桜木 紫乃 著 『ホテルローヤル』

桜木 紫乃 著 『ホテルローヤル』_d0331556_06193166.jpg 話はホテルローヤルをめぐる、現在から過去に遡って進む連作短編である。
 まずは現在営業をやめ廃墟となったホテルでの話、「シャッターチャンス」から始まる。そしてホテルローヤルの社長が亡くなった話「本日開店」があり、そのホテルを引き継いだ娘が営業を止めるときの話が「えっち屋」である。そしてホテルローヤルが営業開始とそのホテルの名前の由来が語られる、「ギフト」となる。その間ホテルローヤルを利用する客の話として、「バブルバス」と、ホテルの従業員の話「星を見ていた」が間に加わる。
 「せんせぇ」だけがホテルは出てこない。ただ何となく教師と教え子がこのホテルを使うんじゃないかという予感はさせる。
 さて「シャッターチャンス」である。
  貴史は地元パルプ会社のアイスホッケーの選手であったが、怪我をして引退。そして次の会社も上司とそりが合わず辞めてしまう。
 そんな貴史の要望で、加賀屋美幸は、廃墟となったホテルローヤルでヌード写真を撮られる。美幸が貴史に惹かれた理由は、


 貴史との会話に挟み込まれる挫折、負け犬、希望、夢という単語は美幸が思い描いていた未来-普通の一生を送ることができれば御の字という-の細い芯を揺さぶった。ドラマチックなひととときを持つ男のそばにいるだけで、自分も彼のドラマの一部になれる気がした。


 からであった。
 美幸がどんなポーズとっていいかわからない。貴史はバッグから投稿雑誌を取り出す。


 「俺ってガキのころからずっとスケート以外の趣味ってなかったからさ。この雑誌を見たとき、ものすげぇ衝撃を受けちゃって。なんかこう、血がたぎるっていうのかな、ようするに久々の感動だったわけ」

 「やっと見つけた目標なんだ。ここからまたスタートなんだ。もう挫折したくないんだ。あの雑誌、プロも注目していて才能があるやつはすぐに声がかかると聞いた。俺、もう1回夢をみたいんだ。撮らせてくれよ、頼むよ」

 また「挫折」という決め台詞を使う。美幸は“この男はまだ、言っているほど過去に傷を負っていないのではないか”と思う。
 だいたい投稿雑誌に恋人のヌード写真を載せる人間に才能云々を言う方が甘いから、美幸も思うことは真っ当であった。

 「本日開店」の設楽幹子は歓楽寺の大黒であった。寺は夫の父親であった初代住職が亡くなり、檀家の高齢化も進み、寺の経営が難しくなっていった。そんな中、檀家の総代から寄付の名目で老人たちの相手を務めることなる。幹子は結婚する前は介護助手だったからその行為は介護と変わらぬ行為に思えた。檀家からはお布施として三万円を受けとる。それを本尊の足元に置く。
 檀家の総代も代が替わり、総代の代表となった佐野敏夫は「まいったなぁ」と言いながら先代が始めた幹子と(寄付)行為を引き継ぐ。佐野は幹子をラブホテルではなく、ビジネスホテルに誘う。幹子はビジネスホテルを選んだ佐野を好ましく思う一方、いつもと同じ肌色の下着を着けてきたことが気になり始める。
 その日、佐野との行為は今までの老人たちの要求通りにやってきた“奉仕”とは違う快楽だ。「普通の女のように」抱かれた。これは大黒の仕事ではない、と隣で眠る夫の鼾聞きながら思うのであった。
 佐野はお布施を接待費として計上するので、相手が変わることがあると言い、幹子は毎月違う快楽が訪れる期待、不安が胸によぎる。
 檀家の青山文治の割り当ての日、幹子はホテルローヤルの社長、田中大吉が亡くなり、今際の際に「本日開店」と言って息が切れたと聞く。その田中の遺骨を元女房が受けとらないので、青山が預かった。それを幹子の寺で供養してくれと頼まれる。
 一ヵ月が経ち、また佐野の順番がやってくる。今回もビジネスホテルであった。幹子は格安衣料店でかった黒いブラジャーとショーツを着けていた。
 佐野から受けとった「お布施」の封筒はご本尊のかかとにおかれたままだった。他の檀家からの封筒は翌日消えているのだが、佐野からのものだけはひと月経っても残っていた。夫は佐野が幹子にもたらした快楽に気づいていたのだった。でもこれからもこうして生きていくしかない幹子も「本日開店」であった。
 「えっち屋」ではホテルローヤルを引き継いだ雅代の話である。
 雅代の父、田中大吉はそれまでの家族と仕事を捨てて、身籠もった愛人と始めた商売がホテルローヤルというラブホテルだった。
 父と母は雅代が物心がつくころには用がある以外は話さなくなっており、雅代が高校卒業の翌日、母は家を出て行った。元愛人が愛人を作って家を出て行ったのであった。そして雅代がホテルの管理を任される。
 ところがホテルで心中事件が起こり、客足がばったり途絶える。結局廃業するしかなくなり、ホテルで扱っていたアダルトグッズやAVビデオをエッチ屋と呼ばれる宮川に引き取ってもらう。
 今日はホテルの最終日。雅代は宮川を誘い、残ったアダルトグッズで遊ぼうと言う。それも心中事件があった部屋で。

