川本 三郎 著 『そして、人生はつづく』『ひとり居の記』『あのエッセイこの随筆』

 『そして、人生はつづく』と『ひとり居の記』は雑誌「東京人」に掲載されていた日付のない日記である。そして『あのエッセイこの随筆』は「週刊小説」という週刊誌?(よく知らない)のコラムである。

 本を読むとき、驚いたこと、気になる文章、あるいは考え込まされる文章があると、そこに付箋を貼る。そしてそれをここに書き付ける。ところが今回は違った。川本さんが紹介する本のところに付箋を付けるのが多かのと、それ以外文中に面白そうな本を紹介してくれる。これがやばい。読みたい本がますます増えてしまう。とりあえず、気になる本の書名をノートに書く。いずれ図書館で借りてこようと思っている。
 その図書館だけれど、川本さんは自宅の近くにある杉並区の図書館の対応にかなり怒っている。
 ことの発端は、本を返しに行って、そこで新しい本を借りようとして、うっかり一冊、返し忘れた本があった。そうしたら、予約が入っていない本でも、ただちに未返却者として、新しい本が借りられなくなったらしい。
 それがよほど頭にきたようで、なんども書かれている。
 それで川本さんは都内の図書館の対応はどうなのだろう、と調べている。うっかりミスにはほとんどが寛大なのだが、23区内では杉並区と江東区が厳罰主義で臨んでいるらしい。
 江東区の図書館も厳罰主義で臨むらしいことが書いてあったのでちょっと驚いた。今回、川本さんの本を含め6冊も江東区の図書館で借りてきている。
 その時1冊の本がページが破れ、セロテープで補修されていて、さらに何ページも折れがあった。そこで貸し出すときに本がそんな状態であることを書いた紙をくれ、返却するときにその紙を挟んで返してくれと言われた。こうしてくれれば返却するとき、つまらぬ濡れ衣を着せられることもないわけだ。
 ページを折るのを“ドッグイヤー”というが、私が本に付箋を貼るのと同じ理由でページを折る。あるいは栞代わりに。図書館で借りてくる本はこれをよく見かける。どうしてみんなの本なのにこんなことをするんだろうと思うことが度々だ。
 ページを破るのも、故意じゃなく、不可抗力で破ってしまった場合もあるだろうが、やはり出来る限りそうあってはならない、と思う。補修にセロテープを貼るのも問題だ。セロテープでの補修は簡単にできるが、セロテープはすぐ劣化する。そうすると変色したり、テープがバリバリになったりして厄介なのである。

d0331556_06280119.jpg 話が横にそれた。その図書館の歴史が『あのエッセイこの随筆』に書かれている。


 日本での近代的な図書館は明治五年に新政府が作った書籍館が最初という。湯島の聖堂のなかにあった。明治十三年には東京図書館と改称、その後、上野に移り、帝国図書館となった。


 さらに昔図書館で本を探す場合、作家別のカード棚があった、と書かれる。そうそう。カード式になっていて、そこに書誌が記載されていた。懐かしい。川本さんも「図書館にこれがなくなったのは寂しい」と書いている。


 さて読んだ川本さんの本である。川本さんは本は小説、エッセイ、童話、漫画、絵画、映画、散歩、さらに旅と鉄道といった具合に縦横無尽に語ってくれる。


 朝の楽しみに「電車散歩」がある。
 電車に乗って遠出をする。電車のなかで本を読む。「読書散歩」でもある。電車のなかの読書はとてもはかどる。書評の仕事で早く読まなければならない本がある時は、それを持って電車に乗る。(『そして、人生はつづく』)


 遠くまで出かけることはない。丹念に歩けば、身近かなところに忘れられた懐しい風景や見たこともない不思議な異空間が残っている。(『ひとり居の記』)


 五十代の頃房総半島が好きなり、「中年房総族」と称し、南房総をよく旅をした。(『ひとり居の記』)


 川本さんはローカル線が好きで、関東近郊のローカル線を乗りに行く。そして車窓から風景を眺めるの楽しんでいる。仕事で遠くへ出かける時なども新幹線に乗るものの、帰りは途中で乗換え、ローカル線を乗って遠回りして帰ってくる。新幹線に乗るときは本を読む。ローカル線は風景を楽しむ。時には途中下車して町中を歩く。


