沢木 耕太郎 著 『キャパへの追走』

d0331556_13533795.jpg カメラマンのロバート・キャパが、世界のさまざまなところで撮った現場に赴き、いまそこはどのようになっているのか、実際に自分も同じ構図で写真を撮って比べてみようという試みの旅である。


 と沢木さんが書いている通り、キャパが撮った写真の現場は今はどうなっているのかを訪ねた旅であった。前回の『キャパの十字架』の姉妹編となっている。
 ただキャパが撮った写真の現場を今訪ねても、その風景が残っていないこともある。その場合見当を付けて大体ここであろうとか、こんな感じかな、というところである。まあ、細かいことにこだわるより、その時撮った沢木さんの写真で並べることで、キャパの写真が引き立たせる。
 キャパを訪ねる旅を続けることで、沢木さんは、キャパ自身のことを、キャパの写真をあれこれ考える。たとえばなぜキャパのが未だに魅力があるのかを考えてみる。


 キャパの写真がいまもなお力を持ち続けているのはなぜなのか。
 ひとつには、彼の撮った対象が「歴史」だったからということがある。たとえば、その対象がスペインの内戦や第二次世界大戦といった戦争であれ、レオン・トロツキーやパブロ・ピカソというような人物であれ、それ自体が二十世紀の「歴史」と言い得るものだった。と同時に、キャパという人物が歴史的な存在となったため、彼の撮った写真は、彼が撮ったというまさにそのことによって「歴史」になってしまったという側面があるのだ。
 しかし、ただそれだけなら、すでに死後半世紀以上も経ったいまもなお、これほどの人気には、やはり独特な何かがある。カメラマンとして、キャパは例外的な、あえていえば特別な存在だった。他のカメラマンにはない、人々を惹きつける大きな魅力を持っていた。


 キャパはなぜカメラマンとなったかを思っている。
 キャパは17歳の時ハンガリーを離れてドイツに向かい、そこでジャーナリズムへの道をペンではなくカメラに求める。その間の事情を、後にこう言っている。


 「学業を続けているうちに、両親の資力が底をつき、私は写真家になることを決意した。それが言葉のしゃべれない者がジャーナリズムに近づくもっとも手っ取り早い方法だったからだ」


 沢木さんは吉田ルイ子を例に言う。


 たとえばそれは、ジャーナリストになろうとアメリカに渡った日本人の吉田ルイ子が、自分はいつまでたってもあのテレビのキャスターのようには英語をしゃべるようにはなれないだろうと悟り、カメラマンになっていくプロセスと驚くほど似ている。そこに、世界の中で非力な言語を母国語にしてしまった者のひとつの困難さがあるのだ。


 そしてもう一つ、別の理由もあるのではないか。


 その「内戦」が始まると、キャパは何がなんでもスペインに行こうとした。もちろん、右派の反乱軍に立ち向かう左派の共和国側にコミットしたいという意識があったのは確かなことだろう。だが、ここで重要なのは、キャパの心の中に「戦争のあるところに行けばいい写真が撮れるはずだ」という思いがあっただろうということである。さらに言えば、「いい写真が撮れれば有名になるだろうし、もっとお金が入るかもしれない」という素朴な野心があったはずだということだ。二十二歳のキャパにとって、スペイン内戦は「正義」の側に立って戦争を報道するという使命感以上に、野心を満たすための、いわば一種の「冒険」の対象だったのではないかと思われる。


 キャパの実質的なデビュー作は、コペンハーゲンで講演中のレオン・トロツキーを撮った作品である。この写真を見て沢木さんは、キャパのカメラのテクニックよりも、「運」の強さを指摘する。


 しかし、この写真はキャパの撮影上のテクニックとか美意識といったよりも、カメラマンとしての「運」を多く物語っているように思える。そういう歴史的な場所に行けたこと、そしてトロツキーを撮ったらこういう写真が撮れてしまったということ、その作品が大きな写真週刊誌に発表されたということ、しかもそれによって作品が残されたということ、このすべての要素がカメラマンとしてのキャパの「運」の強さを物語っている。


 実際キャパはカメラマンとしてとても運の強い人だったようだ。歴史的な人物に遭遇したこと、撮った写真が現像の不手際があっても、それがかえって写真をより効果的に見せる結果となり、後世残ることになるなど、もしかしたらテクニック以上にその運で彼は有名になったと言えそうである。
 そして何よりもその「運」に遭遇するのは、やはり戦場であった。キャパの写真は戦場での写真がひときわ引き立つ。それはキャパは戦争が終わり、いわゆる戦場カメラマンを“失業”し、ポートレートとして撮った写真を比較してみても輝きがないことがわかると沢木さんは言っている。


 しかし、そこで撮られた写真は、それまでの戦場での写真に比べると希薄な印象しか残さない。キャパは「戦争写真家」として失業したことを喜んでいると言いながら、真に撮るべき写真のテーマを見失っていったかに思える。


 キャパの悲劇。それは四十歳で早逝してしまったということより、嫌悪してやまなかった戦争の下でしかよりよく生きられなかったこと、そしてそこにおいてしか「傑作」を撮れなかったということの中にあったと、私には思えてならない。


 だからキャパの死を招いてしまったインドシナへ行くことになってしまった。行くしか自らの写真に命を吹き込めなかったのかもしれない。もちろん野心もあったろう。自分の写真が輝ける場所は戦争しかなかった。


 それにしても、なぜキャパは嫌悪していたはずの戦場に赴いてしまったのか。
 日本で大歓迎され、伝説の写真家であることの心地よさを再確認したから、もうそろそろ華々しい戦場写真を撮る必要があると思ったのではないか、と。


 五月二十五日、キャパはフランス軍に同行し、田園地帯にある要塞から撤退作戦を取材した。しかし、そこで、ヴェトミンによって仕掛けられた地雷を踏んでしまう。行動を共にしていた他のジャーナリストたちが急いで駆けつけると、仰向けに横たわったキャパは、片脚が吹き飛ばされ、胸がざっくりと抉られていた。だが、手にはカメラが握られたままだった、という。
 一九五四年五月二十五日、ロバート・キャパという名を持った男が死んだ。彼は四十歳だった。



 私はこのキャパの写真の場所を訪ねる紀行文で、沢木さんがふと漏らす言葉が印象的だったことも書いておく。


 何事も、過ぎ去ったり、失ったりしないとその本当の価値はわからないものなのだ。


 私は、あらためて思わないわけにはいかなかった。戦争を声高に語ったり、煽ったりする人たち、決してこのような場所で殺されたりすることのない、安全地帯にいる人たちなのだ、と。
 たぶん、今でも、なお。



沢木 耕太郎 著 『キャパへの追走』 文藝春秋(2015/05発売)
by office_kmoto | 2016-09-06 13:58 | 本を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


by office_kmoto
プロフィールを見る
画像一覧
通知を受け取る