上原 善広 著 『発掘狂騒史―「岩宿」から「神の手」まで』

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 この本はあの旧石器捏造の藤村新一がどうして出てきたか、その経緯を岩宿遺跡発見の相沢忠洋から解き明かしている。
 以前藤村新一の捏造事件そのものを取材した毎日新聞社が書いた本を読んでいる。確かそこには藤村がどのように捏造事件を起こし、それを曝いた過程が書かれていた。この本はその藤村を生むことになってしまった日本の考古学界の土壌からそれを解きあかしている。
 まずは日本に旧石器時代があったことを証明した岩宿遺蹟を発見した相沢忠洋から物語は始まる。
 1949年(昭和24年)7月、群馬県笠懸村稲荷山切通の坂を、復員服を着た若い男一人、自転車で上がっていた。坂を上り終えた辺りで、男は自転車を止め崖面を見つめた。そこで男は尖った石斧を見つける。いわゆる「槍先形尖頭器」と後年呼ばれるものである。男は相沢忠洋という。
 この石器が出た地層は関東ローム層と呼ばれる。主に富士山の噴火によって積もった火山灰である。この頃の日本は火山活動が活発で、関東ローム層には他にも鹿児島県桜島一帯で起こった姶良大噴火により噴き上げられた火山灰も含まれている。これら一連噴火によって、約一万年以上前の日本列島は、関東以西にかけて一面火山灰に覆われ、寒冷化が進み、草木も生えず、動物も人も生きていけない「死の世界」だったと考えられていた。だから当時発掘調査で関東ローム層が出てくると「ここからは何も出てこないから」といって埋め戻されていた。
 そんな「死の世界」といわれていた関東ローム層から相沢は旧石器時代の石器を見つけたのである。
 相沢はその見つけた石器を明治大学の学生でありながら新進気鋭の考古学研究者として知られていた芹沢長介に見せる。
 当時の明治大学には登呂遺跡調査主任になっていた杉原荘介助教授がいて、芹沢は相沢とともにその石器を杉原に見せる。そして杉原主導で世紀の発掘が始まったのである。

 「出たぞー、石器が出たぞッ」
 皆が驚いて杉原の元に集まってきた。
 杉原の手には青っぽい石器が握られていた。楕円形のハンドアックス(握斧)と呼ばれているもので、手のひらよりも一回り小さい。木の柄に縛りつけて使う縄文時代の石斧ではなく、手に持って振りおろして使う、より原始的な形をした石斧である。

 しかしこの発見が世紀の発見であるかどうかは、もっと大規模な発掘を待たなければならない。杉原が握斧を発見したからといってそれはすぐ日本に旧石器時代があったという証明にはならないのである。

 岩宿遺跡をさらに発掘しなければならないのはもちろん、さらに他の地域の同じ年代の地層からも、同じような石器が出てくる必要があった。
 これは数理や科学などと同じで、たとえばある学者が一つの発見をしたとき、世界中の研究機関で“追試”が行われる。そこで同じ結果が出て、初めてその発見が本物であることが証明され、発見者は称賛される。つまり岩宿以外からも旧石器が発見されなければ、旧石器時代の存在を完全に証明したことにならないのである。

 これは問題となったSTAP細胞の存在の有無でも同じであった。STAP細胞が他の科学者が作れないかったから、その存在が否定された。
 岩宿で発見された旧石器時代の石器は他の地域でも見つけられ、日本に旧石器時代があることを考古学界は認めざるを得なくなる。
 しかしここで「この発見は相澤忠洋のものなのか、それとも杉原荘介のものなのか」という問題が起こる。学界では岩宿遺跡の石器発見は相沢忠洋ではなく、杉原荘介となっていた。何故なら相沢にはその学問的権威がなく、単なる「地元アマチュア考古学者」だったからで、その石器を学術的に証明したのは杉原であった。しかも杉原の論文には相澤のことを単なる「斡旋者」としか書かれていない。
 相澤は杉原が岩宿の発見を自分のものにしようとしているとして杉原の批判を始めることとなる。杉原だけでなく明治大学も目の敵にした。
 また相沢から石器の話を最初に持ちかけられたのは芹沢も明大講師となっていたが、杉原を批判的に見ていた。もともと杉原と芹沢と水と油で、性格もまったく違うタイプであった。

 やはり「岩宿の発見」を盗られたと思ったのは相澤ではなく、芹沢の方だったと考えるのは妥当であろう。相澤の持ち込んだ石器を「これは新しい発見だ」と初めて認めたのは、何より芹沢だったからだ。

 こうして芹沢と杉原の確執が強まり、芹沢は明治大学を去り、東北大学に移る。そして芹沢は、

 芹沢は、明大を去る前から、すでに新しい研究テーマに取り組んでいた。
 芹沢は約三万年前に当たる「岩宿の発見」から、さらに数万年前遡る、日本考古学の究極のテーマである「前期旧石器」の存在に焦点を当てる。前期旧石器時代の存在を証明することを、芹沢はこの東北、仙台から始めようと考えていた。

