山口 瞳 著 『梔子(くちなし)の花』

d0331556_15194623.jpg この本も短編小説集である。
 「侘助」という短篇が気になった。

 峰岸は学生時代から続けているスクラップ・ブックが厖大な量となっていた。もちろんきちんと分類されている。同期だった河村は新聞社時代、峰岸のスクラップを使わせてもらって仕事をしたので、このスクラップにだいぶ助けられた。
 その峰岸がおかしくなったという。河村は峰岸がおかしくなったのは、マイクロフィルムが開発され資料室が整備されたので、峰岸のスクラップ・ブックを必要とする人がいなくなったからではないか、と推察する。峰岸のスクラップ・ブックが役に立たなくなったことによって、峰岸はおかしくなったのだ。
 これを読んで新聞の文化欄にあった大宅壮一文庫が赤字続きで経営が厳しくなっているというのを思い出す。
 大宅壮一文庫とは雑誌の図書館として知られている。ライターなど昔は結構利用されていたが、今はインターネットなどの普及により利用者が激減しているというのである。
 これと同じだな、と思ったのである。今はパソコンで検索すれば、すぐそこで必要なデータが閲覧出来る。だから峰岸のスクラップブックも必要なくなってくる。
 そしてなにより必要とされていると感じるから、やっていることに意味が持てた。人のやることって何か意味が見いだせないと、無駄になる。
 確かに峰岸のように、一見趣味的なスクラップ・ブックの作製でも何らかの形で他人に役立つ、と思えるから、せっせとスクラップをしても張り合いがある。それがある種のモチベーションとなっていたところがあったのではないか。それが必要ともされないとなると、堪えるだろうな、と思ってしまう。
 自分では人に役立っていると思っていても、そうではなかった、というのは、案外きつい。そしてそういうことって人生に多々ある。いつの間にか独りよがりになっていることに気づいたとき、大声をあげて叫びたくなる。
 こうしていつまでも昔ながらの仕事をしている人は職を、生きがいを失っていく。効率化、経費の削減などと言って、技術の進歩を歓迎する風潮は、一方でこつこつとやって来た人たちを排除していく。
 養老孟司さんは『バカの壁』のなかで、共同体の崩壊を言い、リストラはよほどのことがなければやってはいけないことだと言う。


 昨今は不況のせいで、どこの企業でもリストラが行われている。しかし、本当の共同体ならば、リストラということは許されないはずなのです。リストラは共同体からの排除になるのですから、よほどのことがないとやってはいけないことだった。
 本来の共同体ならば、ワークシェアリングというのが正しいやり方であって、リストラは昔で言うところの「村八分」だから、それを平気でやり始めているあたりからも、企業という共同体がいかに壊れているのか、ということがわかる。



 私は“肩をたたかれた側”の人間だから、これ以上言えば恨み言になる。結局そういうことなんじゃないのかな、といった程度で養老さんの言葉を引用した。

 スクラップ・ブックの話から言えば、実は私もそれをやっている。新聞記事の切り抜きである。昔使って途中で止めていたスクラップ・ブックがあったので、それを使っている。気になる、あるいは興味のある記事をスクラップしている。これはまったくの個人的な興味だけでそうしている。
 永井龍男さんみたいに、新聞の切り抜きから、面白い文章が書けるわけではないが、ときたまこのように参考程度に使うことがある。


山口 瞳 著 『梔子(くちなし)の花』 男性自身シリーズ 22 新潮社(1987/05発売)

by office_kmoto | 2016-09-18 15:21 | 本を思う | Comments(0)

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