「やり方を忘れちゃうくらい久しぶりなんだ。悪いけど」と雅代は言う。雅代はTシャツを脱ぎ、ブラジャーを外し、ジーンズも脱ぐ。へそまで隠れる肌色のショーツは残した。
 雅代はどれから使うかと訊ねられ、宮川は一番売れ筋のアダルトグッズである「ご褒美」を手に取った。雅代に宮川のからだが覆ったが、宮川は動きを止めた。


 「奥さんのこと、考えたでしょう」


 宮川は妻が初めての女だったことを告げる。


 「それって、理由になるのかぁ」
 雅代は体を曲げて笑った。彼の妻がとんでもなく幸せな女に思えて、息が苦しくなる。どんどん乾いてゆく。どんどん軽くなる。そして最後は何も残らない。残さない。
 「わたしも宮川さんのこと好きになりそう」
 「ありがとうございます。ご期待に添えず、申し訳ありませんでした」
 「安心して。期待どおりでした」
 だいじょうぶ、ちゃんと出ていける。すっきりと乾ききった胸奥に、心地よい風が吹き始めた。そよそよと明日に向かって吹く、九月の風だ。


 大切に思えるものは、明日の自分でしかなくなった。

 「バブルバス」では父親の法事に頼んでいた住職は現れなかった。寺に電話してみると手違いがあったことがわかる。恵は用意してあった五千円が入ったのし袋をバッグにしまう。車に乗ってしばらくすると「ホテルローヤル」と書かれた看板が見えた。


 「お父さん、ちょっと待って」

 「あそこ、入ろう」

 「冗談はやめてくれよ」



 恵たちの住む貸しアパートは子供たちと舅で占領され、夫の真一と恵の部屋はなかった。のし袋に入っている五千円は5日分の食費になる。息子と娘に新しい服を買ってやることもできる。舅に内緒で家族でセットメニューを頼める。1か月分の電気代にもなる。それでも引き下がれない。


 「いっぺん、思いきり声を出せるところでやりたいの」


 ホテルのバブルバスに入るのは沖縄に新婚旅行以来だった。泡の中に体を沈めていると、お金がなくても幸せだと錯覚できたあのころの自分がひどく哀れに思え、泣いてしまう。

 欲望の綱引きは、喉が渇き声もかすれたころに、唐突に終わった。


 「なんだ、俺寝ちゃったのか」
 「うん、すごく気持ち良さそうに寝てた」
 「こんなところで真っ昼間から熟睡するなんて、金がもったいないなあ」
 「熟睡してたんだ」
 「今どこにいるのか何時間眠っていたのか、さっぱりわからないよ」
 「お前、もう風呂に入ったのか」
 「うん。泡はなくなっちゃたけど。汗、流しておいでよ」


 明るい場所で夫の裸を見るのも悪くなかった。ふたりとも等しく年を重ねていることがわかる。それはそれで、幸福なことに違いなかった。


 舅が亡くなって真一と恵の寝室になった。年が暮れようとする日、恵は真一に、
スーパーでパートしようと思うと伝える。月に五万円くらいになりそうだ。

 「五千円でも自由になったら、わたしまたお父さんをホテルに誘う」
 あの泡のような二時間が、ここ数年でいちばんの思い出になっていた。
 真一は忘年会の疲れもあって寝息をたてていた。恵はそっと、夫の冷たい手を握った。


 「星を見ていた」ではホテルローヤルで掃除婦として働くミコの話だ。ミコは中学を卒業してからずっと朝から晩まで働きづめだった。三十五歳のミコを、女にしたのは正太郎だった。その正太郎も四十までは船に乗っていたが、漁船員同士の喧嘩が元で右脚の腱を痛めて船を下り、以来ここ十年どこにも働きに出ていない。二人の間には三人の子どもがいたがみんな家を出た。音沙汰があるのは左官職人に弟子入りした次男だけだった。


 「三日に一回だよ、ミコちゃん。何をやっているのか知らないけど、金がなきゃ毎回ホテルでなんかできないよ。三日に一回、真っ昼間に赤まむし飲んでシーツ汚して。誰だか知らないけど、羨ましい生活だ。わたしもたまには掃除をしなくていい部屋で思いっ切りセックスしたいもんだ」と同僚の和歌子が言う。

