川本 三郎 著 『東京暮らし』
2017年 04月 19日
読書ノートを作っている。もう三十年以上になるから二十冊近くなる。といっても読んだ本の内容を詳細に書き込んだものではない。印象に残った文章をいくつか書き溜めているだけ。一種の引用である。(引用の楽しさ)
引用する文章を自分の手で原稿用紙に書き移してゆく。確かに煩雑かもしれないが、ある瞬間、その作家や評論家の言霊のようなものが書き写すことによって、こちらに感じられる時がある。引用してもっとも楽しい瞬間である。(引用の楽しさ)
自分も引用をよくする。よくするというより引用が主の文章である。これは著者と同じで読んで印象に残った文章を書きとめる一環なのである。だからそうなる。いわば読書ノートなのである。そこに思ったことを書き加える。なぜその文章が気になったのかを書く。それが楽しい。
花に目がゆくようになったのは五十歳の頃からだろうか。若いうちは自分のことにかまけていて花を楽しむ余裕はなかった。六十歳を過ぎてからはいよいよ花が好きになる。
花が気になりだすとその名前が知りたくなる。(亡き人への祈りをこめて)
和田町(南房総市)の花作りが軌道にのったひとつのきっかけは大正十二年(一九二三)の関東大震災だったという。震災で亡くなった人の慰霊のために美しい花が求められた。
花は祈りのあらわれである。(亡き人への祈りをこめて)
花はせわしい時には目に留めることが少ないような気がする。心に、あるいは時間に余裕があるとき、またはこのように祈りに求められる。
しかし、新刊ばかり読むと次第に疲れてしまう。とくに六十歳を過ぎると十代や二十代の人が書いた小説を読むのはつらくなる。(小さな古書店)
これも同じで、この歳になると若い世代の文章は取っつきにくい。どこかこの世代の気持ちをわかろうとする無理が自分の中に生じてしまう。ストレートに感情移入ができないのだ。これは仕方がない。
著者は評論などもやっているから、毎日新刊に目を通さなければならないから、確かにきついだろうなと思う。
どうやら著者の書く文章は世代的に同感出来るところがあるようで、これはまた読みたい作家が増えた。楽しみである。
最後に読んでいて急に思い出し、驚いたことを書く。
ビール一本でいい気分になる。さっきからおじさんが携帯電話をしている。さかんに「自分は」「自分は」といっている。しかし、どうも使い方に違和感がある。あとで大阪の友人に聞いたら、大阪では「自分」は「あなた」のことだった。(大阪の商店街で)
この文章を読んだとき、「あっ」と思った。母がそうであった。私に話しかけるとき、「自分は(どうなの)?」と言っていた。「あなたはどう思うか?」ということだった。母は大阪生まれであった。ものすごく懐かしい言葉の響きである。
川本 三郎 著 『東京暮らし』 潮出版社(2008/02発売)