矢口 進也 著 『漱石全集物語』

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 面白い本である。夏目漱石全集の歴史が語られる。漱石は1916年(大正5年)12月9日に持病の胃潰瘍が原因で永眠した。物語はここからすぐ始まる。漱石死後1か月後には関係者が集まり、漱石全集を岩波書店から出すことが決まった。
 何故岩波書店だったのか。
 古本屋から始まった岩波書店の店主岩波茂雄と漱石の関係は有名で、『こころ』を自社で出したいと漱石に依頼に行く。漱石も岩波に資金援助までして自著を出版させる。ここの経緯は次のように書かれる。

 大倉書店、春陽堂以外の版元とはあまり関係をもたなかった漱石も、文名の高まりとともに、いくつもの出版社から本を出したいという話がもちこまれるようになった。漱石はその煩わしさを避けたい気持と、いっそ自費出版で自分の思いどおりの本を出してみようと考えて、ちょうど出版をはじめたいといってきた岩波から『こゝろ』を出すことにしたのである。岩波にとってはまたとない幸運だった。

 しかしやはり全集を出したいと考えていた春陽堂、大倉書店を無視することも出来ないので、漱石全集刊行会を岩波書店内につくり、発売元を岩波、大倉、春陽堂の三社が名を連ねることとなった。そして大正6年に漱石全集が出版される。最初の漱石全集は小包で送られてくるもので、書店を通さないものだったようだ。だから全集に挟まれる「謹告」なるものが挟まれていて、出版の遅延の説明や送料の変更など書かれていたという。これは月報のはしりと言われている。
 そしてこの全集は大正6年版が完結して、大正8年には第二次全集が刊行される。さらに関東大震災後、大正13年に第三回の全集が刊行される。さらに円本ブームに不安を感じたのか岩波は昭和3年に普及版を出版する。さらに昭和10年には漱石の20回忌に決定版として全集を出版する。
 昭和31年には新書版全集が出版される。漱石死後50年の昭和40年にも全集が出版される。

 さて、岩波が歿後50年・生誕100年記念出版として漱石全集を発行したのは12月7日である。漱石の忌日は十二月九日、この月を期しての発行だった。第一回の全集は一周忌、円本全集は13回忌、決定版が20回忌、戦後は死後30年、40年に合わせるなど、節目ごとに全集刊行を行なってきた岩波としては、歿後50年には期するところがあったのだろう。新書版で念願の普及版も刊行したあと、記念出版はいままでの成果の集大成と、原点にもどった菊判、大正期の全集の再現であった。

 今でこそ著作権の保護期間は、著者の死後50年になっているが、わが国の著作権法は、制定以来、死後30年だった。大正5年12月9日に死んだ漱石の著作権は、昭和21年12月末日で消滅する。夏目家が桜菊書院の申し出にとびついたのには、いまのうちに出さなくてはという焦りがあったようだ。
 桜菊書院とは、明治天皇奉賛桜菊会が運営する。桜菊会とは、戦時中、伊勢神宮などの神社仏閣の参拝団を編成して送り出す旅行会社のような組織で、皇国思想で国民を戦争にかりたてた軍部に便乗してかなり羽振りのよい事業を営んでいたらしい。皇室関係の多少の出版物や機関誌を出していた関係で豊富な用紙割り当てを受け、戦時中には90万ポンドとも100万ポンドともいわれる厖大な用紙を保有していた。
 その保有する紙にものを言わせ、夏目家に近づき、漱石全集を出そうと企画する。当然岩波書店は、わけのわからないところで全集など出さないほうがいいとか、出版の差し止めなど検討に入るが、桜菊書院から漱石全集が出る。
 ではなぜ夏目家は岩波と離れて桜菊書院と結びついたのか。ここにこんな文章がある。