 「三日に一回って、多いのかい」
 「大いに決まってるじゃん。この汚しかた見なよ、立派な変態だよ」
  細い目を一杯に開いて言う和歌子に、そうかそうかと笑って応えた。そんな会話のあと、ミコは毎日毎晩下着の中のものを大きくして妻の帰りを待っている正太郎の姿を思いだし、腋から冷たい汗を流したのだった。



 ある日、ホテルに次男から手紙が届き、中に三万円が入っていた。手紙には少ないけど自由に使ってくれと書かれていた。
 ミコは母の教えをひたすら守って生きてきた。子供たちと疎遠になっても、母が「人と人はいっときこじれても、いつか必ず解れてゆくもんだ」と教わったから、子供たちの仲を心配していなかった。
 「いいかミコ、おとうが股をまさぐったら、なにも言わず脚開け。それさえあればなんぼでもうまくいくのが夫婦ってもんだから」という教えを守ってきたから正太郎と仲良く暮らせるのだと思っていた。
 ところがミコの次男坊は実は暴力団員で死体遺棄事件で逮捕のニュースがテレビで流れた。それでも和歌子も女主人のるり子も優しかった。


 「朝はちょとびっくりしたけど、ミコちゃんにはなんの罪のないことだから。今日はごめんね。明日はまた笑いながら仕事をしようね」

 「うちはこういうことで辞めてくれって言うような職場じゃないし。安心していいよ。明日もちゃんときてよね」

 帰り道、いつもと違う山道を歩いた。どこかでゆっくりと休みたい。はじめて一人になりたいと思った。寒さで手が痺れ、うとうとし始めたとき、正太郎の声が聞こえた。


 「ミコ、あんなところでお前、なにしていた」

 「星をみてた-」
 正太郎は「そうか」と言って痛めた右脚をかばいながらミコを背負い坂を下っていく。ミコもひと揺れごとに眠りに吸いこまれてゆく。なだらかな下り坂を転ばぬように歩む正太郎も、昨日より少し優しくなっている。

「ギフト」はホテルローヤルの創業時の話である。田中大吉は愛人のるり子を連れて、ホテルが建つ場所で言う。


 「るり子、すげぇだろうこの景色。ここにラブホテルなんか建てちゃったら、みんな列を作って遊びにくると思わねぇか。俺よぉ、いつかでっかい会社の社長になって、お前に楽させてやりたいって思ってんの。どうだ、俺が一発で惚れた景色、見てくれよ」


 しかし大吉は妻に逃げられる。義父からも足蹴りにされた。でもるり子は子どもが出来たというのに、女房と別れとも言わない。大吉はるり子の欲のなさに泣けてきた。


 「お前、なにか欲しいもんはないか」
 「なぁんも。とうちゃんは?」
 「俺は、なにもかも欲しいさ。商売も、お前も、金も、みんなみんな欲しい。欲しいもんだらけで頭がいっぱいだ」
 「あたしは、そういうとうちゃんがいればいい」



 大吉はつわりで苦しんでいるるり子のためにみかんを買おうと青果店に駆け込む。しかし時期的にみかんは町の青果店にはない。デパートにはあると聞く。三つのみかんが箱に入って六千円とある。大吉は値段に息を飲むが、それを買う。「安産祈願」というのしを付けてもらう。みかんにはシールが貼ってある。そこには「ローヤル」とあった。

 「よし、これでいくか」

 「るり子、お前ラブホテルの女将にならないか」

 「ちゃんと籍を入れて、俺の女房になるってことだ。腹の子が本当に女の子だったら、そりゃあ箱入りで大事に育ててやらなきゃならんだろう」
 「籍入れるって、あたしおとうちゃんと結婚できるの?」


 るり子は大粒の涙を流す。

 「なんだよ、おまえ。結婚したいならしたいって言えばよかったんだ、最初から」
 大吉は次から次へと流れる涙に向かって、包装紙の文字を指さした。
 「ホテルローヤル。どうだ。なんか格調高いだろう。エンペラーよりシャトーより、ずっと格好好いいと思わないか」



 いずれの話も普段普通の生活をしている女たちが「ホテルローヤル」でめぐる日常を描くが、時にそんな女たちが、ふと「非日常」を求める時の話である。それが普段の生活の中で急に思うことなので、日常を引きずることもある。たとえば下着の色などで。
 でもいずれの女たちもささやかな幸せを求め、そこに「ホテルローヤル」があった。


桜木 紫乃 著 『ホテルローヤル』 集英社(2013/01発売)

by office_kmoto | 2017-05-18 06:26 | Comments(0)

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