 前期旧石器とは、もはやホモ・サピエンスの文化ではなく、原人の文化となる。日本人だけでなく人類全体のルーツに繋がる壮大なテーマであった。著者は芹沢が目指したのはもはや「神の領域」に入った考え方だと書く。
 東北大に移った芹沢は明大の杉原の対抗姿勢を強め、このテーマのために門下生、アマチュア考古学研究者を次々と登用しながら猛烈な発掘調査を始めていく。このことから藤村新一を生んでしまう土壌が準備されることなり、あの捏造騒動の幕をあげることになっていく。
 ところで考古学には独特の特色がある。

 考古学という学問の特色は、このように学歴のない者や、違う仕事につきながら考古学に関わっている在野の研究者が多いことだ。
 一つの分野を専門とするには、最低でも大学を出ているのが条件だが、考古学は発掘作業をともなうため、民間の協力を要請することが多い。また戦中には皇国史観のために研究が進まなかったことから、戦後になって爆発的な人気を呼んだ比較的新しい分野の学問が、考古学であった。大学に通って考古学を専攻できなかった学究心旺盛だが貧しい少年たちは、自分でスコップを持って発掘に参加していった。

 こうした「学究心旺盛だが貧しい少年たち」を考古学ボーイと呼ぶ。

 当時、空襲で焼け野原になった東京では、基礎工事をするたびに土器片や石器が出土していた。それらは土砂と共に捨てられるか、一部好事家の収集物になるしかなかった。現在では「盗掘」として法律で罰せられるが、当時はそのような考え自体がないため掘り放題で、農家でも開墾するたびに、あちこちから土器や石器が出土していた。
 だから自分一人で掘る分には、いや掘らなくても、畑や工事現場を注意深く監察していれば土器片や石器を採集することができた。もう少し本格的に見つけたいと思ったら、スコップ一つあるだけで金もかからない。その探究心ある少年たちは、日本各地で土器片を発掘していき、少年たちは後に「考古学ボーイ」と呼ばれるようになる。

 芹沢も戦前までは考古学ボーイの一人であった。そして彼らにとって相澤忠洋はまさに羨望の的であった。なにせ行商をしながら日本に旧石器時代があったことを証明したのだから。事実藤村新一は相澤の言動をそのままコピーの如く真似をする。
 著者は考古学という学問は「博打」的要素が強く、その分学問的裏地の少ないアマチュアが参加しやすい、と書く。

 それにしても、そもそも考古学の発見自体は、しょせん「博打」じみたものなのかもしれない。
 まず見当をつけてある地点を発掘することから始まるのだが、古代人ならここで暮らすのではないかという地形、風土から導き出した推測、そして実際の発掘によって裏付けられた経験則が重要となる。しかし、そうはいっても、どのみちそれが「勘」に頼ったものであることには違いない。
 作家松本清張は、直良信夫を描いた「石の骨」にこう記している。
 -いわば偶然の累積を基礎に学問をすすめていく考古学をすすめていく考古学者は、常に賭をしているようなものだ。偶然を拾いそこねた連中は、相手の賭の勝をなかなか承引しようとしないのだ-(「石の骨」『或る「小倉日記」伝』新潮文庫)

 学問的裏地のないということは、逆に学者にとって利用しやすい。彼らの発見を、学者という立場を利用しながら自分のものに出来る。杉原が相澤の発見を利用したことでそのことがわかる。芹沢はアマチュア考古学研究者を次々と持ち上げたことは確かだが、一方で自分の立場が変わってくれば、同じように彼らを利用し、それを自分のものとしてしまった。それを「搾取」と言ったりする。
 さて、杉原から離れ、東北大に移った芹沢は前期旧石器の石器らしきものを発見した。「らしき」と書いたのは、それが自然礫なのか人工物なのか見分けがつかないところがあるからだ。
 後期旧石器時代の石器の特徴は繊細で高度な技術が必要とされる。このような石器を作れるのは現代人と同じ容量の脳を持つ、ホモ・サピエンスしかあり得ない。ところが前期旧石器になると、石器を作ったのが原人レベルなので、そこまで器用でない。石材を選ぶ知能もない。だから旧石器時代と思われる石器がそれが石器なのか、自然礫なのか見分けにくいのだ。見る者によってそれが石器にもなり、自然礫にもなる。この曖昧さが捏造を生む。
 「層位は形式に優先する」と言った芹沢は石器らしきものが出土する地層から、その石器が前期旧石器時代のものだ、と決めていく。地層が前期旧石器時代であれば、そこに石器があれば、前期旧石器とされた。ここに目をつけたのが藤村新一であった。藤村は前日に前期旧石器時代の地層に自分持って来た石器を埋め込み、翌日さもそこに埋まっていたかのように発掘していった。
 しかし藤村は調子に乗った。何度もこれを繰り返す。一時は「神の手」などと称されたが、藤村が来れば必ず石器が見つかるのはおかしい、と疑いが出てきて、それが捏造だと曝かれたのであった。
 結局考古学界は学者と学閥の意地の張り合いと、彼らがアマチュア考古学研究者を自分に都合のいいような利用するという構図の中で、自己顕示欲の強い藤村新一という人間が出てきた、かき回されたことになる。

 藤村は捏造発覚から一年後、精神科に入院中二〇〇一年(平成一三年)一二月、罪の意識から右手の人差し指と中指を、自ら切断している。

上原 善広 著 『発掘狂騒史―「岩宿」から「神の手」まで』 新潮社(2017/02発売)新潮文庫


by office_kmoto | 2017-07-09 18:19 | 本を思う | Comments(0)

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