岩阪 恵子 著 『台所の詩人たち』

岩阪 恵子 著 『台所の詩人たち』 _d0331556_16451808.png

 家族の下着も家の中の床も、毎日汚れる。茶碗は使ったら洗っておかないと次のとき使えない。おなかが減るかぎり、食べ物を拵えなくてはならない。生きるというのはこういうことのくりかえしであったのか、と私はバケツのなかに魚の骨やじゃがいもの皮や茶殻を捨てながら思うのだ。
 便所掃除をしたり、週に三度ゴミを出しに行ったり、洗濯物をたたんだりするのと同じように、机に向かって原稿用紙に言葉を書き記していただろうか。とあるとき私はふと思ったのだ。なにかその二つのあいだに、私は境界線を引いていたのではないかと。それが、私が書くことから逃げていた理由のひとつではないかと。(くりかえし)

 この文章を読むと、生きることは大上段に構えて、論ずることではなくて、日常の中で繰り返されることのその繰り返しが生きることなのだ。そこにあるのは何も小難しいことではなく、極々当たり前のこと、と改めて思う。そしてそこにしっかりと立ち位置を持っている人の言うことに耳を傾けたくなる。またそういう人の言うことを求めているところもある。そういう生き方を選択し、繰り返しやっている人が尊い、と思う。

 「自然のおくりもの」にある文章が面白かった。

 空からやってくるほかのお客さんが落としていくものになかなか憎めないものがある。うちの庭の常連で木の実が好きな鳥といえばヒヨドリだから、たぶんこの鳥の糞に種が混じっているのだろう。庭のいたるところに、実生の木の芽が顔を出す。顔どころか、私の背丈の倍以上に伸びてしまったものもある。
 ナンテン、アオキ、ツゲ、マンリョウ、ピラカンサ、ネズミモチなどあちらにもこちらにもひょっくり芽を吹き出させているのを見ると、いっぺんに金持ちになったようななかなか愉快な気持ちになる。しかしそのあとこれらが全部大きくなったときの光景を想像すると、ちょんちょんと可愛らしいのを引き抜いていかなければならなくなる。(自然のおくりもの)

 他の場面で著者の庭はほとんど自然のままの状態らしいことがうかがえた。理由はこういうことだったのだろうか。
 ふと我が家の隣にある雑木林を窓越しから眺めてみると、大きな木はどうか知らないが、そのまわりに生えている木々は何となく鳥たちが運んで来たように思えた。
 我が家の庭にも、ちょこんと芽を出すものがある。これも鳥たちの落とし物中にあった種が発芽したものかもしれない。
 こういう植物たちの子孫を増やしていくやり方は、その芽にもしたたかさがあって、出て来た芽は結構しっかりとしていて、引き抜いてみると根も強く張っている。

岩阪 恵子 著 『台所の詩人たち』 岩波書店(2001/08発売)


by office_kmoto | 2017-06-13 16:46 | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


by office_kmoto