南木 佳士 著 『神かくし』
2017年 07月 27日
また南木さんの本を読み返してみた。この本は「神かくし」「濃霧」「火映」「廃屋」「底石を探す」の5篇の短編からなる。
「神かくし」がいい。
朝久しぶりに気分良く目覚めた。玄関に出ると、患者である老姉妹が歩いてくる。かつて自分たちの持山だった山に入り、キノコうどんを作ろうとこれから向かうところであった。
気分が良かったこともあって、老姉妹に息を切らしながらついていく。老姉妹の姉はかつて危篤状態で病院に搬送され、もう何も治療しないことにしたのだが、若い医師が、まだ息があることで、治療を始め、回復した。
その姉は退院してまた外来に見えたとき、
「なにもせずに看取ろうしたんです。吉川君が助けたんです。だから、田村さん、吉川君の外来に行った方がいいですよ」
こう言うのは、何も治療しなかったことの後ろめたさがあってこう言った。
「またその話かい。くどいねえ、あんたも。いいかい、その吉川っていう先生がわたしを助けようとしたとき、あんたは黙認したんでしょう。わたしの首を絞めたわけじゃないんでしょう。だったらそれでいいじゃない。そういう流れが自然に生まれたとき、その流れをあえて止めようとしなかったっていうのはあんたの決断でしょうが。決断ていうのはさあ、あたりをきょろきょろ見まわして、ちまちまと状況判断することじゃなくて、そういう流れの全部を、そういう流れなかに身を置いて引き受けるってことだとわたしは思うよ。ちゃんと決めたくせに、自分だけ悪者ぶるのはよくないよ。ガキっぽいよ。……なんて、診てくれる先生に言っているんだからどうしようもないのはこっちの方か。あっはっはっ」
こういう言い方が出来る人はなかなかすばらしい。こんなにはっきりと物を言われてしまうと、反論も出来ない。「あんたもくどいね」というのはいい。
その姉がキノコの場所を示しそれを取ると、それが毒キノコであった。妹がそれを責めると、彼女は言う。
「採る感触を味わってもらいたかったんだよ。わたしも毒キノコだって分かっていたけどさ、あとで教えてやればいいやって思ってたんだよ。あんたほどワルじゃないよ、わたしは。あっはっはっ」
「あんたほどワルじゃない」なんて言われちゃえば、何も言えまい。
本を書く、正確にいえば本気で虚構を書くという行為には常にうしろめたさがつきまとうものと自覚しているから、この老人にような見ず知らずの生活者と書くことについて話す気になれない。
ここで昔、大学の名誉教授の肩書きを持つ老病理学部長との会話が描かれる。
「先生はなぜ医学部に進まれたんですか」と尋ねると、本当は数学科に進みたかったと言う。「後悔しておられないんですか」と聞けば、
「起きてしまった出来事はそれをそっくり身にまとうしかありません。そうやってみんなとんでもない老人になってゆくんです」
と答える。
「火映」は亡くなった高校時代の同級生が残した小説の話であった。小説自体大したことがない。ただ彼の生原稿が亡くなった人間の高揚や息づかいを感じさせ、その肉筆が迫ってきた。
なあ、山内、おまえ、なんで小説なんか書いたんだよ。送られてきたのが理解不能な専門用語にあふれた医学論文だったら、こんな不眠に悩まされなかったはずなのに。なあ、山内、なんでだよう。
亡くなった友人の書き残した生原稿を読むのはこたえるだろうなあ、と思う。
その小説はどうっていうことはない。なんでこんなものを書いたのか、わからなかった。
人間五十年というのは寿命のことばかりではなく、己の過去を夢まぼろしと認識できるようになるまで少なく五十年はかかる、との意味なのではないか。
先の老病理学部長の言葉、そしてこの文章にしても、こう人生を悟りきった語り口は、単に諦めとして片づけられないところがある。そこには、こうとしか生きられなかったのだという感慨があるような気がする。戻ることもやり直すことも出来ない。ただそれを肯定するしかない年齢にしか言えない言葉のように思えてならない。誰だって好きでそうなったわけじゃない。そこにはいくつか軌道修正され、受けとめて生きてきた人の重みがそこにはある。
今さら夢とか希望とか持ち出されても困惑してしまうし、それを己と同様の年代の人が大声で言うことに胡散臭さを感じてしまう矮小さがなくはないが、そこには自虐的にならざるを得ないほど、苦労や数多くの諦念があるからそうなる。それが悲しくて仕方がない。
さらにそこに家族、親戚、友人知人の死を聞かされることの多くなる年齢であることも思い知らされ、余計にこれまでの人生、残されている時間など考えてしまうのである。自分がそういう年齢になっているものだから、それがものすごく心に浸みる。
南木 佳士 著 『神かくし』 文藝春秋(2002/04発売)