 『そして、人生はつづく』では、原武史さんの『震災と鉄道』という本から在来線を犠牲にする新幹線作りを批判していることを引用する。


 「新幹線が通れば、並行して走る在来線の必要は下がります。それでも在来線の途中駅の人たちは存続を望むと思いますが、過疎地であれば新幹線と在来線の両立は難しいでしょう」
 新幹線が通ることになる大きな町が新幹線の誘致に賛成すれば、それ以外の町が反対しても「故郷の発展を望まないのか」という大義名分の前に反対の声は消されてしまう。
 その結果、新幹線ができるとかえって地方の過疎化が進んでしまう。


 川本さんの本は引用が多いと自分でも書かれているが、それが楽しい。まして自分も本の引用を長くするので、こういうのは大歓迎である。そしてそこから知らなかったことを教えてくれる。


 開高健がよく色紙などに書く「明日、世界が終わるにしても今日、私はリンゴの木を植える」はルーマニアの作家ゲオルギューの言葉であることも知った。(『そして、人生はつづく』)
 

d0331556_06294664.jpg 集団就職は昭和三十年代のはじめ、東京世田谷区の商店街が人手不足を解消するため、地方の職業安定所と連携して中卒者を集団採用したのがはじまりという。(『ひとり居の記』 )


 いわき市の山里ではいまイノシシが増えて困っている。猟師に猟を頼むのだが、断れてしまう。
 というのは、イノシシは放射能に汚染されている。猟をしてもイノシシを食べることはできない。無駄な殺生になってしまう。猟師は生きものの命をもらって生きている、という考えをいまも強く持っている。(『ひとり居の記』 )


 ビデオの普及によってこういう、“新発見”が生まれるのだが、「シェーン」では冒頭、アラン・ラッドが馬に乗って少年のほうに近づいてくる場面で、よく見ると遠くの道を車が一台走っているのが、ビデオ画面でもはっきりとわかる。(『あのエッセイこの随筆』)


 たとえばモネの「日傘をさす女」。白い雲が浮かぶ夏の空の下、花咲く丘に白い夏ドレスを着た女性が日傘をさして立っている。
 この絵をよく見ると、傘の芯棒がない。手に持っているところはちゃんと描かれている。ところがその先の傘の中心につながるところがない。
 なぜなのか。省略とは違う。モネは描き忘れたのだと赤瀬川原平さんはいう。なぜなのか。モネは光を描くのに夢中だったから、芯棒のことなど忘れてしまったのだ。(『あのエッセイこの随筆』)


 西部劇の映画に自動車が走っているのが見ることが出来るなんて、驚きだけど、面白い。またモネの「日傘をさす女」の話、思わず画集を見てしまった。
 そして深く同感することも書かれている。


 以前は荒川放水路と呼ばれていたが、河川法の改正によって昭和四十年(一九六五)に荒川が正式名になった。私などの世代には、昔の荒川放水路のほうがいいのだが。(『ひとり居の記』)


 美術館に出かける。絵を見たあと、まだ、感動の余韻が冷めないうちに、ポストカードを買う。これは美術展に出かける楽しみのひとつである。複製とはいえ、名画をわずか百円ほどで“所有”できる。(『あのエッセイこの随筆』)


 散歩をしているとキンモクセイの香りがあちこちでするようになった。毎年、この濃厚な芳香に接すると、秋が次第に深まってきたなと思う。もっとも、最近の子どもたちは、この香りがトイレの消臭剤と似ているので、トイレの匂いがするというそうだが。(『あのエッセイこの随筆』)