 結局、漱石遺族と岩波とでは、漱石に対する考え方に差があって、それが年月を経過するに従ってますます開いてしまったものと思われる。自分も門弟と思い、また小宮豊隆を中心に、漱石の完全な全集を作ろうとした岩波は、漱石を崇拝する姿勢だったが、遺族にとって漱石は、言葉はよくないが「金づる」だった。全集を出しさえすれば莫大な印税が入る。その繰り返しが、全集刊行について安易な気持を生んだのではなかったのか。そのような両者の利害、いや漱石観が、著作権消滅の直前いたって正面衝突することになったのである。

 結局岩波側は折れて、桜菊書院は過剰なまでの宣伝広告を打って漱石全集の刊行に進むが、ここにさらに事件が発生する。
 夏目家は漱石の全著作を商標登録を申請する。これは「漱石」の名の付く全集、選集、作品集に商標登録することで、夏目漱石という名の付く本を出版しようとすると、著作権料はなくても、「商標」で使用料を取ろうとしたのである。この経過を読んでいると、夏目家の“えげつなさ”が出てくる。漱石の息子夏目伸六は「オヤジの著作権が今年一月からなくなるので、私が“商標権をとっておいたら幾らか生活の足しになるだろう”と出した訳で、著作権の代りにこれを商標権を出版社からもらうわけです」と言っている。
 結局出版の自由妨げるものに商標権は認められないという見解を示され、「漱石」にも商標権は認められなくなった。
 桜菊書院の漱石の全集の刊行が遅延し始め、会社は倒産してしまう。

 そして漱石の著作権が消滅して、昭和28年には漱石ラッシュとなり、いくつもの全集が出版される。

 著作権の消滅は漱石全集出版の自由化で、のべつ全集や選集が出された。

 しかし漱石の作品はどこの出版社から出版されようが、ひとつの作品は同じ作品である。そうなると本文以外のところでその全集の特色を出さなければならなくなっていく。出版社は知恵をしぼって漱石全集の特色を出していた。

 岩波の漱石全集は、ほぼ10年おきに出されている。新しい需要が生じるのがちょうどそのくらいの間隔なのか、また没後何年といったような節目に合わせたせいか、10年に一度の刊行がやや慣例化していた。没後50年記念の16巻本が出て9年、昭和49年には岩波は全17巻の全集を刊行する。

 ちなみに私も岩波の漱石全集を持っている。昭和49年版である。この全集はS図書のOさんの知り合いの古本屋さんで1万円で分けてもらった。
 確か今、岩波書店から『定本 漱石全集』が刊行されている。なんでも漱石全集の最終決定版と言っている。はたして本当にこれで最終なのか、疑問符がつく。私が本屋で働いていた頃、岩波書店が経営が厳しくなると漱石全集を出すといううわさがあった。それくらい漱石全集は岩波書店のドル箱と認識している。

 漱石全集の歴史を調べていて一番驚くのは、いわゆる「重版」が多いことである。もちろん漱石以外の作家でも、全集が何度か刊行され、重版される例はあるが、岩波が独占刊行していたときはともかくとして、戦後では、まず岩波の昭和二十二年版が昭和十年版の重版だった。創元社の作品集は東京創元社・昭和出版社版と三度出たし、創芸社の全集も初版と普及版、それに中絶した朋文堂新社版を数えればこれも三度、さらに春陽堂の小説全集、角川書店版、筑摩書房版が二度ずつ出ている。岩波の菊判全集、新書版全集も二度目を出した。漱石全集は版元にとってたいへん効率のよい商品なのである。

 それではどうして漱石が愛好されるのか?それを著者はあとがきで次のように書く。

 全集が比類をみないほどすぐれた編集で出されたことが大きく予っていたと私は考えている。すでに本文でも記したことだが、漱石全集には、漱石の書いたものをあまさず集め、収録されている。その“完璧な全集”が、つぎに出るときはまた新たな資料を加えるというふうに、研究と出版が相補って漱石像をつくりあげきた。

 まあ漱石は国民的作家だから、だれでも一つくらい作品を読んでいるだろうから、漱石好きが案外いるんじゃないかなあ、と思う。そして私も漱石は好きだ。

矢口 進也 著 『漱石全集物語』 岩波書店(2016/11発売) 岩波現代文庫


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by office_kmoto | 2017-06-26 05:44 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

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