアーノでなくエスペホである。
②たとえ「崩れ落ちる兵士」の写真が戦闘中のものであったとしても、エスペホで戦闘が始まったのは九月二十三日である以上、撮られたのは九月五日ではない。
③そこがセロ・ムリアーノでなく、撮られたのが九月五日でないのだから「崩れ落ちる兵士」はフェデリコ・ボレルではない。
④この「崩れ落ちる兵士」の写真はライカではなくローライフレックスで撮られている。
⑤「崩れ落ちる兵士」の写真は、三脚を使い、兵士にポーズを取らせて撮っている。
これがススペレギ教授の見解であった。
ここで④の写真がライカではなく、ローライフレックスで撮られているということが注目に値する。この写真のネガは紛失していて、オリジナルに近いと思われる写真の縦横の比率がライカでは撮れないことを証明している。
ではキャパがライカで撮ったとされるこの写真がローライフレックスで撮られたとなれば誰がこの写真を撮ったのか。
それにしても、「崩れ落ちる兵士」がローライフレックスで撮られていたものだとすると、これを撮ったのはキャパではなく、ゲルダだったということにならないか。
スペイン戦争の一回目の取材では、キャパとゲルダはライカとローライフレックススの二台のカメラを持っていた。そして、主としてライカをキャパが使い、ローライフレックスがゲルダが使ったことになっているのだ。
ゲルダとはキャパの恋人である。本名はゲルダ・ポポリレという。キャパが本名アンドレ・フリードマンからロバート・キャパと名乗る同時期にゲルダ・タローと新しい名前を名乗る。当時モンパルナスの芸術仲間の一人であった岡本太郎から貰ったものである。ゲルダはスペインで内戦が勃発するとキャパに連れられスペインに行く。
その後ゲルダはキャパのマネージメントの方を引き受けるが、1937年ゲルダは暴走した共和国軍の戦車が衝突し、ゲルダは轢かれ重傷を負い、翌日死亡した。26歳であった。
では、エスペホの丘で何が起こったのか。いろいろ検証していると、この写真には不自然なところがある。
このように見てくると、その他の特別な条件が加わらないかぎり、スパニッシュ・モーゼルの一発の弾丸で、斜面を駈け降りてくる兵士を後方に吹き飛ばすことは不可能ということになる。
つまり、「崩れ落ちる兵士」は撃たれて倒れたのではないことになるのだ。
キャパが「崩れ落ちる兵士」について語ろうとしなかったのは、崩れ落ちている兵士が撃たれておらず、そこに「敵」がいたわけでもなかったからだったのだ。
と言うことは、この写真は“やらせ”ということになるのか?
ここにもう一枚写真がある。「突撃する兵士」と名付けられた写真だ。
この写真が注目に値するのは後方にいる兵士である。この兵士の服装から、これは「崩れ落ちる兵士」と同一人物だと推定できる。しかも持っている銃が逆さになっていて、腰が低く落ちている。しかもこの写真は「崩れ落ちる兵士」とほぼ同じ瞬間をとっている。
当時キャパ達が持っていたライカとローライフレックスには連射装置など付いていない時代である。ということはこの瞬間を二台のカメラでねらっていたことになる。
つまりこの「突撃する兵士」の奥にいる兵士は「崩れ落ちる」の一歩手前の姿ではないか。
あの「崩れ落ちる兵士」は倒れるポーズをとってもらったかどうか。答えは「ノー」である。もしポーズをとってもらっていたとするなら、同じ対象を撮っていたはずの二台のカメラのうち一台が、別の対象の陰に隠れてしまうような位置で撮るはずがない。それは、「崩れ落ちる兵士」の倒れ方が撮り手の予期していないものだったことを物語っている。「崩れ落ちる兵士」は、偶然、倒れたのだ。
では誰がこの「崩れ落ちる兵士」を撮ったのか?そこには二台のカメラがあり、二人のカメラマンがいた。
最も自然な考え方は、キャパがライカで「突撃する兵士」の写真を撮り、少し離れたところからゲルダがローライフレックスで「崩れ落ちる兵士」を撮った、ということである。
ここで沢木さんの結論は次のようになる。
①「崩れ落ちる兵士」の写真はセロ・ムリアーノではなくエスペホで撮られたものである。
②「崩れ落ちる兵士」は銃弾のよって倒れたのではない。
③しかし、「崩れ落ちる兵士」はポーズを取ったわけではなく、偶然の出来事によって倒れたと思われる。
④そのことは「崩れ落ちる兵士」の写真とほぼ同じタイミングで、異なる地点から撮られた「突撃する兵士」の写真によって確認できる。
⑤その場には、二台のカメラがあり、二人のカメラマンいた。
⑥「突撃する兵士」は丘の窪地のような低いところから撮られている。
⑦「崩れ落ちる兵士」は丘の斜面上で撮られている。
⑧低いところから、目の前を走り抜ける人物を撮ろうするカメラにふさわしいのはライカである。
⑨「突撃する兵士」はライカでキャパが撮った可能性が高い。
⑩とすれば、「崩れ落ちる兵士」はローライフレックスでゲルダが撮ったということになる。
これがキャパが「崩れ落ちる兵士」について語らなかった、いや語れなかった真実ではないか。だから、
キャパは、戦場でこそ生き生きと生きられるタイプのカメラマンだったが、それだけではなく、やはり脳裡には常に「崩れ落ちる兵士」の幻影がちらついていたように思われるのだ。いつか「崩れ落ちる兵士」以上の写真を撮りたい。いや撮らなければならない、と。
そしてもう一つの傑作「波の中の兵士」が彼を救った。沢木さんはこれについて次のよう言う。
たぶん、あの「波の中の兵士」という疑いようもない傑作が撮れたとき、キャパはようやく「崩れ落ちる兵士」の呪縛から解き放たれることになったのだろう。「崩れ落ちる兵士」の呪縛、つまりキャパの十字架から。
この本はなかなか実証的で、しかも説得力のある話の展開であった。さすが沢木耕太郎だと思わせる。久しぶりにゾクゾクしながら一気読みした。
キャパは1954年『ライフ』の依頼で第一次インドシナ戦争の取材依頼を受け、北ベトナムに渡る。そして地雷に抵触、爆発に巻き込まれ死亡した。
沢木 耕太郎 著 『キャパの十字架』 文藝春秋(2013/02発売)