 我が家の近くには新中川が流れている。中川放水路として覚えていたので、今はそういう名称になっていることはつい最近知ったくらいだ。そして川本さん同様、新中川より中川放水路がいい。
 美術館へ絵を見に行くと、気に入った絵や、絵画展の目玉の絵などのポストカードをいつも買う。それが楽しみでもある。川本さんのようにポストカードをはがきとして使うことはないが、それを飾り、味わっている。
 そういえば最近を絵を見に行ってないなあ。
 キンモクセイの香りはある日突然感じる。だからこの香りがしてくると、秋をすぐさま感じさせる。
 結構好きな香りであるが、確かにトイレの芳香剤に使われちゃったものだから、キンモクセイの香りは子供たちにとってトイレの匂いとなるのかもしれない。そう考えるとキンモクセイの香りをトイレの匂い消しに使うのは考えものである。

d0331556_06353033.jpg 『そして、人生はつづく』に東日本大震災が起こる。だからこの本には震災後のことが何度も書かれる。あとがきには次のようにある。


 悲劇の大きさを知れば知るほど日々の「平安」が大事に思えてくる。物書きである私にとっては、一人で暮らすことに平安を見出してゆくことになろうか。頭のなかにはともかく、暮しのなかには修羅を持ちこまないこと。静かな生活を心がけること。
 そうやって家内亡きあとの日々をやり過ごしてきたように思う。


 川本さんは2008年に奥様を亡くしている。妻を失い生活が荒れてきていると自覚したとき、自ら御飯を炊き、仏壇に御飯を供える。


 眠るのが好きだから、布団はまめに干すようにしている。
 朝起きて、おひさまが出ていると何はともあれ布団を干す。雨に降られると困るので新聞やテレビの天気予報はよく見る。テレビの予報で「今日は布団の取り込みを忘れても大丈夫です」といってくれたりするとうれしくなる。
 冬、ほかほかの布団にもぐり込む時のうれしさといったらない。布団にくるまって漫画を読んでいるうちにいつのまにか眠っている。(『そして、人生はつづく』)


 こういう些細な日常のあり方が、アクセントとなり、句読点にもなる。それが日々の平安を生む。それでも寂しくなったら旅に出る。


 一人暮らしになってから、夜、家にいるのがわびしく、以前にも増して旅に出るようになった。不思議なもので一人旅をしていると、風景のなかに身体が溶け込んでゆくためだろうか、寂しさをさほど感じない。移動は身体にいいのだろう。(『そして、人生はつづく』)


 最後に言葉について書かれた一文。


 人が使っている言葉でも、自分は使わない。文体とは、そういう「使わない言葉」を持つことから始まるといっていい。「嫌いな言葉」がある人は、それだけでもう文体を持っているといえる。(『あのエッセイこの随筆』)


 人が使っている言葉でも自分は使わない言葉がある。たとえば意識して使わないようしているのは「一生懸命」である。これを使うときは「一所懸命」と書く。詳しいことは覚えていないのだが、高校時代、現代国語の教師から正しいのは「一所懸命」だと教えられた。それを守っているのではない。「一生」というのが嫌いなのだ。そこには人生ずっと頑張っていなければならないニュアンスを感じてしまう。そして「一所」はそこで頑張っているという感じが好きで、何となく頑固そうなイメージが好きなのだ。

 朝日新聞(2017年4月26日掲載)の「時代のしるし」に川本さんの『マイ・バック・ページ』で描かれた60年代を振り返り、インタビューに答えている。その最後に、


 いま、活字の世界でも名のある書き手が随分すさんだ書き方をするなど他者への言葉遣いがとげとげしくなっている。一方政治家がとんでもないことを言っても、内閣支持率は高いままです。このままみんなあきらめて、社会への理想主義は失われて行くばかりなのでしょうか。


 川本さんが政治のことを語るのは珍しいが、確かに無神経な言葉を吐く輩が多い。政治家でもそうだし、オンラインゲームのコマーシャルでも、女性が「ぶっ込む」などと言ったりする。聞いていて腹が立ってくる。言葉は、人を貶めるし、使い方によっては醜くもなることをわかっていない。


川本 三郎 著 『そして、人生はつづく』 平凡社(2013/01発売)


川本 三郎 著 『ひとり居の記』 平凡社(2015/12発売)


川本 三郎 著 『あのエッセイこの随筆』 実業之日本社(2001/10発売)


by office_kmoto | 2017-05-08 06:44 | 本を思う | Comments(0)

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