増田 みず子 著 『わたしの東京物語』

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 この本のあとがきに、「隅田川のことを、いつか、心ゆくまで書いてみたいと思っていた」と書いている。

 隅田川はわたしにとって、生まれ故郷のようなものだ。東京で生まれ育ったというよりも。隅田川のそばで生まれ育ったという方がわたしの感覚にぴったり合う。
 水が汚いのはあまり気にならない。汚れすぎて悪臭が漂っていたりするとさすがに悲しくなるが、汚れているのはありのままの姿なのだから、かまわない。

 皮肉なことに、わたしが隅田川を見ながら育った昭和三十年代から四十年代にかけての隅田川は、隅田川史上、もっとも汚れがひどかった時期に重なっている。

 バケツに水をすくいとると、何度も雑巾をゆすいだ水みたいにまっ黒だった。白秋がコレラだマラリヤだと罵った場所よりはるかに上流だったけれど、水に触ると手が腐るといわれ、隅田川に飛び込めば間違いなく死ねる、といわれた。まるで毒の川みたいないわれようだった。

 実際昭和30年代の後半には隅田川から発生するメタンガスや硫化水素で、中学校の金属のドアノブが黒くさびたというし、著者が通っていた中学校では、隅田川に面した側の窓は、風向きによっては夏でも窓を閉めておくしかなく、教室はムシブロであったという。下手に窓を開けておくとたちまち気分が悪くなり、保健室が満員になったらしい。
 隅田川が汚れていく歴史をこの本で書かれている。

 明治時代に入ってからは、維新によって社会制度がかわったのだから、沿岸風景も変わらないわけにはいかない。富国強兵という政府の方針のもとに、隅田川の岸沿いには各種の工場が次々に建てられていった。いくつかの文学作品は昔の隅田川でなくなったという嘆きと不満のこもった文章が顔を見せはじめるようになる。工場ができれば水も汚れてくる。工場は大量の地下水を使い、川に排水する。船の往来も激しくなる。工場ができれば風景が変わるだけではなく必然的に水も汚れるのである。

 川本三郎さんの『東京抒情』には工場地帯となった隅田川沿いの下町は空襲でやられたことが書かれている。

 山の手の特色が坂にあるとすれば、下町の特色は川にある。隅田川を中心に、多数の堀割が作られ、川が道路の役割を果した。水の道を船が走った。「水の東京」である。水運の便がいいので下町は、山の手が住宅地として発展するのと対照的に、工場地帯として発展してゆく。そのため戦時中、米軍に狙われた。(残影をさがして)

 そんなどぶ川みたいな隅田川を著者は故郷のようなものだと書くが、その水の黒さや動きの鈍さが自分自身のようなものに思えたらしい。さらに思春期になる頃、隅田川に高いコンクリートの堤防が築かれた。まるで自分の心を隠すようにも思えたと書く。
 隅田川がどぶ川みたいになってしまったのも、人間の業の深さと関わりがある。この本にはいかに人間が自分勝手に自然を破壊してきたか、を書いた文章があり、興味深い。

 現代の人間にとって快感となるような自然とは、そこにたまたま遊びにいってぶらぶらと歩きながら呑気な気分になれるか、あるいは遠くから眺めて美しく見える場所のようだ。人間が近づけないほどの厳しい自然であれば、人間はどうにかしてそれを征服して侵入したりよじ登ろうとしたり、そのような意欲を出させる場所になるらしい。
 人間は、自然に勝ちたいと思い、勝ってこそ人間の誇りが満足するというような存在であるらしい。
 人間という生き物が存続するために、その自然を利用するのは当然である。しかしその利用の程度というもにたいして人間はひどく鈍感で、自分たちがどこまで楽で豊になればいいのかという限界がない。自分のものになりそうならどこまでもその利権を追いかけて、とめどなく豊かになろうとする。
 それですぐ使いつくしてしまって、あとがなくなったから、ほかの人は自然を利用するのを自粛すべきだという発想に飛び移る。自分が利用しているうちは夢中で、あとのことを考えているひまがない。暮らしていかなければならないのは自分だけでなく、無数にそのような人間がいるのだから、次々に残った部分が使いつくされていくのは、人間にとっては自然の姿なのである。
 自然というのは放っておくと荒れたままになりやすい。手入れする義務のない遠くで暮らす人間にとっては関係がないが、その近くで生活しなければならない人間や、その土地を所有している人間にとってはそれでは困るわけで、何とか利用したいと考える。遠くから遊びに行ったりその自然の景色を眺めていたい人間にとっては、自然のなかで暮らさなければならない人たちのことは関係ない。どちらにしても自分の都合である。自然にとっての都合などという発想を、人間はしたことがないのではないだろうか。

