神吉 拓郎 著 /大竹 聡 編 『神吉拓郎傑作選』 〈2〉食と暮らし編
2017年 02月 02日
私は神吉さんの本を読むのは初めてなので、まずは本丸の小説を読む前に、その人なりの一片でも解ればとエッセイを読む。なので順序が逆になる。
このエッセイは副題にある通り、食と暮らしに関するエッセイを集めてある。
読んでみると、痛く同意してしまうところがあって、なかなかよろしい。
ヘミングウェイの『老人と海』で老人が片手でナイフを持って魚の切り身を食べるシーンを書く。老人は「力をつけておかなければ・・・・・」と呟く。
それをうけて著者は次のように言う。
この、力をつけておかなければ、という言葉には、次第に衰えつつある年齢の人間しか解らない響きがある。
それを感じ取れるようになったということは、つまり私も、体力の衰えを実感しているということなのだが、それは仕方がない。何時までも往時の体力気力を保ち得ているような錯覚に囚われていたのでは、人生ちぐはぐになるばかりである。
ところで、この、力をつけておかなければ、という発想だが、これはどっちかといえば、気の弱りから来るのだろうと思う。(サラダと人情)
体力、気力の衰えは日々感じるところであるが、何時までも若い頃のようにはいかないもんだ、と自らの体力、気力の衰えを感じたとき、やはり寂しいものである。が、著者の言う通り、いつまでも若いつもりでいるから、そう感じるのかもしれない。確かにこういうとき「人生ちぐはぐ」になっている。
ナマガキのノド越しの面白さは、なにか間違ったものを呑み込んでしまったのではないかという面白さである。(牡蠣喰う客)
なるほど、これは言えているかもしれない。
といっても生牡蠣を食べたのはもうだいぶ前のことである。一度牡蠣にあたってか、牡蠣を敬遠している。
そういう湯豆腐の長所を一括してみると、共通するのは、安心ということである。(鳴るは鍋か、風の音か)
これもうまい言い方だ。湯豆腐には安心というか気安さがある。鍋の中で揺れ動く豆腐にも、そこからのぼる湯気にもその気配がある。そしてなにより美味しい。昨日も食べたが、湯豆腐はこの時期、我ら老夫婦の定番である。
幕の内という言葉は、小さく俵型に結んだご飯からきているのだが、子むすびは相撲でいえば幕の内、という洒落から、そういわれるようになったのだと辞書に出ている。(松花堂など)
へ~え、そうなんだ。
だいたいデザイナーにかかると、使いにくいものが出来るのは不思議である。特に食器と家具が信用できないのはどういうことだろう。(匙)
これは食器や家具に限らず、すべて言えることじゃないか、と思っている。見てくれにこだわるものだから、使い勝手は二の次となるようである。特に家。我が家そうである。建築デザイナーが頑張っちゃったものだから、変なところで使い勝手が悪い。そして家ばかりはそうであっても我慢して住み続けなければならない。むしろ自らその住みづらい家に馴染ませなければならない、涙ぐましい努力を強いられる。
山口瞳さんの家もそうだった。山口さんは痩せ我慢して、何とかそんな家に馴染もうとしていたのを思い出す。
神吉 拓郎 著 /大竹 聡 編 『神吉拓郎傑作選』 〈2〉食と暮らし編 国書刊行会(2016/10発売)