 人間が生き物として異常なのは、必要というものの観念が異常なのである。

 ところで、「型」という遊びを知っているだろうか。手元に2001年2月19日の朝日新聞の切り抜きがある。足立区千住大川町の千住公園で「あそびまつり」というのが開かれ、「型屋」の前に大勢の子供が詰め寄ったとある。記事には、

 昭和三十年代に少年たちを熱中させた遊び「型屋」が、平成の世によみがえった。型屋遊びの「三種の神器」は、素焼きの「型」と粘土色粉。型抜きした粘土に様々な色付け、「型屋のおじさん」に評価されながら、手先の器用さや色彩感覚を競う「芸術」だった。昭和四十年代に入るとおじさんが姿を現さなくなり、「型屋文化」も廃れたという。

 そしてこの本にはさらに詳しく書かれている。

 型という遊びをやったりした。業者が公園に来ていて、子供たち相手に商売をする。粘土の固まりと、様々な形を抜いた凹型の素焼き板と色粉を売っている。その遊びをわたしたちは型といっていた。
 小さいのは五センチ角くらい、大きいのになると二十センチ角くらいはあったのだろうか。大小様々あり、またそこにくり抜かれている絵や文様も単純なのから複雑なのまでいろいろだった。概して小さいのは単純で大きいのになるほど複雑で凝った絵柄になっていた。動物の形が多かったように思うが、昔話の主人公やまんがの主人公、武者絵のようなものから女の子向けにはお姫様の絵などもあったかと思う。
 子供はそれを小遣いに応じて買う。もちろん大きくて複雑なのは高い。色粉も単色で売っており、金粉銀粉は高い。
 よく練りこんだ粘土を型に入れて、よく押さえてなじませ、型から抜く。そこに色の粉で採(彩?)色する。粉の種類も量もたっぷり使うとなかなか素晴らしいレリーフができあがる。
 作品は業者のところへ持っていって見せる。業者はその出来を判定して、厚紙を切ったものに得点の数字をゴム印で押したものをくれる。その点数を集めると、適当な型と取り替えてくれる。できた作品はまたつぶして次の作品に使う。よくできた作品は業者預かっておいて見本としてみんなに見せていたような記憶もある。
 そういう遊びが昭和三十二、三年頃を中心に流行っていた。単純な遊びではあるが、自分の作品が評価されて点数に換算され、その点数をためればもっといい型が手に入る、というところが魅力だったのだろう。子供たちはずいぶん夢中になって、その小さな公園に通いつめた。

 わざわざこんなに長く引用したのが、子供頃公園で型(私たちは型屋と言わず型と言った)をやったことがある。まさにこの記述通りで、とにかく懐かしい。ここでは昭和32、3年頃流行ったというが、私は昭和31年生まれだから、これをやったとすれば昭和30年代後半から40年代初頭となる。まさに著者は「型屋文化」がなくなる寸前にこれに接したことになる。
 面白いもので、私より一回り以上年上の人たちが、子供の頃の遊びや光景を思い出話として書くのを読むと、私も同じ遊びをしていたし、同じ光景を目にしていた。つまりそうしたちょっと昔にあった遊びや風物詩は私が子供の頃辛うじて残っていたようである。だからこういうのって、とにかく懐かしいし、同じ遊びや光景を共有出来るのがうれしい。

増田 みず子 著 『わたしの東京物語』 丸善出版(1995/05発売) 丸善ブックス


by office_kmoto | 2017-05-29 06:23 | Comments(0)

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